第二十話 女神の慟哭
エイトの槍先が、賊の一人の剣を弾いた。
続けて踏み込んできたもう一人には、柄の反対側を叩き込む。鈍い音とともに、相手が呻いて崩れ落ちた。
「……っ、先生!」
離れながら振り返った江理は、思わず目を見張った。老医師とは思えない、隙のない動きだった。
舞美を背にかばったまま、エイトは崩れない。長年王宮に仕えた者だけが持つ、静かな胆力が、その立ち姿ににじんでいた。
だが、敵の数は一人、二人では終わらなかった。
「この爺さん、ただの医者じゃないぞ!」
誰かの声に、さらに人数が投入される。左右から同時に打ちかかられ、エイトの呼吸が、徐々に荒くなっていく。
一人を受け流した隙に、もう一人の刃が肩をかすめた。布地が裂け、赤い染みがにじむ。
「エイトさん!」
舞美が悲鳴のような声を上げるが、エイトは退かなかった。
「大丈夫、です」
息を切らしながらも、槍を握り直す。その手のひらには、いつの間にか血が滲んでいた。
それでも、舞美の前から一歩も動かない。
妖精たちが、乱戦の上空で泣きそうな声を上げていた。
『エイト、けがしてる!』
『マイミ、だいじょうぶ?』
村の柵の外まで追い詰められていた江理たちにも、その悲鳴じみた声だけが、かすかに届いていた。
「……エイト先生」
江理は拳を握りしめた。今すぐ駆け戻りたい。けれど、自分と舞美を狙う賊たちが、すぐ後ろに迫っている。
「江理先生、俺たちがここを持ちこたえます!」
フィンが棒切れを構え直しながら叫ぶ。アイリスも、薪を握る手を強く握り直した。
村の中央では、なおもエイトが立ち続けていた。
一人、また一人と敵を退けるたび、その体は確実に消耗していく。傷は増え、動きはわずかに鈍くなっていた。それでも、槍の切っ先だけは、決して舞美から逸れなかった。
だが、限界は唐突に訪れた。
横から放たれた一撃を、エイトはわずかに避けきれなかった。
鈍い音とともに、体が大きくよろめく。膝が地面につき、槍を支えにしてかろうじて堪えるが、二の腕から流れる血の量が、明らかに変わっていた。
「エイト!」
舞美の声が裏返る。
「……このくらい、大丈夫」
そう言いながらも、エイトの足元はふらついていた。槍を支えにしなければ、立っていることさえ難しそうだった。次の一撃を、避けられる保証はなかった。
その瞬間、舞美の中で、何かが弾けた。
「――もう、やめて」
静かな、けれど地の底から響くような声だった。
次の瞬間、舞美を中心に、光が爆発的に広がった。
乱戦の音が、一瞬にして消える。風もないのに、篝火の炎が真横に薙ぎ倒された。
賊たちが、恐怖に顔を歪めて後ずさる。
次の瞬間、目に見えない力の波が、村の中を薙ぎ払うように吹き抜けた。悲鳴とともに、賊たちの体が弾き飛ばされ、次々と村の外側へと投げ出されていく。
舞美は、村の中に敵を一人も残すつもりがないようだった。
村を包むように、緑がかった光の膜が、天へと立ち上っていく。まるで、この土地そのものが目を覚ましたかのようだった。
村の外にいた江理は、その光景をただ、呆然と見つめていた。
『マイミ!』
『すごい、ちからが……』
妖精たちの声が、悲鳴のように響く。
光が村全体を覆い尽くしていく中、頭の中に直接、声が届いた。
『――江理さん』
舞美の声だった。
『ごめんなさい。これを閉じないと、村の中のみんなを守れない』
「マイミさん、待って――」
叫んだ声が、届いているのか分からなかった。
光の膜が、村を丸ごと包み込むように収束していく。
最後に見えたのは、崩れ落ちるエイトを抱き止める舞美の姿だった。
「……嘘、でしょ」
アイリスが呆然と呟く。
視界いっぱいに広がっていた緑の光が、静かに、けれど確かな壁となって、村と、その外にいる江理たちを隔てていた。
賊たちの怒声も、村人たちの悲鳴も、光の向こうへ遠ざかっていく。
あるのはただ、村を覆っていく結界と、その向こうに霞む、見慣れた景色だけだった。
結界の前に立ち尽くしていた江理の頭の中に、再び舞美の声が響いた。
『江理さん……聞こえますか』
「聞こえてる。マイミさん、エイト先生は」
『息はあります。今、私が診てます。でも――』
声が、わずかに揺れた。
『この結界、私にも簡単には解けません。完全に閉じるまで、あと少し。今なら、まだ隙間があります』
「じゃあ」
『江理さんたちだけなら、まだ間に合います。急いで――』
江理は、光の壁に手を伸ばしかけて、止めた。
振り返ると、結界の外にはフィンとアイリスがいる。その向こうでは、賊の残党がこちらの様子を窺っていた。
中には、エイトがいる。テオが、ハンナが、イアンがいる。村人たちの多くも、既に結界の内側に逃げ込んでいた。
外にいるのは、アイリスとフィンだけ。二人を置いて、自分だけ中へ逃げ込むことはできなかった。
答えは、迷うまでもなかった。
「マイミさん」
『はい』
「閉じて」
『……いいんですか』
「うん。中のみんなを、お願い」
声が震えないよう、江理は奥歯を噛みしめた。
「私はここで、できることをする」
『……分かりました』
舞美の声が、少しだけ和らいだ。
『長くはかからないはずです。たぶん、一週間もすれば。必ず、無事でいてください』
最後にそう言い残し、頭の中の声が途切れた。
同時に、緑の光が一層強く輝き、完全な壁となって天地を覆った。
江理は光の壁に背を向け、フィンとアイリスの方へ向き直った。
「アイリス、フィン。行くよ」
震える声を押し殺して、江理はそう告げた。
自分たちの村は、確かに守られた。
けれど今、自分たちは、その村から切り離されてしまった。




