第一話 「偽りの恋人」
春。
美園高校。
二年生の教室では、いつもと変わらない昼休みが始まっていた。
「夜花、昼飯食おうぜ。」
「ん。」
声をかけてきたのは、友人の川崎健人だった。
「今日も弁当?」
「ああ。」
「相変わらず自分で作ってんの?」
「料理くらいできる。」
「お前、勉強もできるし料理もできるし……その顔だろ?」
健人が夜花の顔を見る。
「なんで美術だけ壊滅的なんだよ。」
「……うるさい。」
美園高校は美術や芸術を専門的に学ぶ学校。
当然、夜花もそれなりに課題をこなしている。
ただ。
絵だけは。
どうしても苦手だった。
「まあ、俺よりマシだけどな。」
「お前と比べるな。」
「ひでえ。」
二人で笑う。
そんな。
何でもない日常。
それが。
夜花が欲しかったものだった。
――――
「……またいる。」
少し離れたところ。
女子生徒の伊藤蜜柑が、男子生徒に声をかけられていた。
「伊藤さん、今日こそ付き合ってくれない?」
「ごめん。無理。」
「でも、もう何回も告白してるんだよ?」
「だから何?」
蜜柑は明らかにうんざりしている。
「何度言われても答えは変わらないから。」
「そこをなんとか――」
「無理。」
きっぱり。
それでも男子は引かない。
「じゃあ、せめて一回デートだけでも!」
「嫌。」
「伊藤さん!」
「……しつこい。」
蜜柑はため息をつく。
そして。
ふと顔を上げた。
視線の先。
そこには夜花がいた。
「……。」
目が合う。
夜花は首を傾げる。
「……?」
その瞬間。
蜜柑がこちらへ歩いてきた。
「柊くん。」
「何?」
「ちょっといい?」
「別に。」
蜜柑は夜花の前まで来る。
そして。
突然。
夜花の腕に抱きついた。
「私、この人と付き合ってるから。」
「……は?」
夜花が固まる。
健人も固まる。
告白していた男子も固まる。
「……え?」
夜花が蜜柑を見る。
「俺?」
「そう。」
「いつから?」
「……今から。」
「おい。」
蜜柑は夜花の腕を掴んだまま。
男子を見る。
「だから、もう私に付きまとわないで。」
男子は夜花を見る。
「……お前、名前は?」
「柊夜花。」
「柊……。」
その瞬間。
男子の顔色が変わった。
「……柊夜花?」
夜花の眉が動く。
「何だ?」
「……第六天魔王……?」
教室がざわつく。
「……。」
夜花は黙る。
男子は後ずさる。
「なんで……。」
そして。
「すみませんでした!」
逃げるように教室を飛び出していった。
「……。」
教室が静まり返る。
健人が夜花を見る。
「……お前、やっぱ有名なんだな。」
「知らん。」
「いや絶対知ってるだろ。」
「知らないものは知らない。」
夜花は蜜柑を見る。
「で?」
「……。」
「説明してもらおうか。」
蜜柑はゆっくり腕を離す。
「ごめんなさい。」
「何で俺を彼氏にした?」
「……目が合ったから。」
「理由になってない。」
「他に思いつかなかったの。」
「……。」
夜花はため息をつく。
「俺にメリットある?」
「ある。」
「何?」
「私がしつこい人に絡まれなくなる。」
「それ、お前のメリットだろ。」
「……。」
蜜柑は少し考える。
「じゃあ。」
「柊くんが困ってる美術の課題、教えてあげる。」
「……。」
夜花は少し考える。
美術。
苦手な分野。
「……本当に教えてくれる?」
「うん。」
「なら。」
夜花は頷く。
「少しだけ付き合う。」
「本当?」
「ああ。」
「ありがとう!」
蜜柑の顔が明るくなる。
「じゃあ、これからよろしくね。彼氏さん。」
「……その呼び方やめろ。」
「ふふ。」
こうして。
伊藤蜜柑の苦し紛れの嘘から。
二人の偽りの関係が始まった。
――――
放課後。
夜花は一人で校舎を出る。
夕暮れの空。
赤い髪を風が揺らす。
「……。」
ふと。
足を止める。
頭に浮かんだのは。
昔の記憶。
竹刀の音。
道場。
そして。
一人の少女。
「……咲夜。」
口から。
無意識に名前が漏れる。
夜花は目を伏せる。
剣道を辞めた。
椎名を離れた。
柊からも距離を置いた。
もう。
あの頃には戻らない。
「……関係ない。」
そう呟いて。
夜花は歩き出す。
だが。
彼はまだ知らなかった。
自分が置いてきたと思っていた過去が。
やがて。
もう一度。
目の前に現れることを。
そして。
その少女との再会が。
夜花の止めていた時間を。
再び動かすことを――。




