第一話 学院の四人(後)
レインは屈み込み、ユートの腕を掴んで引き起こした。
「出れば、最下位のお前を見た誰かが、次はどうすればいいかを一緒に考えられる。出なければ、誰も何も考えられない。それだけの違いだ」
ユートは半身を起こしたまま、しばらく黙っていた。
それから、鼻の頭を掻いた。
「……お前さあ。そういうの、恥ずかしくないの」
「恥ずかしいことを言ったつもりはない」
「そこがすごいんだよ」
ユートは立ち上がり、服についた砂を叩いて落とした。落としきれていない砂が、まだ背中にたっぷり残っていた。
「まあいいや。それより聞いてくれよレイン。今日、俺、すげえ発見をした」
「発見」
「ノエルちゃん、水を飲むとき、両手でコップ持つんだよ」
レインは、返す言葉を探した。
「……それは、発見なのか」
「発見だよ! 三年間見てて今日気づいたんだから発見だろ!」
「三年間見ていたのか」
「見てただろ普通に!」
ユートは腕を組んで、深く頷いた。
「あれはな、可愛いんだよ。ああいうさりげないやつが一番効くんだ。わかるか、レイン。わかんねえだろうな。お前、女の子の話になると急に石になるもんな」
「石にはならない」
「なってるって」
ユートは笑い、それから急に真顔になって、演習場の方へ首を伸ばした。
視線の先に、ノエルがいた。片づけをしている。
ユートの顔から、ふっと軽さが抜けた。ほんの一瞬だけだった。次の瞬間には、彼はもう砂まみれの笑顔に戻っていた。
「よし、行くわ」
「どこへ」
「決まってんだろ。話しかけに」
「今日はやめておけ。彼女は疲れてる」
「疲れてる時こそ優しくされたら嬉しいんだよ。お前はそういうのがわかってない」
言うが早いか、ユートは駆け出していた。
◆
「ノエルちゃーん!」
「……あ、ユートくん」
ノエルは片づけの手を止めて振り返り、そして曖昧に微笑んだ。
「今日もお疲れ様! いやー、見てたよ俺。ずっと治療してたろ。偉いよなあ。学院で一番偉いよ、君」
「そんなことないです」
「あるって。あのさ、今から食堂行かない? 奢るからさ」
「……ユートくん、実技すっぽかしたって聞きましたけど」
「今その話やめない?」
「やめませんよ」
ノエルはきっぱりと言った。柔らかい声のまま、内容だけがきっぱりしていた。
「ユートくん、成績のこと、本当にどうでもいいと思ってるんですか」
「思ってる」
「嘘です」
「嘘じゃないって」
「……」
ノエルはしばらくユートの顔を見ていた。
ユートは笑ったままだった。笑ったまま、視線をわずかに逸らした。
「……まあ、いいです」
ノエルは息をつき、片づけの続きに戻った。
「食堂は、ごめんなさい。まだ仕事があるので」
「そっかー。じゃあ明日は?」
「明日も、たぶん」
「明後日!」
「ユートくん」
ノエルは振り返り、両手で持っていた布の包みを胸の前で抱え直した。
そして、少し困ったように——けれど確かに、微笑んだ。
「……いつも誘ってくれて、ありがとうございます」
「!!」
「でも、今日はごめんなさい」
「いや、ありがとうって、今、ありがとうって言った? 言ったよな? 聞いたよな、みんな!」
ユートが振り返って周囲に同意を求めた。誰も同意しなかった。
◆
その一部始終を、レインは日陰から眺めていた。
隣に、いつの間にかフィーナが立っていた。
「……最っ低」
フィーナの第一声はそれだった。
「見た? 今の。ノエルが困ってるの、わかってて畳みかけてるのよあれ。しかも実技すっぽかしといて」
「ユートなりに励ましてるつもりなんだと思う」
「励ますって何を!?」
「疲れているノエルを」
「その原因の半分はあいつでしょうが!」
フィーナは腕を組み、指で二の腕を苛立たしげに叩いた。
「ねえレイン。前から訊きたかったんだけど」
「なんだ」
「あんた、なんであいつと一緒にいるの」
風が吹いた。
演習場の旗が、ぱたぱたと音を立てた。
「……幼馴染だからだ」
レインは、そう答えた。
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何よ」
レインは口を開き、そして閉じた。
言葉は、ある。ある場所はわかっている。だがそれを取り出すには、あまりにも古い箱を開けなければならなかった。開ければ埃が舞う。舞った埃の中に、まだ小さかった自分が立っている。
「……いつか話す」
「なにそれ」
「今は、うまく言えない」
フィーナはしばらくレインの横顔を睨んでいた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「別にいいけど。無理に聞き出す趣味はないし」
「悪いな」
「謝んないでよ。気持ち悪い」
彼女はそう言って、日陰から日向へ出ていった。三歩ほど歩いて、立ち止まる。
振り返らずに、背中で言った。
「……卒業したら、どこに配属されるかわかんないけどさ」
「ああ」
「あんた、絶対、無茶するでしょ」
「しない」
「するのよ。絶対する。あんた、困ってる人がいたら考える前に体が動くもの」
フィーナの声は、いつもより少しだけ低かった。
「そういうの、いつか死ぬわよ」
「……気をつける」
「気をつけて済むなら誰も死なないっての」
彼女は歩き出した。今度は振り返らなかった。
夕日が演習場を橙に染めていく。
試合場の中央では、まだ何人かの生徒が木剣を打ち合っていた。評定はもう終わっている。それでも彼らは打ち合っている。誰かに見られるためではなく、ただ、明日も剣を持つからだ。
その音を聞きながら、レインは思った。
——平和だ。
この国には、魔物がいる。街道には討伐依頼の紙が貼られているし、村には自警団があるし、騎士団は月に二度、決められた道筋を巡回する。魔物に襲われて人が死ぬことは、年に何度かある。それは悲しいことだが、驚くことではなかった。嵐で船が沈むのと同じように、この世界にはそういうものがある、というだけの話だ。
魔王はいない。
そういうものは、物語の中にしか出てこない。祖父が語ってくれた古い話の中には、世界を滅ぼそうとする存在が出てきたが、祖父自身が「まあ、作り話だな」と笑っていた。
だから騎士団の仕事の八割は、書類と巡回と、村同士の揉め事の仲裁だ。
残りの二割で、魔物を斬る。
それがこの国の、この世界の、当たり前の形だった。
レインは剣の柄に触れた。手のひらの汗はもう乾いていた。
三年後も、十年後も、この形は変わらないのだろうと、彼はごく自然に思っていた。
◆
卒業式の日、成績が読み上げられた。
首席、レイン・アルディス。
総合二位、フィーナ・ルクレール。
ノエル・ミラの名は、二十番台の途中で呼ばれた。彼女は静かに立ち上がり、丁寧に一礼して座った。その所作だけが、他の誰よりも整っていた。
ユート・カルヴァンの名は、なかなか呼ばれなかった。
最後から三番目で、ようやく呼ばれた。
ユートは立ち上がり、大きく両手を上げて、周囲に向かって手を振った。笑いが起きた。教官が咳払いをした。ユートは席に座り、そのまま、ずっと笑っていた。
レインは、彼のその笑い方を知っていた。
あれは、殴られる前に先に笑ってしまう子どもの笑い方だ。
式が終わり、生徒たちが散っていく。
石畳の中庭で、四人はもう一度だけ顔を合わせた。
「じゃ、俺、王都の第七詰所な」
ユートが言った。
「あそこ、暇なんだって。最高だろ」
「……あんた、よくそれで採用されたわね」
「人手不足ってすごいよな」
「威張るところじゃないでしょ」
「私は……第三救護班です」
ノエルが控えめに言った。
「うわ、ノエルちゃんそれ激務じゃん。大丈夫?」
「大丈夫です。やりたかったので」
「俺の詰所に来ればよかったのに。暇だぞ」
「暇なところに行きたいわけじゃないので」
「なんでみんな俺に厳しいの?」
フィーナが、はっきりと聞こえる声で「自業自得」と言った。
「私は魔導兵団の第二。レインは?」
「……騎士団本隊だ」
三人が、同時にこちらを見た。
「本隊?」
「新卒で本隊?」
「……バルド団長の直属だそうだ」
沈黙が落ちた。
やがて、フィーナが「まあ、そうよね」と呟いた。悔しそうでも、羨ましそうでもなかった。ただ、当然のことを確認しただけの声だった。
ユートが、レインの肩をばしんと叩いた。
「すげえじゃん!」
彼は、心の底から嬉しそうだった。
そこには、一片の翳りもなかった。自分が最後から三番目で、目の前の男が首席で、これから進む道の幅がまったく違うことを、彼はもう完全に理解しているはずだった。それでも彼は、ただ嬉しそうだった。
その顔を見て、レインは思った。
——ああ、こいつは、昔から変わらないな。
中庭の桜が散っていた。
四人はそれぞれの方角へ歩き出し、そして、しばらくの間、めったに会わなくなった。
次に四人が同じ場所に立つまでには、二年の時間がかかることになる。
その二年は、驚くほど平和だった。




