第5話「氷を溶かす琥珀色の雫」
深夜0時を回った小児科のナースステーションは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
モニターの電子音と、当直の看護師がキーボードを叩く乾いた音だけが、等間隔で空間に響いている。
理玖はカルテの束を小脇に抱え、薄暗い廊下を当直室へと向かって歩いていた。
薬を減らしてから3日が経過した。
味覚と嗅覚は徐々に本来の機能を取り戻しつつある。
それに伴い、慢性的な疲労感は驚くほどに軽減されていた。
しかし、代償として、自身のフェロモンのコントロールという新たな課題に直面している。
感情が揺れ動くたびに、甘い香りが漏れ出しそうになるのを、理玖は必死の自制心で押さえ込んでいた。
特に、橘の姿を見かけた時や、彼の声を聞いた時、そのコントロールは極めて困難になる。
当直室のドアノブに手をかけた瞬間、中から微かなコーヒーの香りが漂ってきた。
理玖は動きを止める。
この匂いは、缶コーヒーのものではない。
豆から挽いた、深く焙煎された豊かな香りだ。
ドアを静かに押し開けると、暗い部屋の片隅にあるデスクランプだけが灯っていた。
その小さな光の円の中に、白衣を脱いでスクラブ姿になった橘が座っていた。
彼は手元の医学洋書に目を落としながら、片手でマグカップを持っている。
理玖の侵入に気づいているはずだが、視線を上げることはない。
理玖は音を立てないようにドアを閉め、部屋の隅にある自分のデスクへと向かった。
カルテを置き、椅子に腰を下ろす。
橘との間には、数メートルの空間がある。
しかし、狭い当直室の中では、彼の放つ冬の夜気のような香りが満ちており、理玖の身体を優しく包み込んでいた。
「……健太の術後経過はどうだ」
不意に、静寂を切り裂くように橘が口を開いた。
ページをめくる手は止まっていない。
「はい。心不全の兆候は見られません。明日から、少しずつ食事を開始する予定です」
「そうか」
短いやり取りだ。
それだけで、会話は途切れた。
理玖は立ち上がり、部屋の備え付けの流し台へと向かった。
橘が淹れたであろうコーヒーメーカーのポットには、まだ温かい琥珀色の液体が残っている。
理玖は戸棚から自分のマグカップを取り出し、静かにコーヒーを注いだ。
立ち上る湯気とともに、心地よい苦みが鼻腔をくすぐる。
一口飲むと、舌の裏側に豊かなコクと酸味が広がった。
美味しい。
心からそう感じた。
味覚が戻ってきたことへの喜びが、理玖の胸に小さく灯る。
理玖はカップを持ったまま、橘のデスクに近づいた。
「橘先生。コーヒー、いただきます」
「勝手に飲め」
素っ気ない返事だ。
理玖は橘の斜め向かいの椅子に座り、コーヒーを両手で包み込んだ。
橘の横顔は、ランプの光を受けて深い陰影を描き出している。
一切の隙のない、完璧な造形だ。
しかし、その瞳の奥には、いつも深い闇が沈んでいるように理玖には見えた。
「……橘先生は、いつも夜遅くまで病院にいらっしゃいますね」
「家に帰る理由がないだけだ」
「ご家族は……」
「いない」
断絶を告げるような、冷たい響きだ。
これ以上踏み込むなという無言の圧力を感じる。
しかし、理玖はなぜか、このまま引き下がりたくなかった。
薬による抑圧から解放されつつある感情が、理玖の背中を押している。
「僕が医者になったのは、子どもの頃に心臓の病気で助けてもらったからです」
唐突な自分の昔話だ。
橘はページをめくる手を止め、わずかに理玖の方へ視線を動かした。
「毎日が苦しくて、痛くて、ベッドの上で泣いてばかりいました。でも、主治医の先生が、いつも励ましてくれたんです。絶対に治すから、一緒に頑張ろうって」
「……」
「だから、僕も誰かを助けたい。子どもたちが笑って明日を迎えられるようにしたいんです。……甘い、でしょうか」
理玖は手元のマグカップの縁を指でなぞりながら、言葉を絞り出した。
天才と呼ばれる橘の前で、自分のちっぽけな動機を語ることが恥ずかしかった。
橘は本を閉じ、ゆっくりと理玖に向き直った。
「医者の動機など、何でもいい。結果が全てだ。患者を生かして帰す。それ以外に我々の存在価値はない」
「はい」
「だが……」
橘の視線が、虚空を彷徨うように僅かに下を向いた。
「生かして帰せなかった命を、どう背負うか。それが医者としての真価を決める」
その声には、普段の彼からは想像もつかないほどの重く、鈍い痛みが混じっていた。
理玖の胸が締め付けられる。
院内で密かに囁かれている噂。
橘が過去に、手の施しようのない小児患者を執刀し、その小さな命を救えなかったという話。
彼の完璧主義と、周囲を寄せ付けない冷たさは、その過去の喪失から身を守るための鎧なのだと、理玖は直感した。
理玖は無意識に手を伸ばし、デスクの上に置かれた橘の冷たい手に重ねた。
「橘先生は、たくさんの方を救ってこられました。僕も、その一人です」
理玖の言葉に、橘は目を見開いた。
重ねられた手から、理玖の体温と、僅かに漏れ出したオメガの柔らかな香りが伝わっていく。
橘は手を振り払わなかった。
ただ、理玖の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
二人の間に流れる時間が、ゆっくりと溶けていく。
当直室の冷たい空気が、コーヒーの香りと二人の体温で、ほんの少しだけ温かさを帯びていた。




