第10話「微熱の余韻と境界の融解」
深い海の底から水面へと引き上げられるように、ゆっくりと視界が明るさを取り戻していく。
結城理玖の最初に視界へ飛び込んできたのは、見慣れた当直室の染みだらけの天井ではなく、間接照明の柔らかな光に照らされたオフホワイトの壁紙だった。
背中を包み込むマットレスは適度な反発力を持ち、肌に触れるシーツは絹のように滑らかだ。
鼻腔をくすぐるのは、消毒液の匂いではない。
深く、冷涼で、それでいてひどく安心感を与える冬の夜気の香り。
橘朔也のフェロモンだ。
理玖は重い瞼を瞬き、ここが病院の最上階にある特別室であることに気がついた。
主に要人が使用する、厳重なセキュリティに守られた個室だ。
右腕には点滴のルートが確保され、透明な液体が静かに血管へと滴り落ちている。
身体の奥深くで暴れ狂っていた熱の波は、嘘のように引いていた。
代わりに、指の先からつま先に至るまで、心地よい気怠さと温かな余韻が満ちている。
それは、長年自身を縛り付けていた鎖が解かれたような、不思議な解放感だった。
首を右に巡らせる。
窓際のレザーソファに、術衣から黒のタートルネックに着替えた橘が深く腰掛けていた。
彼は腕を組み、静かに目を閉じている。
長いまつ毛が頬に影を落とし、普段の鋭い眼光が隠されていると、信じられないほどに穏やかな顔立ちに見えた。
どれくらいの時間、こうして傍にいてくれたのだろうか。
理玖が身じろぎをしてシーツが微かな衣擦れの音を立てた瞬間、橘の瞳が鋭く開かれた。
「……目が覚めたか」
低く響く声が、静寂の空間に波紋を広げる。
橘は立ち上がり、音もなくベッドサイドへと近づいてきた。
彼の大きな手が伸び、理玖の額にそっと触れる。
冷たい指先の感触が、火照りの残る肌に心地よい。
「熱は下がったな。心拍も安定している。電解質の数値も落ち着いてきた」
「橘先生……ここは」
「俺の個人的な裁量で使わせてもらっている部屋だ。お前のあの状態を、他の医者や看護師の目に晒すわけにはいかないだろう」
橘は点滴の落ちる速度を指先で微調整し、理玖の顔を見下ろした。
その瞳の奥には、オペ室で見せた冷酷な光は微塵もない。
ただ、不器用なほどの深い気遣いが沈んでいる。
「健太君は……」
「ICUで眠っている。バイタルは完全に安定した。お前が最後まで胸を押し続けたからだ。あの小さな心臓は、お前の執念が繋ぎ止めた」
橘の言葉が、理玖の胸の奥にある柔らかい部分を正確にえぐる。
あふれそうになる感情を抑えきれず、理玖は唇を強く噛み締めた。
視界が水鏡のように揺らぎ、熱い滴がこめかみを伝って枕へと吸い込まれていく。
助かったのだ。
あの命を、手のひらからこぼれ落とさずに済んだ。
「泣くな。お前はもう、自分の役割を果たした」
橘の指先が、理玖の目元を拭う。
その動作は見違えるほどに優しく、理玖の呼吸を乱すには十分すぎる破壊力を持っていた。
理玖は橘の手首を弱々しく掴む。
彼の皮膚から立ち上るアルファの香りが、理玖の開いた毛穴から直接浸透してくる。
恐怖は全くない。
ただ、この匂いに包まれていることの絶対的な安堵が、理玖の理性を少しずつ溶かしていく。
「先生の、おかげです。先生が来てくれなかったら、僕は……」
「俺はお前を助けたわけじゃない。患者を助けただけだ」
「それでも……僕は、先生に救われました。何度も」
理玖の告白に、橘は僅かに目を細めた。
彼は理玖の拘束を振り解くことはせず、逆にその手を包み込むように握りしめる。
骨ばった大きな手だ。
数え切れないほどの命を切り刻み、繋ぎ合わせてきた、神業を持つ指。
その手が今、理玖という一人の人間を、壊さないように大切に扱っている。
「お前の身体は、抑制剤の反動で極限状態にあった。オメガとしての周期を無理に止めることは、命を削る行為だ。これ以上、あの薬は使わせない」
「でも、薬をやめれば……僕の匂いが……」
「誰にも嗅がせない。俺の匂いでお前を上書きする。他のアルファどもが近づけないように、俺が徹底的に管理する」
その言葉の意味を理解し、理玖の心臓が激しく跳ねた。
それは、オメガバースにおける「番」の契約に近い、強烈な独占の宣言だ。
橘朔也という男が、結城理玖という存在を、自らの庇護下に置き、外敵から守り抜くという決意。
理玖の首筋から、微かに甘い香りが漏れ出す。
感情の昂ぶりが、フェロモンの分泌を促しているのだ。
橘はそれに気づき、顔を理玖の首元へと近づけた。
「……甘いな。これが、お前の本当の匂いか」
橘の鼻先が、理玖のうなじをかすめる。
背筋を電流が駆け抜け、理玖は思わず身をよじった。
橘の呼吸が肌に触れるたび、体内の奥深くで静まっていた熱が、形を変えて再び燃え上がりそうになる。
しかし、それは病的な苦痛を伴うものではない。
アルファに焦がれるオメガの、純粋で抗いがたい衝動だ。
「怖がるな。俺はお前を壊さない」
橘の唇が、理玖の耳朶に触れるか触れないかの距離で言葉を紡ぐ。
その低い振動が、理玖の脳髄を甘く痺れさせた。
理玖は自身の内側から溢れ出す感情を、もう隠そうとはしなかった。
ただ、橘の背中に腕を回し、その強靭な身体にしがみつく。
特別室の静寂の中、二人の交ざり合う呼吸の音だけが、永遠のように続いていた。




