第十話 空き家の準備
診療所に、シリルが息を切らして駆け込んできた。
「決まったぞ! エイト先生、来てくれるそうだ!」
「本当ですか!」
江理とアイリスは顔を見合わせた。
「あっさり決まったんですね。もっと渋られるかと思ってました」
「俺もそう思ってたんだがな……」
シリルが、やや複雑な顔で肩をすくめた。
「王宮に話を通しに行ったら、エイト先生本人が『願ってもない』と即答したらしい。あれだけ結婚に口を出されれば、王宮に戻る気にもならんだろうな」
「エイト先生、お一人で来られるんですか?」
「いや、息子さんと奥さんも一緒だそうだ。息子さんは医者をしているらしい」
その知らせを受けて、村では早速、エイト一家を迎える準備が始まった。
「というわけで、家を一軒、整えることになりました」
診療所にやってきたアイリスが、開口一番そう告げた。
「もう決まったの、早いね」
「父がすぐ動いてくれたんです。村はずれに、しばらく誰も住んでいない家があって」
アイリスによると、その家はもともと年老いた木こりが一人で暮らしていたが、数年前に亡くなって以来、空き家になっていたのだという。
「広さはそこそこあるので、三人家族なら十分だろうって、父が」
「三人家族が住むには、ちょうどいいかもね」
早速、江理も手伝いに向かうことにした。
案内された家は、外から見る限り、屋根も壁もしっかりしている。ただ中に入ると、長年放置された生活の匂いが染みついていた。
「うわ、埃すごい」
「掃除しがいがありますね」
アイリスが袖をまくりながら笑う。
その日は、思いがけず村人総出の掃除大会になった。ハンナが手際よく人を集め、近所の女性たちが箒や雑巾を持って次々と集まってくる。
「先生のお仲間が来るんだって?」
「そうなんです。国で一番の名医らしくて」
「そりゃすごい。うちの分も掃除するよ」
噂は既に村中に広がっているらしく、誰も彼も張り切って手を動かしていた。
「なんでも、王宮のお偉いさんに結婚を反対されて、啖呵切って辞めてきたんだってね」
箒を手にした年配の女性が、興味津々といった様子で話に加わる。
「恋人さんが、酒場の踊り子さんだとか」
「へえ、格好いいじゃないか」
「先生も隅に置けないねえ、そんな人を呼び寄せるなんて」
江理は曖昧に笑って誤魔化した。呼び寄せたというより、アイリスが強引にスカウトしただけなのだが、訂正する暇もないほど話は盛り上がっていた。
昼過ぎ、掃除の手を止めた一同のもとへ、ハンナが大きな籠を抱えてやってきた。
「休憩にしましょう。焼きたてのパンと、スープを持ってきました」
「わあ、ありがとうございます」
手際よく配られていくパンを受け取りながら、江理はふと、ハンナがイアンの分だけ、少し大きめに切り分けているのに気づいた。本人は気づいていないのか、当たり前のようにそれをイアンの手に渡している。
誰も指摘しないまま、その光景は村の日常に静かに溶け込んでいた。
床を拭き、蜘蛛の巣を払い、割れた窓には板を打ち付ける。夕方までかかって、ようやく家らしい形が戻ってきた。
「あとは、家具ですね」
「机とベッドくらいは、村の大工さんに頼めそうです」
アイリスが手帳に書き込みながら、テキパキと段取りを進めていく。すっかり、この村のまとめ役が板についていた。
「大工さんといえば、パール村のフィンさんに頼んでみようかな」
さりげなく出た名前に、アイリスの頬がほんのりと赤くなる。
「フィンさん、腕がいいので……」
「アイリス、なんか嬉しそうだね」
「そ、そんなことないです」
慌てて否定するアイリスの様子に、江理も釣られて笑ってしまった。何か理由があるらしいことは、聞かなくても伝わってきた。
一段落したところで、江理は空っぽの居間に立ち、ぐるりと見回した。
誰も住んでいなかった家に、これから新しい家族がやってくる。想像すると、不思議と胸が温かくなった。
「本当に、来てくれるかな」
ぽつりと呟いた言葉に、アイリスが振り向く。
「大丈夫ですよ。シリルさんが、ちゃんと話をつけてくれます」
「シリルさんが、頼りにされる日が来るとはね」
二人で顔を見合わせて笑った。
窓の外は、すっかり夕暮れに染まっていた。掃除を終えた人たちが、それぞれの家へと帰っていく足音が遠くに聞こえる。
「来てくれるといいなぁ」
江理は、誰にともなく呟いた。
国一番の名医と、その息子。そして、素性のよく分からない女性。
この村に、また新しい顔ぶれが加わろうとしている。
まだ会ったこともない相手なのに、江理はもう少しだけ、彼らのことを楽しみに思い始めていた。
帰り道、江理は隣を歩くアイリスに、ふと尋ねてみた。
「フィンさんって、どんな人?」
「幼馴染です。子供の頃から、よく一緒に遊んでました」
「それだけ?」
「……それだけ、です」
視線を逸らすアイリスの横顔を見ながら、江理は密かに確信した。
この村には、まだ語られていない物語が、あといくつも隠れているらしい。
そう思うと、これから始まる日々が、ますます楽しみになってきた。




