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限界オメガの小児科医ですが、天才アルファ外科医に溺愛され独占されています  作者: 水凪しおん


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第8話「暗転する病室」

 深夜2時。

 窓ガラスを叩きつける冷たい雨の音が、病棟の静寂を不規則に破っている。

 理玖はナースステーションの薄明かりの中で、電子カルテの画面を見つめていた。

 数日前の仮眠室での出来事以来、理玖の体内にある熱の波は、橘の気配を感じるたびに奇妙な静けさを保つようになっていた。

 橘が側にいるという事実そのものが、理玖のオメガとしての本能に絶対的な安心感を与え、フェロモンの暴走を抑え込んでいるのだ。

 マウスを操作する指先に、まだ微かな気怠さが残っている。

 モニターの青白い光が、理玖の疲労の影を色濃く映し出していた。

 温かいほうじ茶の入った紙コップを手に取り、一口啜る。

 茶葉の香ばしい匂いと、微かな甘みが舌の上に広がる。

 味覚は完全に正常な状態を取り戻していた。

 生きている実感。

 それを取り戻す手助けをしてくれた橘の横顔が、不意に脳裏をよぎる。

 冷徹な氷の奥に隠された、ひたむきな命への執着。

 理玖の胸の奥で、小さく温かいものが脈打つ。

 その時、静寂を切り裂くように、甲高い電子アラートがナースステーションに鳴り響いた。

 赤いランプが激しく点滅し、壁のモニターに病室の番号が浮かび上がる。

 402号室。

 一般病棟に移ったばかりの、健太の部屋だ。

 理玖の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。

 紙コップを机に叩きつけるように置き、理玖は弾かれたように立ち上がった。

 当直の看護師たちも同時に動き出し、緊迫した空気が一瞬にして空間を支配する。

「結城先生、健太君の血圧が急低下! SpO2も80を切りました!」

「救急カートと除細動器を持っていって! 挿管の準備も!」

 走りながら指示を飛ばす理玖の声が、廊下に響き渡る。

 足裏が床を蹴る音だけが、耳の中で異様に大きく聞こえた。

 402号室のドアを乱暴に開け放つ。

 薄暗い病室の中、ベッドの上の健太は苦しげに胸を反らせ、痙攣を起こしていた。

 顔面は蒼白を通り越して土気色に沈み、唇は完全なチアノーゼを起こして紫色に染まっている。

 モニターの波形は無秩序に乱れ、けたたましい警告音が絶え間なく鳴り続けていた。

 理玖はベッドに飛び乗り、健太の小さな肩を掴んだ。

「健太君! 分かるか! 健太君!」

 呼びかけに応答はない。

 頸動脈に指を当てるが、脈拍は触れるか触れないかというほどに微弱だった。

 心室細動だ。

 術後の経過は順調だったはずだ。

 何が起きたのかを思考するよりも早く、理玖の身体が動いた。

「胸骨圧迫を開始します。ボスミン0.2ミリ、静注準備!」

 理玖は両手を重ね、健太の胸郭の中心に体重を乗せた。

 肋骨の沈み込む感触が、手のひらを通して痛いほどに伝わってくる。

 一、二、三、四。

 規則正しく、しかし強い力を込めて圧迫を繰り返す。

 冷や汗が額を伝い、眼鏡のレンズに落ちた。

 病室に駆け込んできた看護師たちが、迅速に点滴のルートを確保し、薬剤を準備する。

 注射器のシリンジが押し込まれ、透明な液体が健太の血管へと流れ込んでいく。

 アンビューバッグによる用手換気が行われ、酸素が強制的に肺へと送り込まれる。

 理玖の視界が、極度の緊張と疲労で僅かに揺らいだ。

 自身の内側で眠っていた熱が、この極限状態に呼応するように再び首をもたげ始める。

 呼吸が乱れ、視点が定まらなくなる。

 しかし、手を止めるわけにはいかない。

 指先から伝わる健太の命の重さが、理玖を現実に縛り付けている。

「除細動器、充電完了しました!」

「離れて!」

 理玖はベッドから飛び退き、パドルが健太の胸に当てられるのを見守った。

 鈍い衝撃音とともに、小さな身体が大きく跳ねる。

 全員の視線がモニターに集中する。

 しかし、波形は依然として無秩序な乱れを繰り返すのみだった。

「だめです、戻りません!」

「もう一度だ! 200ジュールで充電!」

 焦燥感が病室内の酸素を食い尽くしていく。

 理玖は再びベッドに乗り、心臓マッサージを再開した。

 腕の筋肉が悲鳴を上げ、喉から血の味が込み上げてくる。

 失いたくない。

 あんなに笑顔を見せてくれた命を、ここで終わらせるわけにはいかない。

 その時、背後の廊下から、地響きのようなストレッチャーの車輪の音が近づいてきた。

 病室の空気が、重く冷たい圧力によって一瞬にして塗り替えられる。

「そこまでだ、結城。代われ」

 声とともに、理玖の肩が強い力で引き剥がされた。

 振り返ると、術衣姿の橘がそこに立っていた。

 彼の瞳は冷酷なまでに研ぎ澄まされ、一切の揺らぎがない。

 橘から放たれるアルファの気迫が、パニックに陥りかけていた病室の空気を完全に制圧した。

「心タンポナーデの再発だ。すぐに開胸する。オペ室へ運べ」

 橘の指示は絶対だった。

 誰もが彼の気迫に押され、機械のように正確に動き始める。

 健太の身体がストレッチャーに移され、廊下へと押し出されていく。

「結城。お前も来い」

 振り返りざまに放たれた橘の言葉。

 理玖は乱れた呼吸を整え、震える足に鞭を打って、橘の後を追って走り出した。

 窓の外の雨は、さらに激しさを増していた。

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