第九話 次から次へと
9話エピソード修正しました。
「エリーさん、聞いてください。すごい噂を聞いてきたんです」
朝、薬草園から戻ってきたアイリスが、籠を置くなり弾んだ声を上げた。
「噂?」
「パール村に来ていた行商の人が話してたんですけど、王宮で一番の名医だった方が、最近お城を辞めたんですって。エイト・クロフォードっていう先生で」
「王宮の、一番のお医者さん?」
「はい。酒場の踊り子さんと結婚したいって言ったら反対されて、それなら辞めるって、出てきちゃったらしいです」
江理は、薬棚を整えていた手を止めた。
「……すごい人だね、いろんな意味で」
「ですよね。でも、それで今、どこにも勤めていないなら」
アイリスが、少しだけ声を落とす。
「この村に来てもらえたら、って思っちゃって」
江理は笑いそうになって、けれど、すぐに真顔になった。
診療所を始めてから、外科の手には負えない患者に何度も出会っている。この世界の病気について、経験のある医師に相談できたら、どれほど心強いだろう。
「……来てくれたら、すごく助かるね。でも、王都の人に伝手なんてないし」
「それなんですけど」
アイリスが、窓の外に目を向ける。
「シリルさん、王都によく行ってますよね」
二人は顔を見合わせた。
その日の昼過ぎ、診療所の扉が勢いよく開いた。
「持ってきたぞ!」
息を切らしたシリルが、大きな紙の束を抱えて立っていた。腕から溢れそうなほどの量に、江理は目を丸くした。
「うわ、こんなに」
「言われた通り、多めに用意した。もう二度と『足りない』とは言わせん」
得意げに胸を張るシリルに、江理は素直に頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
「だろう。褒めていいぞ」
「はい、偉いです」
棒読み気味の褒め言葉にも、シリルは満更でもなさそうだった。単純なところがあるらしい。
早速、江理は紙の束を診療所の棚に運び込みながら、その流れで切り出した。
「そういえば、職人さんの件は」
「……ああ、それも一応、当たってはいる」
「一応?」
「王都の鍛冶屋に図面を見せた。だが『こんな細い針は作れない』と言われてな」
「そこをなんとか、って粘ってくれました?」
「粘った。粘ったが……」
シリルが気まずそうに視線を逸らす。
「代わりに、少し太めの針なら試作できると言っていた」
「太め」
「うむ」
「じゃあ、実物を見て、私がもう一度図面を描き直します。それを持って、また行ってもらえますか」
「また俺が行くのか」
「他に誰が行くんですか」
「……そうだな」
諦めたようにため息をつくシリルに、江理はさらに畳みかけた。
「あと、薬を煮出すのに使う、大きめの鍋も欲しいです」
「鍋まで?」
「それと、傷を洗うのに使う、濃い酒も」
「酒は俺の小遣いで買えと言うのか」
「シリルさんの経費でお願いします」
「経費て」
江理はにっこりと笑った。
「王宮に――」
「分かった! 分かったから、その先を言うな!」
叫ぶように答えるシリルに、診療所の隅で棚を拭いていたアイリスが、くすっと笑い声を漏らした。
「シリルさん、すっかり便利屋さんですね」
「便利屋ではない。召喚士だ」
「今は紙運びの人に見えますけど」
「……否定できないのが悔しい」
肩を落とすシリルを見ながら、江理はふと、一枚の紙にペンを走らせ始めた。
「あ、そうだ。もう一つお願いがあるんですけど」
「まだあるのか」
「王都に、エイト・クロフォードという方がいるらしいんです」
その名前に、シリルの顔つきが変わった。
「……エイト先生?」
「知ってるんですか」
「知ってるも何も、国で一番の名医だぞ。王族付きの筆頭医師だったはずだ」
「その方、最近、王宮を辞めたって本当ですか?」
「あ、ああ。恋愛絡みの騒動だと聞いたが……お前、どこでその話を」
「アイリスが人づてに聞いてきたんです。もしよかったら、村に来てもらえないかって」
「はあ!?」
シリルが素っ頓狂な声を上げた。
「国一番の名医を、この村に引っ張ってくるつもりか!?」
「駄目ですか?」
「駄目とは言わんが……いや、待て。それはさすがに規模が違うだろう」
困惑するシリルをよそに、江理とアイリスは既に顔を見合わせて頷き合っていた。
「シリルさん、繋いでもらえますか。会って、事情を話すくらいなら」
「……分かった。分かったが、これは本当に、俺の手に負える話なのか」
ぶつぶつと呟きながらも、シリルは結局、紙とペンを受け取っていた。
診療所を出ていくその背中を見送りながら、江理は小さく声を上げて笑った。
「シリルさん、本当に便利ですね」
「ですね。育てた甲斐がありました」
アイリスの言葉に、江理はますます笑いが止まらなくなった。
「育てたって、シリルさんのこと、家畜みたいに言わないで」
「でも、最初は『拉致犯』だったのが、今は『紙とペンと鍋を運んでくれる人』になってますよね。立派な成長です」
「言われてみれば、すごい進化」
二人でひとしきり笑い合ってから、アイリスがふと真顔に戻った。
「本当に、エイト先生が来てくれたら心強いです」
「うん。針の一本も自分で試行錯誤するより、経験のある方に教わった方が早いこと、たくさんあると思う」
「エリーさんでも、そう思うことあるんですね」
「そりゃあるよ。私、外科は専門だけど、この世界の病気については、正直まだ手探りだから」
素直にそう答えると、アイリスは少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。
「そういうところ、好きです」
「え?」
「分からないことを、分からないってちゃんと言えるところ。エリーさんが来てから、村の診療所、すごく良くなりました」
照れくさくなって、江理は誤魔化すように棚の紙を数え始めた。
「さ、これだけあれば、しばらくカルテには困らないね」
「そうですね。あとは、エイト先生たちが来てくれるのを待つだけです」
窓の外では、シリルの姿がとっくに小さくなっていた。
増えていく仲間の顔ぶれを思い浮かべながら、江理はこの村での日々が、少しずつ厚みを増していくのを感じていた。




