第二十三話 目覚めの朝
ふわふわとした感覚の中、遠くで声が聞こえた気がした。
「……先生。おい、先生」
呼びかけに、江理はゆっくりと瞼を開けた。
見慣れない天井。木の梁がむき出しになった、けれどピーコック村のどの部屋よりも作りのしっかりした部屋。
――ここ、どこだっけ。
少し遅れて、記憶が戻ってくる。結婚式、襲撃、結界、ライリーとの取引、そして――
「あ……」
視線を横に向けると、ベッドのすぐ脇に、あの少年が座っていた。心配そうな顔で、江理の様子をじっと窺っている。
「……よかった。目、覚めたんだな」
「私……」
江理はゆっくりと身を起こそうとして、まだ体に力が入りきらないことに気づいた。
「無理するなよ。マーサばあちゃんが、しばらく寝てろって」
「そう、だよね。私、診察の途中で……」
言いかけて、江理は今更ながらに事の次第を理解した。
――患者さんの家で、倒れた。
医者としては、なかなかに情けない話だった。頬が熱くなるのを感じながら、江理は小さく咳払いをした。
「ご迷惑おかけしました。えっと……」
そこで初めて、目の前の少年の名前を知らないことに気づく。
「君、お名前は?」
「オスカー」
少年は少し照れくさそうに、それでいて誇らしげに答えた。
「みんなは、オジーって呼ぶ」
「オスカー、オジー、ね」
江理はその名前を、口の中で小さく繰り返した。
「私は、前村江理。エリーって呼ばれてる」
「エリー」
オジーがその名を復唱する。まっすぐな目で、江理を見つめていた。
昨夜は十五、六歳くらいに見えたが、こうして明るいところで見ると、もう少し上かもしれない。
「そういえば、オジーって何歳なの?」
「十七」
「え、十七なの?」
つい聞き返してしまった。
「何だよ。もっと子供だと思ってた?」
「ちょっとだけ」
江理が笑うと、オジーは少し不満そうな顔をした。
「母上、大丈夫だった?」
「うん。マーサさんがちゃんと見ていてくれてると思う。私も、後でもう一度診に行くね」
その言葉に、オジーの表情がわずかに緩んだ。
部屋の扉が開き、マーサが顔を覗かせた。
「お、起きたか。もう平気そうだね」
「マーサさん、あの、ご迷惑を」
「迷惑なもんか。あんたが倒れたのは、うちらのために無理してくれたせいだろう」
マーサはそう言いながら、部屋に入ってくると、江理の額に手を当てた。
「熱はなさそうだね。あとは、ちゃんと水と飯を摂ることだ」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げると、マーサは満足そうに頷いた。
「あんたも大概、無茶する質だね。医者のくせに、自分のことは後回しか」
図星を指され、江理は苦笑するしかなかった。
「エリーは、本当に医者なの?」
それまで黙って聞いていたオジーが、不思議そうに尋ねてくる。
「本当だよ」
「女なのに?」
「私がいたところでは、女のお医者さんもたくさんいたよ」
「ふうん」
オジーはしばらく考えるような顔をしてから、江理をじっと見た。
「エリーって、変な名前」
「オジーに言われたくないなあ」
「俺はオスカーだ」
「じゃあ、私も江理です」
そんな軽口に、笑いがこぼれる。
「オジー、エリー先生に水を持ってきてやりな」
「ああ」
オジーは立ち上がり、部屋を出ていった。その背中を見送りながら、マーサがふと声を落とした。
「あの子、あんたのこと、えらく気に入ったみたいだよ」
「そうなんですか?」
「昨日、倒れたあんたをずっと心配してね。朝になったら真っ先にここへ来たんだ」
その話に、江理は胸の奥が少しくすぐったくなった。
「診察が終わったら、すぐ帰るつもりだったんですけど」
「そりゃ、無理な話だろうね。結界とやらが解けるまでは」
マーサの言葉に、江理は改めて自分の状況を思い出した。
一週間、まだ帰れない。
「そうだ、これも飲んどきな」
マーサが差し出したのは、うっすらと色のついた器だった。
「これ、何ですか?」
「昨日から何も食ってないんだろう。水だけより、こっちの方が体に入る」
言われるまま口をつけると、ほのかな甘みと、かすかな塩気が舌に広がった。空っぽの胃に、じんわりと染みていく感覚がある。
――甘みと、塩気。これ、経口補水液に近いのかもしれない。
脱水時に水分と電解質を効率よく補給するための、現代でもよく知られた飲み物によく似ていた。マーサはきっと、そんな名称は知らないだろう。それでも、経験から同じ答えにたどり着いている。
――この世界の人たちは、何も知らないわけじゃない。
その確信が、江理の中でまた一つ積み重なった。
「ミラを診たら、あとで私の仕事場にも来な。昨日の薬草の続きも話そう」
「仕事場、ですか」
「薬を作ってるところさ」
その一言に、江理は少しだけ興味を引かれた。
窓の外を見ると、朝の光が、見慣れない街並みを照らしていた。
城壁の上では見張りが交代し、井戸端には水を汲みに来た女たちの姿がある。表通りでは店の戸が開けられ、荷車が行き交い、広場の端では若い男たちが木剣を打ち合わせていた。
――山賊の根城って、もっとこう……。
ピーコック村は、顔を合わせればだいたい誰か分かる小さな村だった。だが、ここには江理の知らない人間が、何十人、何百人と暮らしている。
武装した集団のはずなのに、朝の空気はどこまでも、ただの生活の匂いがした。
ほどなくして扉が開き、オジーが水差しと器を手に戻ってきた。
「水」
ぶっきらぼうに差し出された器に、江理は自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう、オジー」
水を一口飲むと、乾いていた喉に染み渡った。
――一週間。
結界が解けるまで、ここで過ごす。それだけのことだと、江理はまだ思っていた。




