第二十八話 十七歳のプロポーズ
明日の朝、ピーコック村へ帰る。
そう決まったのは、昼前のことだった。結界が解けたという知らせを、妖精たちが運んできたのだ。
荷物といっても、ほとんど何もない。借りた服を畳み、書き溜めた診療記録をまとめ終えた頃、扉を叩く音がした。
「エリー。ちょっと、いいか」
オジーだった。いつもより硬い顔をしている。
連れて行かれたのは、城の裏手にある小さな庭だった。手入れのされた生垣の向こうに、夕暮れの城壁が見える。
「明日、帰るんだよな」
「うん」
「また来るって、言ったよな」
「言ったよ。ミラさんの経過も診たいし」
オジーは頷いて、それから少し黙った。
「エリーは、いつか元の世界にも帰るんだろ」
思いがけない問いに、江理は言葉に詰まった。
「……帰れる方法があるなら、帰りたい。家族もいるから」
正直に答えた。嘘をつく理由がなかった。
オジーは、江理の顔をじっと見ていた。何かを確かめるような目だった。
「ピーコックなら、行けばいい。馬で行ける」
「うん」
「でも、元の世界に帰ったら、もう会えないんだろ」
江理は答えられなかった。その通りだったからだ。
しばらくの沈黙のあと、オジーが懐から小箱を取り出した。
黒ずんだ革張りの、掌に収まるほどの箱だった。角の革は擦り切れ、留め具の金具も色褪せている。それでも作りの良さは、素人目にも分かった。
蓋が開くと、色の褪せた絹の上に、指輪が納まっていた。
深い青の石が、夕陽を受けて静かに光っている。周りを小さな透明な石が取り囲み、台座には細かな彫りが入っていた。
「わ、綺麗……」
――ケースまで、ずいぶん立派だな。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
「江理。俺と結婚してほしい」
あまりに唐突で、江理は数秒、言葉の意味を取り違えていた。
「……え?」
「俺と結婚してくれ」
繰り返されて、ようやく理解する。
「オジー、ちょっと待って。私、いくつだと思ってるの。オジーより十も上だよ」
「知ってる」
「知ってるって」
「それが何か関係あるのか」
まっすぐな目だった。冗談でからかっている顔ではない。
江理は困り果てて、それでも相手を傷つけない言葉を探した。
「オジーは、まだこれからいろんな人に会うよ。だから――大人になって、それでも私と結婚したいって思ってたら、そのときもう一度言って」
「俺はもう大人だ」
「はいはい」
軽くあしらったつもりだった。
「じゃあ、それまで持ってて」
オジーが指輪を差し出してくる。
「え、いいよ、そんな大事そうなもの」
「持っててくれないと困る」
押し問答の末、江理は根負けした。子供が宝物を預けたがっているようなものだ、と思った。
「分かった。預かっておくね」
「左の薬指につけて」
「……そこ?」
「そこ」
妙にこだわるな、と思いながら、江理は左手の薬指に指輪を通した。驚くほど、ぴったりだった。
夕食の席は、いつもと様子が違っていた。
長い食卓に、真っ白な布が掛けられている。銀の燭台が等間隔に並び、食器も、普段の木の器ではなく、磨き上げられた銀器だった。
――送別の食事だから、かな。
そう思いながら席につく。運ばれてきた料理は、豪華絢爛というより、順序よく整えられていた。澄んだスープ、香草を利かせた肉、焼いた野菜、焼きたてのパン。最後に果物と菓子が控えているのが、並びだけで分かる。
問題は、料理ではなかった。
ライリーのナイフとフォークの扱いが、まるで澱みない。病み上がりのミラの所作も、静かで無駄がない。マーサに至っては、席についた瞬間だけ、別人のように品があった。
そして、江理の隣に座ったオジーまでが、江理より遥かに完成されたテーブルマナーで食事を進めている。
――いや、待って。
なんで山賊一家が、私よりテーブルマナーいいの?
城壁の街。公爵の城。王宮の医者を知るマーサ。王国軍と戦った過去。そこに、この所作が加わる。
――やっぱり、この人たち。本当にただの山賊じゃないんじゃ……。
「江理先生」
ミラの声に、江理は我に返った。
「今日まで、本当にありがとうございました」
「いえ、そんな」
「先生には、元の世界にご家族がいらっしゃるのでしょう?」
「はい。帰れるなら……やっぱり、帰りたいです」
正直にそう答えると、食卓が少しだけ静かになった。オジーは何も言わず、皿に目を落としている。
その沈黙を破ったのは、ミラだった。
「オスカー」
いつも穏やかな声が、わずかに硬い。
「その指輪……江理先生に渡したの?」
全員の視線が、江理の左手に集まった。
「うん」
オジーが、あっさりと頷く。
「え?」
江理だけが、事態を掴めずにいた。
「…………お前」
ライリーが、フォークを置く。マーサは指輪を一瞥して、深く息を吐いた。
「そういうことかい」
「何がです?」
江理の問いには誰も答えない。
「オスカー。ちゃんと江理先生に説明したの?」
「した」
「結婚してほしいって言われました」
江理がそう言った瞬間、かちゃん、と誰かの食器が止まった。
「……お前、求婚したのか」
「した」
「先生は」
「指輪を受け取ってくれた」
「いや、ちょっと待ってください」
江理は慌てて両手を振った。
「大人になって、それでも気持ちが変わらなかったら、もう一回言ってねって話ですよ?」
「だから受け取っただろ」
「預かってるだけ!」
「しかも左手の薬指かい」
マーサが、呆れたように呟く。
「オジーが、ここにつけてって言ったので」
食卓が、しん、と静まり返った。
ライリーは怒鳴らなかった。ただ、息子の顔を正面から見た。
「本気なのか」
「本気だ」
それから江理に向き直る。
「先生。こいつに付き合う必要はないからな」
「いや、私もそういうつもりでは……」
「俺はそういうつもりだけど」
オジーがすかさず口を挟み、江理は頭を抱えたくなった。
「江理先生」
ミラが穏やかに続ける。
「指輪を返してほしいという意味ではありません。ただ、オスカーが勝手に決めたことですから、あなたが困る必要はありませんよ」
「ありがとうございます……」
「まあ、持っておきな」
マーサが杯を傾けながら言った。
「どうせあの子は、言い出したら聞かないよ」
ライリーがもう一度、指輪に目をやった。
「……よりによって、それを選んだのか」
「そんなに高いんですか?」
「…………まあ、高いな」
「えっ」
「値段を聞かない方がいいよ」
マーサの一言に、江理は自分の左手を見下ろした。青い石が、燭台の灯りを受けて、静かに輝いている。
「怖いんですけど」
誰も答えなかった。
賑やかなようで、どこか落ち着かない晩餐が終わる頃、江理はもう一度、この一家の顔を順に見た。
求婚のことも、確かに困っている。
けれどそれ以上に、頭から離れないことがあった。
――この人たち、本当に何者なんだろう。
答えは、まだ出そうになかった。




