第2章-⑬ ~敗北者と祖母~
第2章は全14話(①〜⑭)予定です。
マンガはこちら(第2章-①②③)
https://note.com/lush_plover1590/n/n336a21ab9b03
夕暮れが差し込むキャンパスの一角、木々のざわめきに紛れて安田弘樹はひとり、旧館前の石造りのベンチに腰掛けていた。
複雑な感情が入り混じり、空気が濃かった教授会をやっていたとは思えないほど、文学部構内は静まり返っていた。
近くの木から舞い落ちた葉が、彼の肩にそっと触れた。
手にしていた缶コーヒーはぬるくなっていた。「お疲れさまでした」と皆に声をかけられながら、彼だけが取り残されたような感覚に包まれていた。
勝者ではなくなった途端、世界の色が微妙に変わってしまった。同志たちの視線も、どこか遠く他人行儀だった。
「お疲れさまです」
柔らかな声が背後からかけられた。
振り向くと、そこに立っていたのは大迫智子だった。
参加はしていないが教授会での明確な勝者側でありながら、その表情には勝ち誇った色は一切なく、ただ穏やかな余韻が漂っていた。
「─ああ、大迫先生」
安田はぎこちなく笑い、ベンチの端に身体を寄せた。
大迫は黙って隣に腰を下ろし、しばし風の音に耳を澄ませるように視線を空に向けた。
「ご挨拶ありがとうございます。……まあ、こういう日もありますよ」
「ええ。でも、あなたにとっては珍しい日だったでしょう?」
その一言に安田はわずかに目を細めた。彼は負けた。それは事実だ。しかし、まだその意味を受け止めきれていなかった。
「あなたが怖がられていたのは、能力じゃないのよ」
「……え?」
「あなたが何をするか、じゃなくて、あなたが何をさせるか。それが皆には見えなかったの」
大迫の声は穏やかだったが、その言葉は鋭く突き刺さるようだった。
「あなたは有能よ。実行力もあるし、実績も申し分ない。でも─あなたが全部やればいい、と思っているうちは、周囲は委縮する。誰も挑戦しなくなるの」
安田はしばし沈黙した。彼の中で何かが静かに軋んだ。
「……難しいですね」
「難しいわ。でも、あなたならできる。今回は負けたんじゃない。まだ準備が整っていなかっただけよ」
彼は苦笑し、視線を落とした。
「自分では、うまくやっているつもりだったんですけどね」
「うまくやることと、周りが動けることは、必ずしも一致しないの」
その言葉に彼は何も言い返せなかった。ただ、手のひらの中で缶を転がしながら、遠くの空を見上げた。
その様子を柳澤は旧館の窓越しに見つめていた。凛がそっと隣に立ち、静かに言う。
「……あれも一種の投票ですね」
「静かな信任、ってやつだな」
二人の視線の先、大迫の背中は夕陽に照らされている。
その立ち居振る舞いには、何も押しつけるものがなかった。ただ、そっと寄り添うように座ることで、相手の心に変化を与えていた。
(この人は、見えない力でも動かすんだ)
命令でも指示でもない。
ただ話すだけ、聞くだけ。
けれど、それが風のように誰かの心をそっと揺らすこともある。




