第2話「沈黙のオペ室」
正午過ぎ、小児科病棟に緊急アラートの電子音が鳴り響いた。
理玖は昼食のゼリー飲料を放り出し、402号室へと走る。
健太の顔は土気色に沈み、モニターの波形は無秩序な乱舞を描いていた。
心タンポナーデだ。
最悪のシナリオが、理玖の脳裏を過る。
周囲に集まった看護師たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、理玖は健太の胸を強く圧迫した。
肋骨のしなりが掌を通じて伝わる。
折れてしまいそうなほどに細い。
けれど、止めるわけにはいかない。
「健太君、戻ってきて! お願いだ!」
叫びながら、理玖の視界が滲む。
汗が眼鏡の縁を伝い、床に落ちた。
その時、廊下から怒号のような勢いでストレッチャーが運び込まれた。
現れたのは、術衣に身を包んだ橘だった。
彼は状況を一瞥するなり、理玖の肩を掴んで力ずくで引き剥がした。
「心タンポナーデに圧迫は無意味だ!」
「代われ。オペ室へ運ぶ。ルートの確保を急げ!」
橘の声には、先ほどの冷徹さとは異なる、戦場に立つ指揮官のような熱量が宿っていた。
理玖は弾かれたように、ストレッチャーの横を並走する。
エレベーターが最上階のオペ室へと吸い込まれていく。
無機質な銀色の扉が開いた瞬間、そこには死と生が交差する、静寂な戦場が広がっていた。
強力な無影灯が、健太の小さな胸部を照らし出す。
周囲を囲む医療機器が放つ電子音だけが、不気味なリズムを刻んでいる。
橘はすでに手洗いを終え、手術用手袋をはめる鈍い音を響かせていた。
理玖もまた、術衣に着替え、橘の対面に立つ。
小児科医として、内科的処置の補助と術中の管理を任された。
橘の瞳が、マスク越しに理玖を捉えた。
「付いてこい。遅れることは許さん」
メスが皮膚を下ろす。
鮮血が噴き出し、吸引器がそれを吸い込む音が響く。
橘の手つきは、神業と呼ぶにふさわしかった。
一切の無駄がない。
ミリ単位の狂いもなく、心臓を包む心膜が切り開かれていく。
張り詰めた緊張感が、重圧となって理玖の肺を押し潰そうとする。
けれど、不思議だった。
隣でメスを振るう橘から放たれるアルファの気配が、今は理玖を追い詰める凶器ではなく、荒れ狂う海で自分を繋ぎ止める錨のように感じられた。
彼の放つ重厚な存在感が、理玖の乱れそうな心を強制的に鎮めていく。
術野に溜まった血液を取り除くと、そこには激しく痙攣する健太の心臓があった。
橘の指先が、その繊細な組織に触れる。
傷ついた血管を縫合する糸の動きは、まるで見えない楽器を奏でるピアニストのように優美だった。
1分1秒が、永遠のように引き伸ばされる。
理玖はモニターの数値を注視し、薬剤の投与量を微調整し続けた。
抑制剤の影響で、こめかみが割れるように痛む。
視界の端が白く光り、意識が遠のきそうになる。
その時。
「……右房の圧力が下がった。バイパスを解除する」
橘の静かな声が、オペ室の空気を変えた。
人工心肺が切り離され、健太の自発的な鼓動が再開される。
一度、二度、そして三度。
確かなリズムだ。
モニターの緑色の線が、力強い山を描き始めた。
理玖は膝の力が抜けそうになるのを、術台を掴んで耐えた。
成功だ。
橘はメスを置き、初めて理玖を真っ直ぐに見た。
その瞳には、一瞬だけ、理玖の健闘を讃えるような、柔らかな光が宿ったように見えた。




