第二十六話 城塞の先生
「もう少し、細く。蛇口をひねるくらいの感覚で」
マーサのアトリエで、江理は器の上に手をかざしていた。
昨日は止めようもなく溢れた水が、今日は糸のように細く落ちていく。途中でふっと途切れ、また慌てたように勢いを増す。
「ほら、また揺れた」
「難しいんですよ、これ」
「医者なら、たくさん出せりゃいいってもんじゃないだろ」
マーサの言葉に、江理は手を止めて頷いた。
「確かに。傷を洗うなら、必要なのは量より調節ですね」
「分かってるなら、続けな」
妖精たちが器の縁に並び、落ちる水を面白そうに覗き込んでいる。
扉の方から、呆れたような声がした。
「昨日よりはマシになったな」
オジーだった。いつの間にか戸口にもたれて、江理の手元を眺めている。
「先生みたいに言わないで」
「魔法は俺の方が先輩だろ」
「え、オジーも使えるの?」
「少しだけな。ばあちゃんに叩き込まれた」
得意げな顔に、江理は苦笑した。
その時、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「マーサさん! ちょっと来てくれ、鍛冶場で火傷だ!」
マーサは立ち上がりかけて、江理を見た。
「行ってみるかい、先生」
「もちろんです」
城の外へ出て、江理は初めて、患者を診るためにこの街を歩いた。
パン屋の窯から香ばしい匂いが漂い、路地では子どもたちが駆け回っている。井戸端では女たちが洗濯物を絞り、年寄りが日向で豆の莢を剥いていた。
――やっぱり、山賊の根城って感じじゃないんだよなあ。
鍛冶場では、若い職人が顔をしかめて右手を押さえていた。
「見せてください」
手のひらから指の付け根にかけて、皮膚が赤く腫れている。一部には小さな水疱もでき始めていた。
「まず冷やしましょう。できれば水を流し続けたいんですけど……」
言いかけて、江理は自分の手を見た。
そして隣にいるマーサを見る。
「マーサさん、水を細く出し続けることってできます?」
「それくらいならできるさ」
「冷たすぎない水でお願いします」
マーサが職人の手の上に手をかざす。
ほどなくして、緩やかな水の流れが赤くなった皮膚を伝い始めた。
「しばらく、このままで。痛みが引いてくるまで、しっかり冷やします。水ぶくれは潰さないでくださいね」
「へえ……こんなふうに使うのか」
マーサが流れる水を眺めている。
「魔法って便利ですね」
「あんたが言うのかい」
「昨日覚えたばっかりなんですよ!」
周りの職人たちが噴き出した。
十分に冷やしたところで、江理はもう一度患部を確認した。
幸い、ひどく深い火傷ではなさそうだ。
その間に、マーサが持ってきた包みを開いた。
「これは?」
「炎症を抑える葉だよ。すり潰して、火傷にも使う」
「なるほど……。じゃあ、状態を見ながら使ってみましょう」
江理が状態を見て、マーサが薬を選ぶ。
どちらか一人では、ここまで迷いなく進めなかったはずだ。
処置を終えると、職人はまだ少し痛そうにしながらも、照れくさそうに頭を下げた。
「助かったよ、先生」
「今日はできるだけ、その手を使わないでください。痛みが強くなったり、水ぶくれが大きくなったりしたら、すぐに呼んでくださいね」
「ああ、分かった」
治療を終えて鍛冶場を出ようとしたところで、戸口に年配の女性が立っていた。
「あの……先生がいるって聞いたんだけど」
「マーサさんなら、こちらに」
「いや、あんただよ。ピーコックから来た先生」
「……私?」
ミラを診た女医がいる。
マーサ婆さんと一緒に薬を作っているらしい。
そんな噂が、たった二日のうちに街を回っていたらしい。
女性は重い荷物を運ぶ仕事をしていて、しばらく前から肩が痛むという。
江理は腕を上げてもらい、痛む場所や動かしにくさを確認した。
「熱を持っている感じはないですね。しばらくは、重いものを片方の肩だけで担がないようにしてください。それから、痛みが強くなったり、腕が上がらなくなったりしたら、また診せてください」
マーサが温湿布に使う薬草を分けると、女性は何度も礼を言って帰っていった。
続いて、膝を擦りむいた男の子が母親に連れられてくる。
「洗うから、ちょっとだけ我慢してね」
江理は手をかざした。
さっきマーサがやったように。
細く、一定に――。
「これくらいなら……」
そう思った瞬間。
ざばっ。
勢いよく溢れた水が、男の子の膝どころか、靴までずぶ濡れにした。
「…………」
「ごめん」
「下手だな」
後ろでオジーが言う。
「うるさい」
男の子が泣き出す前に笑い出したので、江理はほっと息をついた。
今度は慎重に水を出して傷についた汚れを洗い流し、清潔な布を当てる。
「はい、終わり。今日はあんまり走り回らないでね」
「うん!」
元気よく返事をして母親と帰っていく男の子を見送り、江理は立ち上がった。
ふと気づくと、オジーが少し離れたところから、じっとこちらを見ていた。
「エリーって、誰でも診るんだな」
「患者さんならね」
「敵でも?」
江理は少しだけ考えた。
「目の前で死にそうなら、たぶん診る」
オジーは何も言わなかった。
ただ、その答えを確かめるように、江理の顔をしばらく見ていた。
日が傾き始めた頃、最初の火傷の職人が、仲間を連れて礼を言いに来た。
「先生、結界が消えたらピーコックへ帰っちまうんだろ?」
「はい」
そう答えると、職人たちの顔が少しだけ曇った。
「でも、また来ますよ。ミラさんの経過も診たいし、マーサさんにも、まだ教えてもらいたいことがたくさんありますから」
「本当か!」
「約束ですよ、先生」
嬉しそうに去っていく背中を見送りながら、江理は遅れて気づいた。
――あ。
私、今、また来るって言った。
考えるより先に、口から出ていた。
城壁の向こうに、夕陽が沈んでいく。
石畳を行き交う人々の中に、今日診た顔がいくつも混じっていた。
昨日までは、結界が解けるまで過ごすだけの場所だった。
けれど今は、診た人たちの顔が浮かぶ場所になっている。
「また来ます」
もう一度、小さく口にしてみる。
その言葉は、不思議なくらい自然だった。




