第1話「硝子の境界線」
登場人物紹介
◇結城 理玖
総合病院に勤務する新米小児科医。性別はオメガ。幼い頃に命を救われた経験から医師を志した。オメガ特有の周期や体調不良を隠すため、身体に負担のかかる強力な抑制剤を服用し続けている。その副作用で味覚が鈍り、常に疲労を抱えているが、子どもたちの前では決して笑顔を絶やさない。真面目で責任感が強く、自らを犠牲にしてでも患者に尽くそうとする。
◇橘 朔也
同病院の心臓血管外科に所属する若き天才外科医。性別はアルファ。冷静沈着で妥協を許さない完璧主義者であり、その鋭いオーラから周囲に恐れられている。過去に自分の腕が及ばず救えなかった命があり、それ以来、他者にも自分にも並々ならぬ厳しさを課している。アルファとしての強いフェロモンを持つが、本人はそれを煩わしいものだと感じている。
遮光カーテンの隙間から差し込む朝陽が、安っぽいパイプベッドのシーツを白く焼き切っている。
結城理玖は重い瞼を押し上げ、数秒間、自分がどこにいるのかを脳内で検索した。
鼻腔を突くのは、幾重にも塗り固められた消毒液と、微かな加湿器の水の匂いだ。
ここは当直室だ。
身体中に張り付いた疲労は、まるで鉛の塊を背負わされているかのように重い。
理玖は這い出すようにして上体を起こすと、サイドテーブルに置いたアルミシートから錠剤を一つ、指先で弾き出した。
強力なフェロモン抑制剤だ。
オメガであることを社会から、そしてこの医療現場から抹消するための、彼にとっての生命維持装置だ。
水を飲まずに噛み砕くと、鋭い苦みが舌の根元をえぐる。
唾液が枯れ果てた喉を通り過ぎる際、焼けるような不快感が走った。
この薬を飲み始めてから、食事の味は砂を噛むような感触へと変わった。
それでも、理玖はこれを手放せない。
アルファたちが支配するこの星稜中央病院の外科棟で、一人の医師として立ち続けるためには、この苦痛こそが対価だった。
白衣を羽織り、鏡の前で表情を整える。
映し出された自分の顔は、白磁のようにひどく青白い。
けれど、眼鏡をかけ、聴診器を首に下げれば、そこには「新米小児科医」という仮面が完成する。
廊下に出ると、夜勤明けの看護師たちの忙しない足音と、遠くで泣き止まない赤ん坊の声が混ざり合い、病院特有の朝の喧騒が始まっていた。
小児科病棟、402号室。
理玖が担当する健太という名の少年は、酸素マスクの中で浅い呼吸を繰り返していた。
まだ6歳の、小さな命だ。
先天性の心疾患を抱え、今は手術の待機状態にある。
理玖はベッドの横にひざまずき、健太の冷えた小さな手に触れた。
指先から伝わる鼓動は、今にも消えてしまいそうなほどに細く、頼りない。
『もう少しだ。もう少しだけ、頑張ってくれ』
心の中で繰り返す祈りは、誰に届くわけでもない。
その時、背後の自動ドアが、威圧的な音を立てて開いた。
振り返るよりも早く、大気を切り裂くような鋭い気配が背中を貫く。
アルファの匂いだ。
抑制剤を貫通してくるような、冷徹で、けれど圧倒的な力を持った芳香。
理玖の背筋に、生理的な戦慄が走る。
ゆっくりと立ち上がり、視線を向けた。
そこに立っていたのは、心臓血管外科の橘朔也だった。
彫刻のように整った横顔に、一切の感情を排した氷の瞳。
彼の周囲だけ、時間が凍りついたかのような静寂が支配している。
天才外科医。
死神から命を奪い返す男。
院内で彼を形容する言葉は数多いが、理玖にとっては、近づくだけで息が詰まるほどの強者としてのアルファそのものだった。
「……心係数、3.2。肺動脈圧の上昇は見られないが、右室の拡張が始まっている」
橘は理玖を視界に入れることすらなく、モニターの数値を読み上げた。
その声は低く、チェロの重低音のように鼓膜を揺らす。
理玖は慌ててカルテを開き、今朝の検温結果と心エコーの結果を提示した。
「はい。結城です。健太君の状態ですが、昨夜から不整脈の頻度が増えています。薬物療法ではこれ以上のコントロールは……」
「言われずとも分かっている」
橘が初めて視線を理玖に向けた。
射抜くような眼光。
理玖は心臓を直接掴まれたような錯覚に陥り、思わず息を呑む。
橘の視線は、理玖のうなじから立ち上る、極限まで抑え込まれた香りの欠片を追っているようにも見えた。
理玖は反射的に白衣の襟を正し、うなじを隠す。
抑制剤の副作用で、指先が微かに震えていた。
橘はその僅かな動揺を見逃さなかった。
一歩、距離が縮まる。
橘の体温が伝わるほどの距離で、理玖は逃げ出したい衝動を必死に抑え込んだ。
「新米。お前の見立ては甘い」
吐き捨てられた言葉は冷酷だったが、その瞳の奥には、理玖の隠した疲弊を見透かすような、奇妙な色が灯っていた。




