第11話「コーヒーの温度と独占の証明」
3日後。
小児科のナースステーションは、朝の申し送りで慌ただしい空気に包まれていた。
理玖は白衣のポケットにタブレットを滑り込ませ、背筋を伸ばす。
2日間の休養を経て、完全に体力は回復していた。
劇薬だった抑制剤を断ち切り、橘の指定した軽い漢方とビタミン剤のみに切り替えた身体は、羽が生えたように軽い。
食事の味は驚くほどに鮮明で、朝食の味噌汁の出汁の香りすら、感動を覚えるほどだった。
しかし、最も大きな変化は、理玖自身が纏う「空気」だった。
首筋や手首、そして白衣の繊維の奥深くから、橘の放つ冬の夜気のような香りが微かに、しかし確かな主張を持って漂っているのだ。
それは毎朝、橘の個室に赴き、彼から直接「マーキング」としてのフェロモンを与えられている結果だった。
身体を重ねるような直接的な行為はない。
ただ、強く抱きしめられ、肌に直接息を吹きかけられるだけの、精神的な儀式だ。
それでも、強大なアルファの気配は理玖の身体に染み込み、他のアルファの接近を強力に拒絶する見えない鎧となっていた。
「結城先生、おはようございます。顔色、すごく良くなりましたね」
先輩の看護師が、カルテの束を抱えながら声をかけてきた。
「おはようございます。ご心配をおかけしました。もうすっかり大丈夫です」
理玖が微笑むと、看護師は少し不思議そうな顔をした。
「なんだか、雰囲気が変わりました? 前はもっと、こう……触れちゃいけないようなピリピリした感じがあったんですけど。今はすごく、柔らかいというか」
「そうですか? よく寝たからかもしれません」
理玖は誤魔化すように笑い、視線をモニターへと逃がした。
薬で感情を殺していた頃の張り詰めた緊張感が抜け、本来の穏やかな気質が表に出始めているのだろう。
申し送りが終わり、理玖は一般病棟へと回診に向かった。
廊下を歩いていると、すれ違う何人かの医師が、理玖を振り返るのが分かった。
特にアルファの医師たちは、理玖から漂う橘の強烈な気配を察知し、明確な警戒と戸惑いの表情を浮かべて道を譲っていく。
誰も、理玖に無遠慮に近づこうとはしない。
橘の庇護が、この病院という閉鎖的な社会においてどれほど絶大な効力を発揮しているのかを、理玖は肌で感じていた。
◆ ◆ ◆
402号室。
ドアを開けると、ベッドの上で健太が絵本を読んでいた。
顔色は見違えるように良く、唇には健康的な赤みが戻っている。
胸にはまだいくつか管が繋がっているが、その表情は明るかった。
「先生!」
「おはよう、健太君。今日の調子はどう?」
理玖はベッドの脇に座り、聴診器を健太の胸に当てた。
規則正しく、力強い心音だ。
あの嵐のような夜が嘘のように、命のリズムは確実に時を刻んでいる。
理玖の胸の奥に、熱い塊が込み上げてくる。
自分がこの命を繋ぐ一端を担えたという事実。
そして、それを可能にしてくれた橘の存在。
「先生、ぼく、もう痛くないよ。いつ帰れる?」
「もう少しだね。ご飯をいっぱい食べて、体力が戻ったら、お家に帰れるよ」
「ほんと? やった!」
無邪気に喜ぶ健太の頭を撫でながら、理玖は心からの笑顔を浮かべた。
◆ ◆ ◆
回診を終え、医局へと戻る途中。
自動販売機のコーナーで、同じ小児科の先輩医師である佐々木に呼び止められた。
彼は優秀だが、少し軽薄なところのあるアルファだった。
「結城、ちょっといいか」
「はい。何でしょうか」
「お前、最近……なんだかいい匂いがするな」
佐々木が一歩、距離を詰めてくる。
彼の甘ったるい香水の匂いが鼻をつき、理玖は反射的に後ずさった。
佐々木は理玖の首筋に視線を落とし、探るような目を向けている。
「前はもっと、無臭というか、アルコールみたいな匂いしかしてなかったのに。今はなんだか、すごく……」
「佐々木先生、申し訳ありませんが、急ぎのカルテ入力がありますので」
理玖が立ち去ろうとしたその時、背後から氷点下の冷気が廊下を吹き抜けた。
「結城に何か用か」
低い、地の底から響くような声だ。
振り返ると、そこには白衣のポケットに両手を突っ込んだ橘が立っていた。
彼の瞳は佐々木を射抜き、圧倒的な威圧感を放っている。
橘から立ち上るフェロモンが、一瞬にして空間を支配し、佐々木の甘ったるい匂いを跡形もなく駆逐した。
佐々木は顔を引きつらせ、慌てて一歩後退する。
「た、橘先生……いえ、ただの雑談です。それじゃあ、結城、また後で」
佐々木は逃げるようにその場を立ち去った。
廊下には、理玖と橘の二人だけが残される。
橘は理玖の前に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「気分は悪くないか」
「はい。橘先生の、おかげです……あの、いつも助けていただいて」
「俺はお前を守ると言った。ただの有言実行だ」
橘は無表情のままそう告げると、自販機でブラックコーヒーのボタンを押した。
ガコンという音とともに缶が落ちる。
橘はそれを拾い上げ、理玖の頬にそっと押し当てた。
温かい缶の温度が、肌に心地よく伝わる。
「今日、健太の退院のカンファレンスがある。お前も出ろ」
「はい。もちろんです」
理玖が力強く頷くと、橘の口元が、本当にわずかだが、柔らかく弧を描いたように見えた。
それは、天才外科医が見せた、理玖だけへの密かな賞賛だった。
理玖の胸の内に、コーヒーの温度よりもずっと温かいものが広がっていく。
二人の関係は、もはや単なる先輩と後輩、あるいは医師同士のそれを超え、強固な信頼と愛情という不可分な結びつきへと変化していた。




