第二十五話 また来ればいい
翌朝、窓の外から、聞き慣れた声が飛び込んできた。
『エリー! ただいまー!』
ノアだった。その後ろから、ほかの妖精たちも次々に部屋へなだれ込んでくる。
「ノア! おかえり。アイリス、どうだった?」
『あのね、アイリスもフィンも元気! あの葉っぱ、パール村にもあるって。使い方も、マーサと同じでいいって!』
江理は胸を撫で下ろした。マーサのやり方で間違っていないと、アイリスも言ってくれている。
「ピーコック村は? マイミさんたちは」
『へいき!』
答えたのは、ピーコック村の方から戻ってきたミトだった。
『エイトはけがしてるけど、ちゃんと寝てる。テオがみてる。マイミはつかれて、ずっとねむそう。でもみんな、へいき』
『はたけのおやさい、すごくおおきくなってた!』
ロトが得意げに付け加える。結界の中では、作物がよく育つらしい。
江理はしばらく、何も言えなかった。
あの夜から、ずっと胸の奥に張りついていたものが、ゆっくりとほどけていく。
「……よかった」
小さく呟いた声が、自分でも驚くほど震えていた。
『エリー、なかないで』
「泣いてないよ」
目元を指で押さえながら、江理は笑った。
身支度を整えて、ミラの寝室へ向かう。扉の前では、オジーが落ち着かない様子で行ったり来たりしていた。
「エリー。母上、今日はどう?」
「今から診るところ。一緒に入る?」
オジーは頷き、江理の後ろについてきた。
ミラは昨日より少しだけ、はっきりとした目で江理を迎えた。額に手を当てると、まだ熱はあるものの、昨夜ほどの熱さではない。胸の音も、湿った響きがわずかに和らいでいた。
「昨日より、熱が少し下がってますね。咳はどうですか」
「夜中に、何度か。でも、少し楽になりました」
かすれた声だったが、言葉ははっきりしている。
「このまま、水分とお薬を続けましょう。まだ無理はしないでくださいね」
ミラが小さく頷くと、隣でオジーが、ほっと息を吐いた。
「……よかった」
ぽつりとこぼれたその声は、さっきの自分の声とそっくりだった。江理は何も言わず、オジーの肩を軽く叩いた。
オジーは一瞬、子供扱いされたとでも言いたげな顔をしたが、何も言わずに母親の方へ視線を戻した。
ミラの様子を診たあと、江理はまたマーサのアトリエを訪ねた。
マーサは作業台で、熱冷ましの薬を煎じているところだった。
「来たね。ちょうどいい、手を貸しな」
言われるまま、刻んだ薬草を鍋へ移す。マーサは鍋に手をかざすと、ほんの少しだけ目を細めた。
すると、鍋の中の湯が、一度に沸き立つことなく、静かに、均一に温まっていく。
「……今の、魔法ですか?」
「そうだが?」
マーサは、何を当たり前のことを、という顔をした。
「強い火で一気に煮ると、薬草の効き目が飛ぶ。だから、ゆっくり温める。魔法を使った方が、加減がしやすいのさ」
江理は鍋をまじまじと見つめた。薬を作るための、ごく普通の道具として、魔法がそこにあった。
それにしても、この人たちは何者なのだろう。
山賊と呼ばれているのに、城壁に囲まれた街で暮らし、公爵が使っていた城を譲られている。マーサは薬師として並外れた知識を持ち、王宮の医者の噂にまで通じているらしい。
――何か、事情があるんだろうな。
そう思っても、この国のことをほとんど知らない江理には、それ以上考えようがなかった。
「あんたはどれくらい使える?」
「私ですか。少しだけ、マイミさんに教わりました。水を出したり、乾かしたり、それくらいです」
「やってみな」
マーサに促され、江理は手のひらを器の上にかざした。意識を集めると、指先から、水がこぼれ落ちる。
――あれ。
ピーコック村で試したときは、数滴がやっとだったはずだ。それが今、器の半分ほどまで、一気に満ちていた。
「わっ、止まらない」
慌てて手を引っ込めると、水はようやく止まった。
マーサは器の水面を眺め、それから江理の顔をじっと見た。
「……あんた、自分で思ってるよりずっと力があるね」
「え? でも、前は数滴しか出なかったんです」
「そりゃ、出し方を知らなかっただけだろう。力そのものがなかったわけじゃない」
マーサは器を脇へ押しやった。
「ただ、使い方をまるで知らない。蛇口の壊れた水瓶みたいなもんだ」
遠慮のない言い方に、江理は苦笑するしかなかった。けれど、的確だった。
「薬を扱うなら、魔法も覚えな。加減ができれば、あんたの医術と合わせて、できることがずっと増える」
その言葉に、江理の胸がわずかに高鳴った。煮沸の温度を保つこと。清潔な水を作ること。傷を洗うこと。思いつく使い道が、次々に浮かんでくる。
けれど、同時に一つのことを思い出して、江理は口ごもった。
「でも、私、結界が解けたらピーコック村に帰りますよ?」
「だから何だい」
「え?」
マーサは鍋から目を離さないまま、事もなげに言った。
「帰ったって、また来ればいいだろ」
江理は、しばらくその言葉を飲み込めずにいた。
帰る、というのは、ここを去ることだと思っていた。ピーコック村へ戻れば、この城塞で過ごした日々は、それで終わりになるのだと。
「……また、来ていいんですか」
「来たくなけりゃ、来なくていいさ」
素っ気ない返事だった。けれど、マーサの口の端は、ほんのわずかに上がっていた。
江理は器の中の水を見つめた。自分の手から、止めようもなく溢れ出た水。
「じゃあ、教えてください。止め方から」
「そこからかい」
マーサが、声を立てて笑った。
作業台の隅では、ノアたちが鍋の湯気の周りをくるくると回っている。
窓の外には、今日も城塞の朝が広がっていた。




