第6話「屋上の風と不器用な庇護」
11月の冷たい風が、病院の屋上を吹き抜けていく。
フェンス越しに見下ろす街の灯りは、幾千もの命がそこで営まれていることを無言で伝えていた。
理玖は白衣のポケットに両手を突っ込み、凍えるような寒さの中で深く息を吸い込んだ。
吐き出す息は白く濁り、夜空へと溶けていく。
昼間、健太が一般病棟へと移った。
小さな体にいくつもの管を繋がれながらも、健太は理玖に向かってかすかに微笑んでくれた。
『先生、ありがとう』
その消え入りそうな声を聞いた瞬間、理玖の目から堪えきれない涙が溢れた。
医師として、患者の前で泣くなど失格だ。
理玖は逃げるように病室を飛び出し、誰もいない屋上へと駆け上がってきたのだ。
風に煽られ、白衣の裾が激しく翻る。
寒さで鼻先が赤くなり、耳がちぎれそうに痛む。
それでも、病室で流した涙の熱を冷ますためには、この凍てつくような外気が必要だった。
どれくらいそうしていただろうか。
背後にある重い鉄扉が、軋む音を立てて開いた。
振り返らなくても、誰が来たのかは分かった。
冷たい風に乗って、それよりもさらに冷涼で、しかし確かな温もりを含んだアルファの香りが届いたからだ。
理玖はフェンスを掴んだまま、視線を街の灯りに固定した。
「こんな所で何をしている」
背後からかけられた声は、風の音に掻き消されそうなくらい低かった。
橘の足音が近づき、理玖の隣に並ぶ。
彼は白衣も着ず、薄手のスクラブ一枚という軽装だった。
「……健太君が、笑ってくれました」
「経過は順調だ。泣く理由はない」
「泣いてなんかいません。ただ、風が目に染みただけです」
理玖は強がりを口にして、深く俯いた。
橘はそれ以上何も言わず、理玖と同じように街の灯りを見下ろした。
沈黙が続く。
しかし、その沈黙は不思議と心地よかった。
橘の存在が、強風から理玖を守る防波堤のように機能している。
彼の大きな体躯が風を遮り、放たれるフェロモンが理玖の乱れた心を凪のように静めていく。
理玖は、自身の中に芽生え始めた感情の正体に、もう気づいていた。
これは、オメガとしての本能だけではない。
結城理玖という一人の人間が、橘朔也という不器用で優しい男に惹かれているのだ。
「お前は、脆すぎる」
不意に、橘が静かな声で言った。
「患者の痛みを全て自分のもののように背負い込む。それでは、いつかお前自身が壊れるぞ」
「それでも……僕は、彼らに寄り添いたいんです。医者としてではなく、一人の人間として」
「青臭い理想だ」
橘の言葉は辛辣だったが、その響きには呆れよりも、微かな安堵が混じっているように理玖には聞こえた。
橘が理玖の方を向く。
月光に照らされた彼の横顔は、氷の彫刻のように美しい。
「だが、その青臭さがお前の武器なのかもしれん」
予想外の言葉に、理玖は顔を上げた。
橘の視線が、理玖の瞳を真っ直ぐに捉える。
冷たかったはずの橘の瞳の奥に、仄かな熱が灯っているのを理玖は見逃さなかった。
「俺はお前のように、患者と一緒に泣いてやることはできない。俺にできるのは、肉体を切り刻み、物理的に命を繋ぎ止めることだけだ」
「橘先生……」
「お前は、俺の欠落を埋めるピースだ」
それは、天才外科医としての孤独な告白だった。
橘の大きな手が伸び、理玖の冷え切った頬を包み込んだ。
指先から伝わる体温は、火傷しそうなほどに熱い。
理玖は息を呑み、橘の掌の温もりに身を委ねた。
「薬はもう、限界まで減らせ。お前の全てを、俺が管理する。……いいな」
「……はい」
理玖の声は震えていた。
寒さのせいではない。
自身の内側から湧き上がる、強烈な歓喜と安堵の感情が、全身を震わせているのだ。
理玖はそっと目を閉じ、橘の手に自分の手を重ねた。
屋上を吹き抜ける風の冷たさは、もう気にならなかった。
二人の間には、世界から切り離されたような、暖かく静かな時間が流れていた。




