第11話 捨てたはずの剣
土曜日。
「夜花、今日って出かける予定ある?」
朝食を食べていると、輝女に尋ねられた。
「特にないけど」
「じゃあ、買い物に付き合ってよ。お父さんに頼まれたものがあるんだ」
「自分で行けばいいだろ」
「荷物持ちが欲しいの」
「……最初からそう言えよ」
俺はため息をつきながら、食べ終えた皿を流しに置いた。
「分かった。着替えてくる」
「やった!」
輝女は嬉しそうに笑った。
こういうところは、昔から変わらない。
もっとも、俺が知っている輝女は、今よりずっと幼かったけれど。
*
買い物を終えた帰り道。
商店街を歩いていた俺たちは、見覚えのある看板の前で足を止めた。
『氷見剣道場』
……なんで、こんなところに。
いや、違う。
ここがあるのは知っていた。
ただ、見ないようにしていただけだ。
「夜花?」
隣を歩いていた輝女が、俺の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……いや。なんでもない」
そう答えて歩き出そうとした、そのとき。
「夜花?」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
道場の入り口に、咲夜が立っていた。
稽古着姿の彼女は、竹刀を片手に持っている。
「……咲夜」
「こんなところで会うなんて、偶然ね」
「そうだな」
「……帰ってきたんだ」
咲夜の視線が、俺の手元に落ちる。
買い物袋を持った、何の変哲もない手。
かつては竹刀を握り、何度も彼女と打ち合った手だった。
「夜花、少しだけ時間ある?」
「……何の用だ?」
「話がしたいの」
断る理由なら、いくらでも思いついた。
けれど。
「……分かった」
俺は頷いた。
輝女が心配そうにこちらを見る。
「夜花、私も――」
「大丈夫だよ。先に帰っててくれ」
「……本当に?」
「ああ」
輝女は少し迷ったあと、咲夜に向き直った。
「夜花をよろしくお願いします」
「……ええ」
二人の間に、妙な緊張感が走った。
「じゃあ、またあとでね」
輝女が去っていく。
俺は咲夜に促され、道場の中へ入った。
*
道場の中は、昔とほとんど変わっていなかった。
磨かれた床。
壁に掛けられた竹刀。
奥には、使い込まれた防具が並んでいる。
「……懐かしい?」
咲夜が尋ねた。
「まあな」
「最後に来たのは、いつだったか覚えてる?」
「……覚えてない」
嘘だった。
忘れられるはずがない。
ここで過ごした時間も。
ここで交わした約束も。
そして、ここを去った日のことも。
「夜花」
咲夜が俺の前に立った。
「どうして剣をやめたの?」
「……前にも話しただろ」
「聞いてない」
「昔のことは終わったんだ」
「私は終わってない」
彼女の声が、道場に響いた。
「あなたが突然いなくなって、剣道までやめて……私には何も説明してくれなかった」
「……」
「私たち、付き合っていたんでしょう?」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
「……ああ」
「だったら、どうして?」
咲夜は俺を真っ直ぐに見つめた。
「私のことが嫌いになったの?」
「違う」
考えるより先に、言葉が出ていた。
咲夜が目を見開く。
俺は自分の反応に気づき、視線を逸らした。
「……そうじゃない」
「じゃあ、何?」
答えられなかった。
あの日のことを話せば、彼女はきっと俺を見る目を変える。
幼い頃、咲夜を守るために敵の事務所へ乗り込み、そこにいた人間を皆殺しにしたこと。
火を放ち、すべてを焼き払ったこと。
その日から、俺が第六天魔王と呼ばれるようになったこと。
そして、自分の手が何をしたのか、今でも忘れられないこと。
何もかも、話せるはずがなかった。
「……俺は、もう剣を握らない」
「どうして?」
「俺には……剣を握る資格がないからだ」
咲夜の表情が変わった。
「それ、本気で言ってるの?」
「ああ」
「ふざけないで」
彼女は俺の胸元を掴んだ。
「勝手に決めないでよ!」
「咲夜……」
「あなたが何をしたのか、私は知らない。何を抱えているのかも、全部は知らない。でも……!」
咲夜の声が震えた。
「私は、あなたが剣を握っている姿が好きだった」
俺は何も言えなかった。
「誰かを守るために、必死になっていたあなたが好きだったの。強いからじゃない。誰よりも強いのに、自分のことなんて後回しにするところが……」
彼女は唇を噛んだ。
「……そんなあなたが、剣を握る資格がないなんて言わないでよ」
静寂が落ちた。
俺は、咲夜の手をそっと外した。
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
「分かってる」
「じゃあ、答えてよ」
咲夜は涙をこらえながら、俺を見つめていた。
「私は、あなたのことを何も知らないまま、置いていかれたくなかった」
その言葉に、昔の記憶が蘇る。
夕暮れの道場。
竹刀を持つ幼い俺。
隣で笑う咲夜。
そして、別れ際に交わした、何気ない約束。
――また明日ね。
あの日までは、明日が当たり前に来ると思っていた。
「……咲夜」
「なに?」
「俺は……」
言葉が続かない。
結局、俺は何も話せなかった。
咲夜はしばらく俺を見つめていたが、やがて静かに手を離した。
「……分かった」
その声は、さっきよりもずっと落ち着いていた。
「今は話せないんだね」
「……ああ」
「なら、無理には聞かない」
咲夜は一歩下がった。
「でも、私は諦めないから」
「何を?」
「あなたが隠していることも。あなたが剣をやめた理由も。全部、いつか自分の口で話してもらう」
彼女は、かすかに笑った。
「だって、私はあなたの元カノなんだから」
「……その理屈、関係あるのか?」
「あるわよ」
即答だった。
思わず、俺は苦笑した。
「……変わってないな、お前」
「あなたもね」
咲夜は少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
本当は、ずっと逃げていたのかもしれない。
過去から。
自分自身から。
そして、咲夜から。
「……また来てもいい?」
咲夜が尋ねた。
「道場に?」
「違う。あなたのところに」
俺は少し考えた。
「……好きにしろよ」
「そう。じゃあ、遠慮なく行くから」
「ほどほどにな」
「嫌なら、ちゃんと断ればいいでしょう?」
「……それはそうだけど」
「じゃあ、決まりね」
咲夜は満足そうに頷いた。
*
帰り道。
一人で商店街を歩いていると、スマートフォンが震えた。
輝女からのメッセージだった。
『咲夜さんと話せた?』
『まあな』
すぐに返信が来る。
『ちゃんと話せたならよかった』
そのあと、もう一通。
『でも、夜花が無理してるなら、私にも話してね』
俺は画面を見つめた。
『分かった』
短く返事をして、スマートフォンをしまう。
空を見上げる。
剣を捨てたからといって、過去まで消えるわけじゃない。
そんなことは、分かっていた。
それでも。
「……いつか、話さないとな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、少なくとも。
今日、咲夜と話したことで、俺は一つだけ気づいた。
過去を終わらせたつもりだったのは、俺だけだったのだ。
そして、俺が目を背けている限り。
あの日の出来事は、きっと終わらない。




