第二十四話 マーサのアトリエ
ミラの容体を確認したあと、江理はマーサに連れられて、城の外れにある一室へ向かった。
「ここが、私の仕事場だよ」
扉を開けた瞬間、江理は目を見開いたまま立ち尽くした。
薬を作るところ、という程度の想像だった。だが、目の前に広がっていたのは、それをはるかに超えた光景だった。
壁一面に並んだ乾燥棚には、見たこともない薬草が種類ごとに束ねられ、丁寧に吊るされている。作業台には、すり鉢、天秤、何十本という保存瓶。奥には、複雑な形をしたガラス管が組まれた、蒸留のための装置らしきものまであった。
部屋には、独特の匂いが満ちていた。苦みのある薬草の香りに、かすかに甘い蜜のような匂いが混じっている。
――ピーコック村の診療所より、明らかに充実してる。
「な、驚いただろう」
マーサが得意げに笑う。
「これ……全部、マーサさんが?」
「代々、受け継いできたものもあるがね。私の代で増やしたものも多い」
棚の一つを指差しながら、マーサが説明を始めた。
「これは熱冷まし、これは傷薬、こっちは眠気覚まし。組み合わせ次第で、色々なものが作れる」
その説明は、江理が思っていた「昔ながらの民間療法」とは、少し違っていた。効能、使う分量、他の薬草との組み合わせによる作用の変化。まるで、現代の薬学の講義を聞いているようだった。
「マーサさん、これ、どうやって覚えたんですか」
「若い頃、あちこちを渡り歩いてね。色んな土地の薬師から教わった。あとは、自分で試して、失敗して、また試して」
こともなげに語るマーサの言葉に、積み重ねてきた年月の重みを感じた。
「この装置は?」
江理が蒸留器を指すと、マーサは満足げに頷いた。
「薬草の成分を、もっと純粋な形で取り出せる。魔道具屋に特注して作らせたのさ」
「魔道具、ですか」
「ああ。この世界には、あんたの世界にはない道具もある。逆に、あんたの世界の知識で、こっちにないものもあるだろう」
その言葉に、江理ははっとした。
「あの、一つ聞いてもいいですか。傷薬を作るとき、器具はどうやって清潔に保ってるんですか」
「清潔?」
マーサが首を傾げる。
「使う前に、水でざっと洗うくらいだが」
「もし煮沸消毒――熱いお湯にしばらく浸けてから使うようにしたら、化膿する傷が減るかもしれません。目に見えない、悪さをする何かが、熱で弱るので」
江理がそう説明すると、マーサは意外そうな顔をしてから、興味深そうに器具を見つめた。
「目に見えないもの、ね。……面白いことを言う」
「今度、試してみてもらえますか」
「ああ、やってみよう」
マーサが頷く。その表情には、疑いよりも、素直な好奇心の方が強く見えた。
「じゃあ、お互いに教え合えたら……」
「そういうことだ」
マーサがにやりと笑う。
「エイト・クロフォードだったか。元王宮付きの名医だろう? あれも似たようなことをピーコック村でやってるんだろうさ。なら、あんたにもできるはずだ」
「マーサさん、エイト先生のこと知ってるんですか?」
「名前くらいはね」
江理は、わずかに首を傾げた。
――この人、どうしてそんなことまで知ってるんだろう。
口に出しかけて、やめた。今は、目の前の棚の方がよほど気になっていた。
その時、扉の向こうからオジーが顔を覗かせた。
「マーサばあちゃん、エリー、何してるんだ?」
「薬の話だよ」
「俺にも分かるって」
そう言いながら、オジーは部屋へ入ってくると、二人のやり取りを興味深そうに眺め始めた。どうやら、このまま話を聞いていくつもりらしい。
江理は棚を見渡しながら、改めて実感した。
自分は、この世界の医療について、まだほとんど何も知らない。
現代の知識さえあれば、どんな場面でも通用すると、どこかで思っていた気がする。だが、目の前には、何十年もかけて積み上げられた、もう一つの医療の形があった。
「マーサさん、教えてもらえますか。この薬草のこと、全部」
「全部は無理だろうさ、一日じゃね」
からかうように言いながらも、マーサの目は嬉しそうだった。
「だが、いいだろう。せっかく来たんだ、ゆっくり教えてやるよ」
その日から、江理とマーサの間に、新しい関係が始まった。
教える者と、教わる者。
けれど、それだけではない。江理が持ってきた現代の知識も、マーサにとっては新しい発見になるはずだった。
棚に並んだ薬草の一つを手に取りながら、江理は小さく呟いた。
「私、この世界について、まだ全然知らなかったんですね」
「今から知ればいい」
マーサの声は、素っ気ないようでいて、どこか温かかった。
そばで話を聞いていたオジーが、乾燥した葉を一枚つまみ上げ、試しに匂いを嗅いでは顔をしかめている。その様子に、江理とマーサは顔を見合わせて笑った。
窓から差し込む午後の光が、乾燥棚に並んだ薬草の影を、静かに床へ伸ばしていた。




