第2章-⑦ ~祖母仮説~
第2章は全14話(①〜⑭)予定です。
マンガはこちら(第2章-①②③)
https://note.com/lush_plover1590/n/n336a21ab9b03
旧館の裏庭にあるベンチに、柳澤と凛は並んで腰掛けていた。投票日まであと数日。雨上がりの午後、濡れた緑が陽に輝いている。
「なんか、大迫先生って、ただの傍観者には見えないんですよね」凛がつぶやく。
「静かな観察者、ってやつだな。でも一言で人の動きを変える。実際、過去には、あの人の言葉で一晩の内に投票結果が変わったこともある、って清水さんが言っていたな」
「群れの風向きを読む存在か……」
「祖母仮説ってやつだな」
「来た。進化心理学トーク」
柳澤は少し姿勢を変えて、視線を凛に向けた。
「人間では〝おばあちゃん〟が存在するように進化した、って考え方だ。人間を含む哺乳類は子育てをする。産まれた子どもはその個体だけでは生きていけない。まずは授乳で栄養を取り、授乳を終えても親の庇護を受けて育っていく。子育ての期間は様々だが多くの哺乳類では一年くらいで、長くても数年程度。類人猿でも十年はないだろう。この中で人間は例外と言っていいほど、長い期間を育児にあてるんだ。」
柳澤が語るところでは、人間は石器時代からコミュニケーションをしながら群れで協力して暮らしてきた。
発話を含む言語、周りとうまくやっていくための知恵、群れに貢献できるスキル、と脳が発達したがゆえに習得しなければならないことが多いのだ。
昔からだいたい二十歳近くなるまで、親が子どもを育てていたのである。そして人間の子どもはとにかく手がかかる。
まず脳や体が発達しないまま産まれてくる赤ちゃんは放っておくとあっという間に死んでしまう。そして、同時に複数の子どもたちの面倒を見なければならない。これは両親だけでは、とても育児はできなかっただろう。
血縁者はもちろん、群れ全体で育児をおこなうことが必要であった。人間は共同繁殖、つまりみんなで子どもを育てる動物なのだ。
「その中でも重要な役割を果たしたのは、〝おばあちゃん〟だ。実はヒト以外の類人猿のメスは、出産ができなくなるのと寿命を迎える時期がほぼ同じなんだ。ヒトの女性はもう自分では産まないけど、次世代を育てる役割を担った。というか、そういうおばあちゃんがいる孫たちが生き残りやすかった。だからおばあちゃんがいる、という進化が起こったということだ」
「へえ。他の生物にはいない〝おばあちゃん〟がいる、っていうのも進化心理学で説明できるんですね」
「色々なタイプのおばあちゃんがいるよな。世話好きでとにかく孫の面倒を見るおばあちゃん。そうではなく、静かに周囲のバランスを見ながら、長老的ポジションで動きがないように見えて、実は全体を安定させるおばあちゃん」
「大迫先生ですね、それは」凛が考えてから続けた。
「生物って自分や子どもを守る本能があるって思っていましたけど、〝おばあちゃん〟が進化した、って聞くと、それだけじゃなくて血のつながっている人、例えば孫を育てるというのも進化で培われた本能に根差している、ってことですかね」
柳澤はうなずいた。
「包括適応度という考え方がある。自分の遺伝子を、なるべく『共有が多い相手』に託す戦略だ。たとえばハチやアリのメスは、実は遺伝子的には、自分の子より姉妹の方が血縁度が高い。だから、働きバチのメスは自分では産まず、女王の子を育てるようになった。……進化の結果としてね。不思議な利他的な行動に見えて、実は遺伝子を残すために理にかなった行動なんだ。」
「つまり個体の繁殖じゃなくて、遺伝子の繁殖が大事ってことか」
「その通り。利他行動も進化的に見ると自己犠牲じゃなくて、『包括的な自分』を残す戦略なんだ」
凛が空を見上げた。
「人間も、そういう仕組みに乗って生きているんですね。だから、ああいう大迫先生、みたいな存在が必要になる」
柳澤はポケットからメモ帳を取り出し、さらりと一行書いた。
─祖母仮説的存在=投票には参加しないが、場の安定を支える風を作る。
「さて、票の風向き、変わりそうですかね?」
「静かだけど、動きは確実に起きているのかもしれない。問題は……誰がその風を感じるか、だね」柳澤はうなずいた。
「それがわかれば、このゲームの勝者が誰になるか、も見えてくる」
─静かに風が吹いていた。誰がその匂いを感じ取るか、試されていた。




