第52話 母なる泉 2
洞窟の祭壇の前に、柔らかな光による虚像が現れた。
ひとりの少女が祭壇に向けて膝を折り、白い巫女装束の裾を地に垂らし、一心に歌っている。今よりなおほっそりとした、かつての更紗だった。
静湖の隣の母は、虚像の自分を指して言った。
「あれは十四年前の私。私は消えかける流王陛下のお声を聴くため、この洞にこもっていたの」
幻の中の歌声がかすかに届く。
音を歌うあいまに時折、意味を成す詞が混ざった。
「流王陛下の曲を聴きとって無心に歌えば、言葉を歌っていることがある。この光海の巫女はそうやって神意を受けとってきました。私は当時ただひとりの巫女だった」
幻の更紗が目を閉じたまま顔をあげ、高く歌いあげた。
〝天を見よ〟
彼女ははっと目を見開き、洞窟の外へ、滝を越えて泳ぎでていった。
現実の更紗は静湖を手招きし、滝の脇の細い道から外の水辺へと案内した。滝つぼでは虚像の更紗が、泳ぎながら空を見あげていた。
空にも、淡い幻が現れた。
大きな銀の翼を羽ばたかせた人物が、体にもうひとりの人物をつかまらせ、空の高みから降りてくる。翼の間に長い黒髪をなびかせ、少年とも少女ともつかぬ神像のような顔立ちで、魔術の紋様が織りこまれた紫の衣をはためかせて。
もうひとりは切りそろえられた金の髪に金の冠をいただき、飾り布のなびく純白の衣をまとって、少年らしく不敵に笑っていた。
「御影に父上……!」
静湖は声をあげる。若かりし日の御影が、天海を連れて降りてくる光景に違いなかった。御影の雄々しい翼に、静湖の目は釘づけになる。
かつての更紗もまた、降りてくる二人の姿に驚いていた。
静湖の隣の更紗は、そのときの心境を語った。
「二人ともまだ子どもの顔をして、見たこともない丹精なつくりの服で。私が口もきけないでいると、翼の人は、この翼は魔法によるもので自分は妖精の類ではないと言い、冠の人は、波空本国から来た王太子を名乗りました。でも私は彼らが同じ人間とは思えなかった。流王陛下がお遣わしになった御使いだ、と心の中で思いました」
虚像の更紗は、水辺に降りたった天海と、翼をしまった御影を前にして、言葉を交わしているようだった。
静湖の隣で、幻をなつかしむように、母である更紗が続けた。
「空から降りたった二人は、流王陛下が弱っていることを知ってやってきた、と言いました。陛下の〈流〉としての音楽が崩壊しそうな状態にあるのが、王宮で観測されたのだと。陛下は千年もの間、この地に流れていた〈流〉です。そのお力は弱まって、寿命が近いとささやかれていると私は認めました。なぜかしらね、すぐに心を開くことができたの……」
「父上と御影は、流王陛下を助けにきたの?」
静湖が問いかけると、更紗は、そうね、と曖昧にうなずいた。
「彼らが心配していたのは流王陛下の身だけでなく、この光海の地のことでもありました。光海にあまねく流れていた流王陛下が死ぬとなれば、崩壊に巻きこまれてこの地すべては〈宙〉に呑まれてしまう、そんな瀬戸際だと」
「そ、そんなことが」
「〈宙〉の〈反転〉というのだそうです。強大な〈流〉は、音楽を崩壊させながら〈宙〉に還るという。そのとき周囲を、世界の裏を流れる〈流〉の次元、〈宙〉が侵食すると」
幻の中でも、そのことが説明されたのだろう。かつての更紗が、おびえたように胸に手を当てた。天海が滝つぼへ一歩を踏みだし、礼をするように身を傾ける。
「その〈反転〉を防ぎにきた、とあの日の天海たちは言いました」
若き更紗の幻が、静かな決意をしたように岸にあがった。
天海と御影は、対峙した更紗に向けて、さらになにかを語る。その内容を、静湖の隣の現在の更紗が解説していった。
「二人は言いました。波空王都には、〈反転〉を起こしかけた〈流〉を救った前例がある。その〈流〉は王都の地下の〈流の炉〉と呼ばれるものの中に眠らされ、今も少しずつ力を流しながら生きながらえている。その力が魔法として巡り、人々の暮らしを支えていると」
静湖は驚き、いぶかしく思った。
王都の〈流の炉〉とは、灯が悪行魔法を断じていたものだ。灯の言い方では、地下を流れる〈流〉は死にかけているのに、力を無理やり巡らされている、という印象だった。
それをかつての御影たちは、死にかけた〈流〉を救うためと語ったとは──。
静湖の隣の母は、説明を続けた。
「流王陛下をその〈流の炉〉に移せば、光海の地は離れるけれども、王都にて音楽をつなぐことができる。そうしなければ明日にも、この地は流王陛下とともに〈宙〉に呑まれるかもしれない。そういうお話でした」




