表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
限界オメガの小児科医ですが、天才アルファ外科医に溺愛され独占されています  作者: 水凪しおん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/14

第5話「氷を溶かす琥珀色の雫」

 深夜0時を回った小児科のナースステーションは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 モニターの電子音と、当直の看護師がキーボードを叩く乾いた音だけが、等間隔で空間に響いている。

 理玖はカルテの束を小脇に抱え、薄暗い廊下を当直室へと向かって歩いていた。

 薬を減らしてから3日が経過した。

 味覚と嗅覚は徐々に本来の機能を取り戻しつつある。

 それに伴い、慢性的な疲労感は驚くほどに軽減されていた。

 しかし、代償として、自身のフェロモンのコントロールという新たな課題に直面している。

 感情が揺れ動くたびに、甘い香りが漏れ出しそうになるのを、理玖は必死の自制心で押さえ込んでいた。

 特に、橘の姿を見かけた時や、彼の声を聞いた時、そのコントロールは極めて困難になる。

 当直室のドアノブに手をかけた瞬間、中から微かなコーヒーの香りが漂ってきた。

 理玖は動きを止める。

 この匂いは、缶コーヒーのものではない。

 豆から挽いた、深く焙煎された豊かな香りだ。

 ドアを静かに押し開けると、暗い部屋の片隅にあるデスクランプだけが灯っていた。

 その小さな光の円の中に、白衣を脱いでスクラブ姿になった橘が座っていた。

 彼は手元の医学洋書に目を落としながら、片手でマグカップを持っている。

 理玖の侵入に気づいているはずだが、視線を上げることはない。

 理玖は音を立てないようにドアを閉め、部屋の隅にある自分のデスクへと向かった。

 カルテを置き、椅子に腰を下ろす。

 橘との間には、数メートルの空間がある。

 しかし、狭い当直室の中では、彼の放つ冬の夜気のような香りが満ちており、理玖の身体を優しく包み込んでいた。

「……健太の術後経過はどうだ」

 不意に、静寂を切り裂くように橘が口を開いた。

 ページをめくる手は止まっていない。

「はい。心不全の兆候は見られません。明日から、少しずつ食事を開始する予定です」

「そうか」

 短いやり取りだ。

 それだけで、会話は途切れた。

 理玖は立ち上がり、部屋の備え付けの流し台へと向かった。

 橘が淹れたであろうコーヒーメーカーのポットには、まだ温かい琥珀色の液体が残っている。

 理玖は戸棚から自分のマグカップを取り出し、静かにコーヒーを注いだ。

 立ち上る湯気とともに、心地よい苦みが鼻腔をくすぐる。

 一口飲むと、舌の裏側に豊かなコクと酸味が広がった。

 美味しい。

 心からそう感じた。

 味覚が戻ってきたことへの喜びが、理玖の胸に小さく灯る。

 理玖はカップを持ったまま、橘のデスクに近づいた。

「橘先生。コーヒー、いただきます」

「勝手に飲め」

 素っ気ない返事だ。

 理玖は橘の斜め向かいの椅子に座り、コーヒーを両手で包み込んだ。

 橘の横顔は、ランプの光を受けて深い陰影を描き出している。

 一切の隙のない、完璧な造形だ。

 しかし、その瞳の奥には、いつも深い闇が沈んでいるように理玖には見えた。

「……橘先生は、いつも夜遅くまで病院にいらっしゃいますね」

「家に帰る理由がないだけだ」

「ご家族は……」

「いない」

 断絶を告げるような、冷たい響きだ。

 これ以上踏み込むなという無言の圧力を感じる。

 しかし、理玖はなぜか、このまま引き下がりたくなかった。

 薬による抑圧から解放されつつある感情が、理玖の背中を押している。

「僕が医者になったのは、子どもの頃に心臓の病気で助けてもらったからです」

 唐突な自分の昔話だ。

 橘はページをめくる手を止め、わずかに理玖の方へ視線を動かした。

「毎日が苦しくて、痛くて、ベッドの上で泣いてばかりいました。でも、主治医の先生が、いつも励ましてくれたんです。絶対に治すから、一緒に頑張ろうって」

「……」

「だから、僕も誰かを助けたい。子どもたちが笑って明日を迎えられるようにしたいんです。……甘い、でしょうか」

 理玖は手元のマグカップの縁を指でなぞりながら、言葉を絞り出した。

 天才と呼ばれる橘の前で、自分のちっぽけな動機を語ることが恥ずかしかった。

 橘は本を閉じ、ゆっくりと理玖に向き直った。

「医者の動機など、何でもいい。結果が全てだ。患者を生かして帰す。それ以外に我々の存在価値はない」

「はい」

「だが……」

 橘の視線が、虚空を彷徨うように僅かに下を向いた。

「生かして帰せなかった命を、どう背負うか。それが医者としての真価を決める」

 その声には、普段の彼からは想像もつかないほどの重く、鈍い痛みが混じっていた。

 理玖の胸が締め付けられる。

 院内で密かに囁かれている噂。

 橘が過去に、手の施しようのない小児患者を執刀し、その小さな命を救えなかったという話。

 彼の完璧主義と、周囲を寄せ付けない冷たさは、その過去の喪失から身を守るための鎧なのだと、理玖は直感した。

 理玖は無意識に手を伸ばし、デスクの上に置かれた橘の冷たい手に重ねた。

「橘先生は、たくさんの方を救ってこられました。僕も、その一人です」

 理玖の言葉に、橘は目を見開いた。

 重ねられた手から、理玖の体温と、僅かに漏れ出したオメガの柔らかな香りが伝わっていく。

 橘は手を振り払わなかった。

 ただ、理玖の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 二人の間に流れる時間が、ゆっくりと溶けていく。

 当直室の冷たい空気が、コーヒーの香りと二人の体温で、ほんの少しだけ温かさを帯びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ