ただいま、おかえり
いつも読んでくださってありがとうございます。
今回は、カフェを出たあとの帰り道、そして“ただいま”の回です。
特別な事件が起こるわけではありませんが、エルにとっては大きな一歩。
そしてなおきにとっても、きっと静かな変化が始まる時間。
「帰る場所」があるということ。
「一緒にいる」と決めること。
そんな当たり前で、でも大切な瞬間を書きました。
少しでも、二人の空気を感じてもらえたら嬉しいです。
なおきはエルの手をしっかりと握り返し、二人はカフェを後にした。
カラン、とドアベルが軽やかに鳴る。その音が、どこか新しい始まりを祝っているように聞こえた。
夕暮れのオレンジ色に染まりはじめた街並みを、二人は並んで歩く。
なおきにとっては見慣れた帰り道。
けれど今日は、隣にいる小さな存在が、ありふれた景色をまるで別の世界のように変えていた。
エルは何も言わない。
ただ、ときおり繋いだ手を見つめたり、なおきの表情をそっと盗み見たりする。
その口元には、控えめで、それでも確かな幸せを含んだ微笑みが浮かんでいた。
やがて、沈黙を破ったのはエルだった。
「……本当に、いいのかな。私、これからずっと……なおきのそばにいても。迷惑じゃ、ないかな……」
前を向いたままの、少しだけ揺れる声。
「いたいなら、いればいいよ」
なおきは答える。
「その時が来たら、その時に考えればいい。今は、今のことだけ考えよう」
そう言って、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
その温もりに、エルははっと顔を上げる。
そして、ふっと力が抜けたように微笑んだ。
「……そっか。その時、考えればいいんだ」
噛みしめるように繰り返し、安心したように息を吐く。
「……うん。じゃあ今は……一緒にいさせて。ありがとう」
もう、不安の色はなかった。
夕陽に照らされた彼女の横顔を見て、なおきは何も言わない。
言葉はいらなかった。
ただ隣にいること。
それだけで十分だった。
二人は並んだまま、ゆっくりと家路をたどる。
――夕焼け
いやに、眩しいなと俯いた‥
やがて、見慣れたアパートが見えてくる。
階段を上り、部屋の前に立つと、なおきはいつものように鍵を取り出した。
エルは、その扉をじっと見つめる。
「……ここが……なおきの……」
ごくり、と小さく喉が鳴った。
“帰る場所”というものを、彼女は今、初めて実感しようとしていた。
ガチャ。
「狭いけど、どうぞ」
扉が開き、ふわりと生活の匂いが流れ出す。
一歩踏み出しかけて、エルは足を止めた。
「……あ」
玄関に並ぶスニーカーを見て、自分の足元を見る。
「ここで……脱ぐの?」
「ああ。靴はそこで脱ぐんだよ」
そっとしゃがみ込み、ぎこちなく靴を脱ぐ。
素足が床に触れ、少しだけ肩が震えた。
――天界には、こんな“境目”はなかった。
どこまでも白く、どこまでも同じ光に満ちた世界。
扉も、玄関も、帰るという行為さえ曖昧だった。
だからだろうか。
この小さな段差を越えることが、やけに特別に思える。
一歩、上がる。
それだけで、胸の奥が少し熱くなった。
「……ただいま、って言うの?」
なおきを見上げる。
「うん。帰った人が“ただいま”って言うんだよ」
エルはほんの少し迷ってから、小さく息を吸った。
「……ただいま」
その声は、まだぎこちない。
けれど確かに、この部屋に落ちた。
なおきは少し照れくさそうに笑う。
「おかえり」
それだけで、エルの頬がふわりと緩んだ。
部屋の中は、決して広くはない。
けれど、どこか温かい。
「……ううん。全然、狭くなんかないよ」
ソファに腰を下ろし、ふかりと沈む感触に目を丸くする。
「すごい……やわらかい……。それに、この部屋……なんだか、あったかい気持ちになるね」
その言葉に、なおきは頭をかいた。
やがてエルは、真剣な表情で向き直る。
「ねぇ、なおき。私、何か手伝えることある? ずっとお世話になってばっかりは、嫌だから」
「掃除とか、洗濯とか……料理も、覚えるよ」
「なるほどなー。じゃあさ、僕が学校行ってる間、お願いすることあるかも」
「その時は頼もうかな」
ぱっと、エルの顔が輝く。
「うん! 任せて! 私、ちゃんとやるから!」
ぴょん、と小さく跳ねる。
「学校、いつから? 朝弱いなら、起こしてあげようか?」
「歌で」
「歌で?!」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
エルの「ただいま」は、実はこの物語の中でもかなり大事な場面です。
天界にはなかった“境目”
扉、玄関、靴を脱ぐという行為。
そして「帰る」という言葉。
当たり前のことほど、誰かにとっては奇跡みたいな体験なのかもしれません。
そして最後の――
「歌で?! 」
少しずつ家族のようになっていく二人を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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