第二十一話 取引
結界が完全に閉じた瞬間、江理の手が震え始めた。
背後には、もう入れない村。目の前には、まだ残っている賊の姿。武器もなく、戦う術も持たない自分。
――怖い。ものすごく、怖い。
その震えを隠すように、江理はアイリスを見た。彼女の顔は、江理よりもずっと青ざめていた。
「大丈夫。まずここを離れよう」
自分に言い聞かせるように、江理はそう告げた。
『エリー!』
声とともに、緑の結界を通り抜けて、光の粒がいくつも飛んでくる。
「……出られるの?」
『うん! わたしたちは平気!』
ノアが得意げに答える。人には越えられない壁を、妖精たちは当たり前のようにすり抜けてきていた。
その安堵も束の間、残っていた賊たちの視線が、こちらへ真っ直ぐ向いた。
「もう一人は外だ! あっちを捕らえろ!」
その声に、江理は息を呑んだ。
――最初から、私たちを狙っていた。
「エリー先生、下がってください!」
フィンが、拾った棒を構えて前に出る。本来なら腰にあるはずの剣は、新郎の装束に合わせて外していた。今は、木の棒一本が頼りだった。
それでも、多勢に無勢だった。振り下ろされた刃を防ぎきれず、フィンの腕に鋭い痛みが走る。
「フィン!」
アイリスの悲鳴が響いた。
その瞬間、恐怖で固まっていた江理の中で、何かが切り替わった。
「見せて」
震えていたはずの手が、迷わずフィンの腕へ伸びる。傷の深さを確かめ、圧迫する場所を探る。
「アイリス、ここ押さえて。強く」
「は、はい!」
自分の専門領域に足を踏み入れた瞬間だけ、江理の手は確かに動いた。
そこへ、また新たな馬の蹄の音が響いてきた。
――また、来た。
絶望が江理の胸をよぎる。だが、現れた武装した男たちは、江理たちではなく、賊の方へと襲いかかった。
先頭にいたのは、一際大柄な男だった。無造作な髭、粗野な出で立ち。剣の扱いは、明らかに場数を踏んだ者のそれだった。
エイトの槍術が、守るための積み重ねられた技術だとすれば、この男の剣は、生き延びるためだけに研がれた、もっと荒々しいものだった。
「兄ちゃん、使えるか!」
男の仲間の一人が、フィンに向かって剣を投げてよこす。
「……助かる!」
フィンが受け取り、構え直した瞬間、その動きが変わった。
棒切れでは防ぐだけで精一杯だったのに、剣を握った途端、踏み込みも、太刀筋も、まるで別人のようだった。
――フィン、こんなに戦えたんだ。
新郎の装束だから、剣を外していただけ。ただそれだけのことだったのだと、江理は今更ながらに気づいた。
戦闘は、あっという間に決着した。賊たちが逃げ散っていく。
残されたのは、江理たちと、その男を含む一団だけだった。
男が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「……村の女医ってのは、お前か」
「……そうですけど」
江理は身構えた。山賊を追い払った、もっと強そうな山賊。最悪の状況だった。
「妻を診てもらいたい」
あまりに唐突な言葉に、江理は一瞬、意味を掴みかねた。
「どんな症状ですか」
医者としての問いが、反射的に口を突いて出る。
男は簡潔に、妻の容体を語った。詳しくは、実際に診てみないと分からない内容だった。
「診察してみないと、はっきりしたことは言えません。治せるとも、今は約束できません」
「それでいい。診てくれればいい」
男の声には、無理強いの響きはなかった。
江理はすぐには頷かなかった。
視線の先には、剣を握ったままのフィンと、その隣で青ざめたままのアイリスがいる。パール村からも、大勢の人がこの結婚式に来ていた。ピーコック村が結界に守られたとしても、賊がまだ残っているなら、無防備なパール村が次に狙われるかもしれない。
「……分かりました。その代わり、条件があります」
「取引か?」
「ピーコック村と、隣のパール村に来ている賊を、追い出してください。二つの村の人たちを守ってくれるなら、奥様を診ます」
男が、わずかに目を細めた。
「治せるのか」
「分かりません」
「……正直だな」
「医者なので、できない約束はしません」
男は少し黙り、それから短く頷いた。
「いいだろう」
取引は、成立した。
その後、男の一団はピーコック村の周辺、そしてパール村へと散り、残っていた賊を掃討していった。フィンも借りた剣を手に、最後まで加勢していた。
「これ、お返しします」
戦いの後、フィンが剣を差し出すと、貸した男は首を振った。
「持ってけ。まだ安全とは限らねえ」
「エリー先生も一緒にパール村へ行きましょう!」
治療を終えたフィンの隣で、アイリスが縋るように言う。
「私も行きたいけど……この方との約束があるから」
江理はアイリスとフィンに向き直った。
「二人はパール村へ行って。向こうにも怪我人がいるはずだから、アイリスが診てあげて」
二人は顔を見合わせ、やがて小さく頷いた。
江理はもう一度、結界に目を向けた。
マイミは「一週間もすれば」と言っていた。だから今は、これが長い別れになるとは、誰も思っていなかった。
「奥さんを診たら、すぐ戻るから。マイミさんの言う通りなら、ピーコック村に一週間は結界で入れないみたい」
その言葉を最後に、江理はアイリスと別れ、男たちとともに歩き出した。すると、仲間の一人が馬に乗せてくれた。思ったより高くて、少し怖い。
少し進んだところで、もう一度だけ振り返る。
夜の闇の中、遠くに、緑の光に包まれたピーコック村が見えた。
『エリー、いこう』
ノアの声に、江理は前を向いた。




