第3話「当直室の夜」
術後の経過は安定していた。
健太がICUで眠りについてから、3時間が経過している。
理玖は重い足取りで、誰もいない深夜の医局へと戻った。
自動販売機で買ったブラックコーヒーを一口飲むが、やはり何の味もしない。
ただ、胃の腑を冷やす液体の感覚だけが残る。
椅子に深く腰掛け、瞼を閉じた。
闇の中で、橘のメスを持つ指先が、何度も脳裏に蘇る。
あの時、彼から伝わってきたアルファの気配。
それは恐怖ではなく、紛れもない救いだった。
『……何てことを考えているんだ、僕は』
自虐的に笑い、顔を覆う。
オメガとしての本能が、あの強いアルファを求めているのではないか。
そんな疑念が、疲弊した頭の片隅でうごめく。
抑制剤の副作用が、今になって牙を剥き始めていた。
身体が芯から冷え込み、指先がかじかんでいる。
震えを止めるために、自分の肩を抱きしめる。
その時、医局のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、白衣を脱ぎ、紺色のスクラブ姿になった橘だった。
理玖は慌てて姿勢を正そうとしたが、身体が思うように動かない。
橘は黙ったまま歩み寄り、理玖の正面にあるデスクに腰を下ろした。
静寂が部屋を満たす。
深夜の病院は、まるで深い海底のように静かだ。
「飲め。少しは温まる」
差し出されたのは、紙コップに入ったスープだった。
湯気が立ち上り、芳醇な香りが漂う。
理玖は躊躇しながらも、それを受け取った。
指先から伝わる温もりに、凍りついていた感覚が溶かされていく。
一口啜ると、驚いたことに、微かな塩気を感じた。
味覚が、戻ってきているのか。
いいえ、違う。
目の前にいる橘から放たれる、穏やかで深みのあるアルファの香りが、理玖の過敏になっていた神経をなだめているのだ。
「……ありがとうございます、橘先生。今日のオペ、素晴らしかったです」
「俺の技術は当然の結果だ。それより、お前だ」
橘の視線が、理玖の瞳の奥を射抜く。
逃げ場のない、けれど不思議と嫌ではない拘束感だ。
「薬を使いすぎているな。オメガであることを隠すために、自らを壊してどうする」
理玖の心臓が、大きく跳ねた。
気づかれていた。
誰にも知られてはならない秘密。
この病院での居場所を失うかもしれない恐怖。
理玖は唇を噛み、スープの入った紙コップを握りしめた。
「……分かって、いたんですか」
「俺の鼻をたぶらかせると思うな」
橘は椅子から立ち上がると、理玖のすぐ隣まで歩み寄った。
大きな手が、理玖の震える肩に置かれる。
その体温は信じられないほど熱く、そして優しかった。
「明日から抑制剤の量を落とせ。足りない分は、俺が管理してやる。お前をこの現場から失うのは、医学的な損失だ」
それは、告白よりも重い、プロフェッショナルとしての求愛だった。
理玖の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみではなく、ようやく誰かに見つけられたという、震えるような安堵の色だった。




