第二十七話 山賊たちの診療所
朝の診察を終えて、江理は聴き終えた胸から手を離した。
「熱は下がりましたね。呼吸も、だいぶ楽になってます」
ミラは、初めて会った日とは別人のように、はっきりとした目で頷いた。頬にもわずかに血の気が戻っている。
「もう大丈夫なんだよな?」
枕元のオジーが、身を乗り出すようにして聞いてくる。
「良くなってる。でもね、『良くなってきた』と『治った』は違うから。咳が残ってるうちは、まだ安静」
「……分かってる」
少しムッとした顔で、オジーが引き下がる。
部屋の入り口では、ライリーが腕を組んで立っていた。
「世話になったな、先生」
「マーサさんの薬と、看病がちゃんとしていたからです。私は診ただけですよ」
江理がそう答えると、ライリーは何か言いかけて、結局、短く鼻を鳴らしただけだった。
廊下に出て、江理は足を止めた。
城の出口の方に、何人かの人影がある。江理と目が合うと、気まずそうに視線を逸らす者もいた。
「何か、あったんですか?」
「……お前のせいだ」
後ろから来たライリーが、微妙な顔で言う。
「頭の奥方を診た医者がいる、とな。おまけに、ピーコックにいる傷を縫う女医と同じやつらしいと、誰かが気づいた」
先頭にいた男が、おずおずと前に出た。
「あの、先生。俺も診てもらっていいか」
「……ここで?」
江理はライリーの顔を見る。
ライリーは好きにしたらいいと言い、自室に戻っていった。
結局、マーサのアトリエの一角を借りることになる。ピーコック村の診療所と比べれば粗末な即席の場所だが、必要なものはすべて手の届くところにある。
「訓練で手首をひねっただけなんだが、二日経っても痛みが引かなくてな」
剣を振っているという青年の手首を確かめる。腫れは軽いが、特定の向きに動かすと痛むらしい。
「骨には異常がなさそうです。しばらく強く握る動作を控えて、固定しておきましょう。マーサさん、炎症を抑える湿布用の薬草を」
「これだね。ああ、そいつには量を半分にしな」
「半分?」
「若いのに肌が弱い。前にうちの傷薬で赤くかぶれた」
江理は目を丸くした。薬の効能だけでなく、一人ひとりの体質まで頭に入っている。
「……覚えておきます」
逆に、器具を扱う手順については江理が口を出した。同じ布を続けて使わないこと、傷に触れる前に必ず手を洗うこと。マーサは面倒がりもせず、素直に頷いていた。
三人目の患者を診ている間、オジーはずっと横で見ていた。
「俺にも何かできることあるか」
「じゃあ、次の人を呼んできて」
「それだけ?」
「大事な仕事だよ。順番を間違えると、急いでる人が後回しになるから」
不満そうな顔をしながらも、オジーは律儀にやってくれた。そのうち、名前と症状を先に聞いて江理へ伝えたり、水を運んできたりもする。本人は「手伝ってやっている」という顔を崩さないが、助手としての手際はよほど良かった。
最後の患者は、荷運びで肩を痛めたという中年の男だった。
上着を脱いでもらったとき、江理の手が止まった。
肩から背中にかけて、白く盛り上がった古い傷跡がいくつも走っている。刃物によるものだと、一目で分かった。
「これ、ずいぶん昔の傷ですよね」
「ああ。王国軍とやり合ったときのだ」
「……王国軍?」
男が、しまった、という顔をした。
「余計なことまで喋るんじゃないよ」
奥から、マーサの声が飛んでくる。穏やかな言い方だったが、有無を言わせない響きがあった。
男は肩をすくめ、それきり口をつぐむ。江理も、それ以上は聞かない。
――王国軍と、戦ったことがある。
公爵の城。王宮の医者を知るマーサ。そして、王国軍と渡り合った過去。
点はまた一つ増えたが、それをつなぐ線は、やはり見えないままだった。
夕方、診療を終えて片付けをしていると、ライリーが顔を出した。
「随分診たな」
「放っておけないので」
「金を取ればいい」
「……お金」
言われて、江理は初めて気づいた。ここでの診療について、報酬の話を何も決めていない。
「ピーコック村では、払える人からは決まった額をもらってました。難しい人は、野菜とか卵とかで」
「卵か」
「はい」
ライリーが、面白いものを見るような目をした。
「変な医者だな」
「よく言われます」
ライリーは笑いを噛み殺すようにして、それから続ける。
「ここにいる間、必要なものがあれば言え。薬でも道具でも、人でも用意する」
江理は少し考えて、頭を下げた。
「じゃあ、紙をください」
「紙?」
「診療記録を作ります」
ライリーはしばらく黙ってから、呆れたように首を振るだけだった。
その夜、江理は借りた紙を机に広げ、その日診た人たちのことを書き留めていた。名前、症状、処置、次に診るときに確かめること。
「それ、全部今日の人?」
いつの間にか、オジーが覗き込んでいた。
「そう」
「覚えてるのに、なんで書くんだ」
「私がいなくなっても、次に診る人が分かるように」
オジーが黙り込む。ペンの走る音だけが、しばらく部屋に響いた。
「……帰るんだよな」
「うん。結界が解けたら」
少しの間。
「でも、マーサさんに言われたんだ。帰ったって、また来ればいいって」
オジーの顔が、わずかに明るくなる。
「じゃあ、来ればいいじゃん」
「簡単に言うね」
「簡単だろ。道、覚えただろ」
江理は笑って、紙に最後の一行を書き足した。
「じゃあ、また来るね」
「絶対だぞ」
「うん。約束――」
最後まで言う前に、腕を掴まれた。
「え?」
ぐい、と引かれる。
次の瞬間、江理はオジーの胸元にぶつかっていた。
背中に腕が回る。
「……オジー?」
返事はなかった。
ただ、思っていたよりずっと強い力で抱きしめられている。
江理は戸惑ったまま、目の前の胸元を見つめた。
近い。
近すぎる。
十五、六歳くらいだと思っていた少年は、こうしてみると江理より背が高い。肩も、腕も、思っていたよりしっかりしている。
「ちょっと、どうしたの」
「……別に」
「別にって」
言いながら、抱きしめる腕は緩まない。
江理が顔を上げようとすると、オジーはようやく我に返ったように腕をほどいた。
ぱっと一歩離れる。
その顔は、耳まで赤くなっていた。
「……絶対、来いよ」
「え?」
「また来るって言っただろ」
「言ったけど」
「じゃあ、来い」
それだけ言うと、オジーは江理と目を合わせないまま扉へ向かった。
「オジー?」
「寝る」
「急だね」
「うるさい」
扉を開けてから、オジーは一度だけ振り返った。
「……約束だからな」
「うん。約束」
今度こそ江理が答えると、オジーは小さく頷いて出ていった。
扉が閉まる。
「……何だったんだろう」
一人になった江理は、自分の身体に視線を落とした。
ほんの数秒前まで、背中にあった腕の感触が妙に残っている。
「十七歳、なんだよね……」
口にしてから、自分で首を傾げた。
母親が病気になって、不安だったのだろう。
ようやく良くなってきたと思ったら、今度はその医者が帰ると言い出した。
だから、少し心細くなった。
「……そういうことかな」
江理はそう結論づけると、机の上の診療記録へ向き直った。
けれど、続きを書こうとして。
一度だけ、閉じた扉を振り返った。




