第2話 臆病者の遺品
俺はめちゃくちゃに暴れ回っていた。これでも軍人の端くれのはずなのに、拘束からは一向に抜け出せない。とんでもない力で引きずられて行く。塹壕の角をもう三つは曲がっただろう。
俺は最終手段だと思って首元を締め付けている太腕に噛み付いた。
「痛って!いい加減にしろ!!」
お返しと言わんばかりに張り手を右頬に受けた。強烈な衝撃を受けて視界が歪む。
「やっと、落ち着いたか」
俺を羽交い絞めにしてここまで引きずってきた男の声が耳元で囁いた。ハスキーな声と緩められた腕の力に、俺は冷静さを取り戻そうとしていた。しかし口の中に広がる鉄臭さと、頬の熱を帯びた感覚がそれを許さない。
「もう戦争は終わりだってのに・・・なんで・・・なんであいつは!!!」
喉が激しく痛むのも構わず俺は叫んだ。頭の中から『何故?』という疑問が、とめどなく溢れ出す。
「しぶとい奴だ」
背後の人物は俺の前に回り込み、右頬に手を添えて俺の目を覗き込んだ。
「今は休め若いの、暴れまわったって無駄だ」
その声は麻酔のように俺から考える力を奪う。何より頬に添えられた彼の手は冷たくて心地よかった。粗いやすりのようにささくれだった手だった。
「歩けるか?」
男は俺の頬から手を放しながら言った。
「大丈夫です・・・・ご迷惑をおかけしました」
自分のものとは思えないほどの濁声だった。
「大丈夫そうに見えないな。仕方ない」
彼は俺の右手を自分の肩に回して支え、塹壕の中を歩きだした。顔のすぐ横にある彼の肩には中尉の階級章がついている。
頭を上げることさえ苦痛だった。あれだけ『何故』という言葉が反響していた俺の脳は、これからどこに向かうのかには一向に興味を示さなかった。
いくつかの角を曲がると交通壕に出た。前線の塹壕から西へ伸びている、野営地までつながる壕だ。
俺はやっとの思いで頭を上げた。周囲には揃いの戦闘服を着た兵士達が同じ方向へ歩いている。みんな蝋人形のように生気がない。担架で運ばれて行く者もあるが、担ぎ手の歩みは遅い。白い布にくるまれた人は死んでいるのだろう。
西の空に見えていた巨大な煙は積乱雲のように大きく成長し西へ傾き始めたばかりの太陽を覆い隠していた。
しばらく歩くと、仮設司令部兼野営地に着いた。そこは雑踏に満ち溢れ、最後に訪れた時とは大きく様変わりしていた。三週間前、休息日を与えられて戻った時は、同じような境遇の兵士達数名とすれ違っただけで閑散としていた。
「疲れただろ、自分のテントへ戻って休め」
男はそう言いながら俺を野営地の隅に座らせた。俺には蹲ったまま軽く頭を下げることしかできなかった。
「じゃあな」
男はそう言って雑踏の方へ去って行く。俺は膝を強く抱えて目を閉じた。閉ざした視覚の代わりに聴覚が鋭くなり、誰かの喜びに満ちた声がいやにはっきり聞こえる。
「フランク!お前生きてたのか!」
「ああ今日休暇が終わって戻ってきたんだ・・・」
「運のいい奴だなあ」
「でも、こんなことになっちまって」
「だからこそだろ!お前が生きてるってだけでも救いだよ!!!」
「――――っ!」
俺は居ても立ってもいられずに中尉に連れられてきた道を駆け戻った。
交通壕は前線から引き揚げてくる兵士たちでいっぱいだったが、お構いなしに人の波をかき分けて進む。
「どいてくれ!」
声になっているのかすら分からなかった。それでも繰り返し叫びながら進んだ。引き留める者、道を開けてくれる者、それら全てを置き去りにして進んだ。
息も絶え絶えに最後の角を曲がったとき、ノアはもうそこに倒れていなかった。誰かが運んでくれたのだろうか。
歩みを進めると壕の土壁に細かな血飛沫が散っていた。手を添えると、赤い斑点は土塊と共にぼろぼろと崩れ落ちる。
その時、足元に双眼鏡が落ちているのに気が付いた。拾い上げると間違いなくノアのものだった。臆病な戦友が固く握りしめていたせいで持ち手が酷く痛んでいる。
「ビビりなくせに・・・なんで妙なところで思い切りがいいんだよ」
日が没し、星が見え始めた頃。俺はそこを去ることにした。
できることは、もう何もなかった。




