第7話「体温の記憶と抗えない波」
蛍光灯の白い光が、無機質な廊下の長尺シートを冷ややかに照らし出している。
結城理玖はカルテを抱えた腕に力を込め、壁沿いを這うようにして歩を進めていた。
一歩踏み出すたびに、足の裏から伝わる床の硬さが、脳髄を直接叩くように響く。
視界の端がぐにゃりと歪み、通り過ぎていく看護師たちの白い影が、水底から見上げる光のようにぼやけて見えた。
呼吸が浅く、早い。
マスクの下で繰り返される吐息は、熱を帯びて唇を乾燥させている。
午前中の外来診察を終えた直後から、体内の奥深くで燻っていた熱が、明確な輪郭を持ち始めていた。
首筋から背中にかけて、不快な汗がじわりと滲む。
抑制剤の服用量を減らしてから一週間。
味覚と嗅覚が鮮明さを取り戻す一方で、長年薬で押さえつけられていたオメガとしての周期が、不規則かつ暴力的な波となって理玖の身体を襲い始めていた。
本来ならば規則的に訪れるはずの周期が、反動で予測不能な熱の塊となり、理玖の臓器を内側から焼き焦がそうとしている。
甘く、粘り気のある自身のフェロモンが、毛穴という毛穴から漏れ出そうとするのを感じた。
理玖は白衣の襟元をきつく握りしめ、震える歯を食いしばる。
誰にも気づかれてはならない。
すれ違う医師たちの放つ雑多な匂いが、過敏になった嗅覚を無遠慮に突き刺す。
消毒液のアルコール臭、リネンの糊の匂い、そして微かなアルファたちの気配。
それら全てが、理玖の神経をヤスリで削るように逆撫でし、吐き気を催させた。
胃の奥が痙攣し、酸っぱい胃液が食道をせり上がってくる。
医局の重いスチールドアが、今は酷く遠い要塞の扉のように見えた。
ドアノブに手をかける。
金属の冷たさが掌を刺すが、理玖の体温はそれを一瞬で奪い去ってしまった。
◆ ◆ ◆
中に入ると、昼休みの医局は静まり返っていた。
薄暗い室内には、パソコンの冷却ファンが回る単調な音だけが響いている。
理玖は安堵の息を漏らし、自分のデスクへと向かおうとした。
しかし、その足は三歩と進まないうちに止まった。
部屋の奥、ソファが置かれた仮眠スペースの影から、圧倒的な密度を持った空気が流れ込んできたのだ。
冷たく澄んだ、冬の夜気のような香り。
橘朔也の放つ、強烈なアルファのフェロモンだった。
理玖の身体が、雷に打たれたように硬直する。
恐怖ではない。
それは、暴走しかけていた理玖のオメガとしての本能が、絶対的な捕食者であり庇護者である存在を見つけ出し、歓喜に震える反応だった。
膝の力が抜け、理玖は崩れ落ちそうになる。
カルテが手から滑り落ち、床に乾いた音を立てて散らばった。
「……結城」
低く、地を這うような声が、静寂を切り裂いた。
ソファの影から姿を現した橘は、眉間に深い皺を刻み、理玖を射抜くように見据えていた。
彼の長い足が、音もなく床を蹴り、一瞬で理玖の目の前まで間合いを詰める。
理玖は後ずさりしようとしたが、足が床に縫い付けられたように動かない。
橘の大きな手が伸び、理玖の腕を掴んだ。
術衣越しに伝わるその指先の力強さと、信じられないほどの熱量が、理玖の皮膚を突き破って血管へと流れ込んでくるようだった。
「お前、その匂い……」
「ちが、違います、僕は……」
理玖は意味のない言葉を紡ごうとしたが、喉の奥が干からびて声にならない。
橘は理玖の顎を反対の手で掴み、強引に顔を上げさせた。
至近距離で交わる視線。
橘の黒い瞳の奥に、射抜くような強い光が宿っていた。
彼は理玖の首筋に顔を寄せ、そこから立ち上る甘い香りを直接嗅ぎ取った。
「抑制剤の反動か。完全に発熱している」
「離して、ください。誰かが、来たら……」
「この状態で廊下に出る方が危険だ」
橘は理玖の抵抗を意に介さず、腕を腰に回すと、ほとんど抱え上げるようにして奥の仮眠室へと引きずり込んだ。
仮眠室のドアが閉まり、外の光が完全に遮断される。
狭く薄暗い空間に、二人の乱れた呼吸音だけが反響した。
橘は理玖を簡素なベッドの上に座らせ、自らもその目の前に膝をついた。
理玖の視線と同じ高さになる。
「俺の匂いに当てられたな。無理もない、お前の身体は今、あらゆる刺激に飢えている」
「……っ、橘先生、お願いです、薬を……」
「今すぐ強い薬を入れれば、ショックを起こすぞ」
橘の手が、理玖の白衣のボタンを外していく。
指先が理玖の鎖骨に触れるたび、そこから火花が散るような鋭い感覚が全身を駆け巡った。
ネクタイが引き抜かれ、シャツの襟元が大きく開かれる。
理玖の熱を帯びた皮膚が、冷たい室内の空気に晒された。
橘は自らのスクラブの首元を緩めると、これまで微かに漏れる程度に抑えていた自身のフェロモンを一気に解放した。
狭い仮眠室の空気が、氷点下まで下がったかのような錯覚に陥る。
重く、冷涼で、息が詰まるほどに濃密なアルファの香りが、理玖の全身に圧しかかってきた。
理玖の内側で暴れ狂っていた熱の波が、橘の放つ圧倒的な冷気によって強制的に鎮圧されていく。
細胞の隅々まで染み渡るような、強烈な支配と庇護だ。
「……息をしろ。俺の香りに合わせろ」
橘の低い声が、理玖の鼓膜を直接震わせる。
理玖は橘の肩に額を押し当て、言われるがままに深く息を吸い込んだ。
肺を満たす冬の夜の香りが、焼け付くような内臓の熱を冷まし、乱れた心拍をゆっくりと正常なリズムへと引き戻していく。
橘の腕が理玖の背中に回り、力強く抱き寄せた。
完全に身体が密着し、布越しに伝わる筋肉の硬さと心音の重なりが、理玖の意識を現実へと繋ぎ止める錨となる。
不器用で、暴力的なまでに強引な鎮静だ。
しかし、理玖にとってそれは、どんな薬よりも確実で、甘美な救済だった。
理玖の指先が、無意識のうちに橘の背中の布地を強く握りしめる。
嵐が過ぎ去るのを待つように、理玖は橘の体温の記憶を、細胞の奥深くに刻み込んでいた。




