第9話「限界点」
無影灯の強烈な光が、術野の中心だけを白く切り取っている。
四方の壁は冷たいステンレスで覆われ、空調の低い唸り音が空間を満たしていた。
電子モニターが刻む規則的な心拍音。
吸引器が血液を吸い込む、ズズッという湿った音。
電気メスが組織を焼き切る際の発火音と、肉の焦げる特有の匂い。
それらの情報が、理玖の研ぎ澄まされた五感を容赦なく叩き続けている。
橘のメスを持つ手は、まるで精密機械のように正確だった。
一度の迷いもなく皮膚を切開し、胸骨を縦断する。
開かれた胸腔には、大量の血液と凝血塊が溜まり、心臓の動きを物理的に阻害していた。
「吸引を強めろ。生理食塩水、もっとだ」
橘の低い声が飛ぶ。
理玖は対面に立ち、吸引管を操作しながら術野を確保し続けた。
溜まっていた血液が取り除かれると、激しく拍動する小さな心臓が姿を現す。
前回の縫合部の一部から、血液が吹き出しているのが見えた。
組織の脆弱化による縫合不全だ。
「プレジェット付きの糸を。4-0だ」
器械出しの看護師から受け取った持針器を、橘は素早い手首の返しで操る。
拍動を続ける心臓の、ミリ単位の隙間を縫って針を通していく。
常人であれば、恐怖で手がすくむような曲芸的な手技だ。
しかし橘の指先には、一切の震えがない。
理玖はモニターの数値を凝視し、輸液の速度を調整する。
しかし、理玖自身の限界はすでに近いところまで来ていた。
睡眠不足と極度の緊張、そして急激な全力疾走が、抑え込んでいたオメガの周期の波を完全に引き起こしてしまったのだ。
術衣の下で、全身が燃えるように熱い。
汗が目に入りそうになるが、不潔な手で拭うことはできない。
呼吸をするたびに、肺の奥で熱風が渦巻くような感覚がある。
視界の周辺が白く濁り、橘の手元だけが異常に鮮明に見えていた。
足の裏が床の感覚を失い、膝が小刻みに震え始める。
立っていることすら困難な状態だ。
それでも理玖をその場に繋ぎ止めていたのは、目の前で命を繋ごうとしている橘の放つ、強烈なアルファのフェロモンだった。
橘の気配が、理玖の朦朧とする意識に冷や水を浴びせ、強制的に覚醒状態を維持させている。
「……結紮終わる。血圧は」
「……収縮期、90まで、回復」
理玖の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
息を吐くたびに、甘い香りが漏れ出そうになるのを必死に噛み殺す。
橘の視線が一瞬だけ、術野から理玖へと向いた。
マスク越しでも分かる、鋭い眼光。
理玖の異変に気づいている。
しかし、橘は何も言わず、再び術野へと視線を戻した。
止血が確認され、胸腔内の洗浄が行われる。
ペーシングワイヤーが固定され、胸骨のワイヤー締結が始まった。
規則正しい機械音が、次第に安定したリズムを刻み始める。
健太の顔に、微かに赤みが戻ってきていた。
「オペ終了。ICUへ運ぶ」
橘が持針器を金属のトレイに置いた、その鈍い音が、終わりの合図だった。
全身を縛り付けていた極度の緊張の糸が、プツリと音を立てて切れる。
その瞬間、理玖の視界が完全にブラックアウトした。
膝の力が抜け、身体が重力に従って崩れ落ちていく。
冷たい床に顔を打ちつけることを覚悟し、理玖は目を閉じた。
しかし、その衝撃は訪れなかった。
床に叩きつけられる直前、強靭な腕が理玖の腰を抱え上げ、力強く引き寄せたのだ。
術衣越しに伝わる、焼け付くような体温と、硬い胸板の感触。
肺の底まで満たされる、冷たく澄んだ冬の夜の香り。
「よく保たせたな」
頭上から降ってきたのは、責めるような響きの一切ない、深い労いの声だった。
理玖は橘の胸に顔を埋めたまま、震える手で彼の術衣を握りしめた。
「橘、先生……健太君は」
「助かった。お前が心臓を動かし続けたおかげだ」
その言葉を聞いた瞬間、理玖の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
もう、強がる余裕も、自身のフェロモンを隠す理性も残っていない。
理玖は橘の腕の中で、ただ子どもように声を上げて泣きじゃくった。
橘は周囲の視線を気にする素振りも見せず、理玖の背中に大きな手を回し、その震えを鎮めるようにゆっくりと撫で続けた。
オペ室の冷たい空気の中で、二人の体温だけが確かな熱を持って交じり合っていた。




