第一話 学院の四人(前)
剣の柄が、手のひらに吸いついていた。
汗のせいだ。レイン・アルディスは指の力をわずかに緩め、また握り直した。滑るほどではない。だが握り込みすぎれば、剣先が死ぬ。
王立アルスハイム騎士学院、第三演習場。夏の終わりの日射しが、白く踏み固められた地面を灼いている。円形に切り取られた試合場の外側には、同期の生徒たちが半円を描いて座っていた。話し声はない。誰もが、これが今年最後の実技評定だと知っている。
「双方、位置につけ」
教官の声が、乾いた空気を短く割った。
レインは息を吐き、五歩前へ出た。
対面の生徒は、レインより頭ひとつ背が高い。名はギードといった。三年間ずっと次席か、その次あたりにいた男だ。悪い相手ではない。むしろ、いい相手だった。彼はレインを嫌ってはいないし、手を抜くこともしない。
「今年こそ、お前から一本取る」
ギードが低く言った。
「取られたくないな」
レインは正直に答えた。
「相変わらず可愛げのない返しをする」
ギードが笑い、そして笑いを消した。
教官の手が上がる。
「——始め」
地面が鳴った。
ギードの踏み込みは速い。三年間で確実に速くなった。上段からの一撃が、日射しを断ち割って落ちてくる。まともに受ければ木剣でも骨に響く。
レインは受けなかった。
半歩だけ左へ流れる。頬の横を風が過ぎた。ギードの剣が地面を叩き、砂が跳ねる。その跳ねた砂がまだ落ちきらないうちに、レインの木剣はギードの右手首の内側に触れていた。
触れた、だけだ。打っていない。
ギードの手から剣が落ちた。
「——それまで」
教官の声。
半円の外側から、ばらばらと拍手が起きた。感嘆というより、確認するような拍手だった。ああ、やはりそうか、という。
ギードは自分の手首を見下ろし、それから空になった手を握って開いた。
「打たなかったな」
「打つ必要がなかった」
「……お前のそういうところが、一番腹立つんだよ」
ギードは吐き捨てるように言ったが、口の端は上がっていた。落ちた剣を拾い、砂を払い、レインの肩を軽く叩いて去っていく。
レインはその背を見送ってから、木剣を下ろした。
勝ったという実感は薄い。いつもそうだ。剣を交えている間だけは頭の中が静かになって、終わると急に音が戻ってくる。今も、観客席の話し声や、遠くの鐘や、風で鳴る旗の音が、一斉に耳の中へなだれ込んできていた。
「レイン・アルディス。実技評定、満点」
教官が名簿に何かを書きつけながら言った。
「三年連続だ。総合順位も、まあ、言うまでもないだろう」
「……ありがとうございます」
「礼を言うところじゃない。当然のことをしただけだと思っているんだろう」
図星だったので、レインは黙った。教官は鼻を鳴らして、次の組の名を呼んだ。
試合場を出て、日陰に入る。石壁に背を預けると、ようやく体の熱が抜けていくのがわかった。
「——ねえ」
声がした。
振り向くまでもない。三年間で嫌というほど聞いた声だ。
「最後、打ちなさいよ」
フィーナ・ルクレールが、腕を組んで立っていた。
結い上げた赤みのある髪が、日射しを弾いている。背はレインの肩ほど。だが立ち姿に一切の遠慮がないせいで、実際より大きく見える。彼女はいつもそうだ。部屋に入ってくるだけで、その部屋の空気の持ち主が変わる。
「打つ必要がなかった」
「ギードに言ったのと同じ台詞を私にも言うわけ?」
「同じことを訊かれたからな」
フィーナの眉が、はっきりと寄った。
「あのね。あれは評定なの。試合じゃなくて。手加減したって受け取られたら、あんたの点じゃなくてギードの点が下がるのよ。わかってる?」
レインは瞬きをした。
——考えていなかった。
その顔を見て、フィーナは深く長いため息をついた。首席の男を憐れむような、実に堂々としたため息だった。
「本っ当に、そういうところなのよね」
「……悪かった」
「私に謝ってどうすんの」
「じゃあ誰に謝ればいい」
「知らないわよ!」
フィーナは声を張り上げ、それから自分でその大きさに気づいたらしく、ばつが悪そうに視線を逸らした。日陰の壁の、なんでもない一点をしばらく睨んでいる。
レインには、彼女がなぜ怒っているのかがよくわからなかった。
わからないことは、これまでにも何度もあった。彼女はよく怒る。レインが怪我をしたときも怒ったし、徹夜で座学の予習をしていたときも怒ったし、下級生の喧嘩を止めに入って服を破いたときは、破いた服をひったくって縫いながら怒った。縫い目は驚くほど丁寧だった。
「フィーナ」
「なによ」
「今の実技、お前は」
「満点に決まってるでしょ」
即答だった。
「魔法の方はね。剣は……まあ、そこそこ。あんたたちみたいに振り回す趣味はないもの」
振り回してはいない、と言いかけて、レインはやめた。言えばまた三十分かかる。
フィーナ・ルクレールの実技評定は、学年で二番。魔法単科では、三年間ずっと一位だった。火と雷。彼女の魔法は本人と同じで、遠慮というものを知らない。演習で彼女が本気を出したとき、教官が慌てて止めに入ったことが二度ある。
彼女は組んでいた腕をほどき、そのまま日陰の壁に背を預けた。レインとの間には、人ひとり分の距離があった。三年間、その距離はほとんど変わっていない。
「……ちゃんと、勝ってよね」
ぽつりと、フィーナが言った。
「え?」
「なんでもない」
「いや、今——」
「なんでもないって言ってるでしょ!」
二度目の大声だった。
通りかかった下級生が驚いて足を早めていくのが、視界の端に映った。
◆
昼を過ぎて、演習場の一角には負傷者の列ができていた。
といっても、大した怪我はない。木剣での打撲、捻挫、砂で切った膝。それでも五十人が全力で打ち合えば、それなりの数にはなる。
「はい、動かさないでくださいね」
列の先で、ノエル・ミラが屈み込んでいた。
膝をついた彼女の前には、腕を押さえた男子生徒が座っている。ノエルの両手が、その腕の上に軽くかざされていた。手のひらから薄い光がこぼれ、傷の周りの赤みが少しずつ引いていく。
派手さはない。フィーナの魔法が夜を昼に変えるようなものだとすれば、ノエルのそれは、部屋の隅に置かれた灯りに近い。あるだけで空気が変わる。だが誰も、その灯りをすごいとは言わない。
「はい、終わりました。でも今日はもう振らないでくださいね。明日には元通りですから」
「……ノエルさん、ありがとう」
「いえ。お大事に」
男子生徒は立ち上がり、二、三歩歩いてから振り返って、もう一度頭を下げた。ノエルは小さく手を振り返した。
列の次の生徒が座る。ノエルはまた膝をつく。
レインは少し離れたところからそれを見ていた。
彼女は朝からずっとこうしている。実技評定を終えたのは午前中で、その後はずっと治療係だ。学院の規則では、負傷者の治療は教官の仕事ということになっている。だが実際には、ここ二年ほど、この列はいつもノエルの前にできていた。
彼女の実技評定は、学年で二十番台。魔法単科でも、中の上といったところだ。回復魔法の適性は高いが、成績表の上ではそれは「一芸」として扱われる。前に出て敵を倒す者の点が高い。それがこの学院の物差しだった。
「ノエル」
レインが声をかけると、彼女は顔を上げ、それから少しだけ目を見開いた。
「レインくん。……あ、怪我しましたか?」
「してない」
「ですよね」
ノエルはくすりと笑った。
「レインくん、三年間で一度も来てくれませんでしたもんね。この列に」
「……そういう数え方をしてたのか」
「してました」
あっさりと認めて、彼女はまた笑った。
柔らかい笑い方をする娘だった。フィーナのように空気を変えるのではなく、その場にある空気の角を、少しだけ丸くするような笑い方。淡い色の髪を肩のあたりで切りそろえていて、動くたびにそれが小さく揺れる。
「休んだ方がいい。ずっとやってるだろう」
「あと三人ですから」
「三人が三十人になるぞ。この時間は」
「……ふふ。じゃあ、その時はレインくんが追い返してください」
「本気で言ってるのか」
「半分は」
ノエルは膝の砂を払って立ち上がり、伸びをした。細い肩が、少しだけ震えたように見えた。
レインは水筒を差し出した。
ノエルは一瞬、それを見た。
ほんの一瞬だった。差し出された水筒と、それを持つレインの手と、それからレインの顔へと、視線が順に移っていく。その移り方が、なんとなく他の人と違う気がした——が、レインにはそれが何を意味するのかわからなかったし、考えもしなかった。
「……いただきます」
ノエルは両手で水筒を受け取り、口をつけた。
喉が動く。彼女は一口だけ飲んで、蓋を閉めた。
「ありがとうございます」
「もっと飲め」
「これで十分です」
「十分じゃない」
「レインくん」
ノエルは水筒を返しながら、少し困ったように眉を下げた。
「そういうところ、フィーナちゃんが怒ってました」
「……なんでだ」
「さあ」
ノエルは、今度は少しだけ意地悪く笑った。
◆
「うおおお助けてくれ死ぬ死ぬ死ぬ」
その声が聞こえてきたのは、日が傾き始めた頃だった。
演習場の裏手、雑木林との境目のあたり。土手を転げるようにして、ひとりの生徒が走ってくる。追いかけているのは教官ではなく、学院の飼い犬——ではなく、どうやら教官の飼い犬だった。中型の、毛足の長い、老いた犬だ。走るというより、早足で追っている。
「ちょ、待って、待ってって! 俺なにもしてない! 何もしてないから!」
「ユート・カルヴァン!」
土手の上から教官の怒声が飛んだ。
「貴様、評定をすっぽかしてどこにいた!」
「寝てました!」
「正直に言えばいいというものではない!」
ユート・カルヴァンは、犬に追われながら器用に土手を駆け上がり、途中で足を滑らせ、盛大に転んだ。犬が追いつき、彼の背中の上に前脚を乗せて、それで満足したのか座り込んだ。
演習場のあちこちから笑い声が上がった。
レインは、ため息をつくべきか、笑うべきか、少し迷った。
「……レイン! おいレイン! 助けて! 重い! 重いって!」
「自分で退かせろ」
「無理だって! こいつ俺のこと嫌いなんだよ!」
「犬に嫌われる才能があるんだな」
「褒めるところじゃないだろ今のは!」
レインは歩み寄り、犬の首元を軽く撫でた。老犬は喉を鳴らし、のっそりと退いた。
解放されたユートは、砂まみれのまま仰向けになって、大の字に伸びた。
痩せた体つきをしている。剣を振り込んでいる人間の体ではない。髪は無造作に伸びていて、いつも半分寝癖がついている。三年間、ほとんど変わらない姿だ。
「……レイン。お前、いま俺のこと呆れてるだろ」
「呆れてはいない」
「じゃあなんだよ」
「なぜ実技をすっぽかした」
ユートは腕で目元を覆った。指の隙間から、空が見えているのだろう。
「……出ても、結果一緒だし」
「結果は出てみないとわからない」
「わかるって」
ユートは軽く笑った。乾いた笑い方だった。
「一年の時も、二年の時も、俺、下から数えた方が早かったんだぜ。三年になって急に強くなる魔法でもあんのかよ。あったら教えてくれ」
「ない」
「だろ」
「だが、出なければ確実に最下位だ」
「出ても最下位だよ」
「違う」
1章は結構長めの話が続きます、2章からは緩和します。




