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SKY  作者: RUI
SILVER LION

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99/120

Sky99-残る音-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 医務区画の前の廊下は、夜でも白かった。


 消毒液の匂いが薄く漂い、換気の一定の音が、艦内に残っている焦げた匂いを削り取ろうとしていた。担架の車輪が床を擦り、短い号令が交差し、誰かの靴音が走っては止まる。


「次、二番ベッド! 止血、続けて!」


 サラは顎を引き、手元の端末を握る指に力を込めて立っていた。白い照明の下で、その顔だけが少し硬い。

(……また、誰かが壊れていく)

 サラは離れた場所に立つミュラーへ視線を送った。

 その様子を、ラナ艦長が遠くから見ていた。腕を組んだまま、視線だけが鋭い。隣に立つミュラー・エリスも何も言わない。けれど、彼の目も同じ場所を追っていた。

 ラナが低く言った。

「いつか、何かが起きると思ってた。まさか、こんなに早いなんて……」


 ミュラーは返事をしない。代わりに、袖口の端末を起動し、指を最短で滑らせた。表情は動かないのに、指先だけが焦っている。

「北方基地に照会を飛ばす」


「何を」


「この作戦の、ポリシー更新履歴。……それと、座標レイヤの差分ログ」


 ラナの眉が一瞬だけ上がる。

「……やったのね」

 問いではなく、断言だった。


 ミュラーは、端末を閉じる前に一度だけ画面を見つめた。自分の中の燃え残りを、呼吸で押し込むように。

「“確認中”の使い方が綺麗すぎる。誰かが、綺麗に隠してる」

 ラナは目を細めた。怒りではない。艦長として、次に動かす手順を決める目だった。

「最優先で。北方基地が受け取ったら、私にも回しなさい」

「了解」

 ミュラーはそのまま通信室へと向かった。


 *


 格納庫に戻って、セリはあすみの装備を机に置きかけた。

 金具が鳴りそうになって、寸前で止める。止めたせいで、手の中で小さく噛んだ音だけがした。

 握った指に力が入る。手袋の縫い目が食い込み、関節が白くなる。


(……くそっ)

(あいつは、まだ戻れると思ってた)

 まだ笑える。まだ飛べる。それだけで“まだ大丈夫”だと押し込んでいた。

(まだ、大丈夫だって勝手に……)

(隣にいたのに、何も見えてなかった)

 喉の奥で息が引っかかる。言葉にならない。拳の中の装備だけが重い。

(ちくしょう……)

 セリは、手元の装備を、また握りしめた。


 *


 ミュラーが端末の通信欄を開き、**北方基地/司令官室:直通**を選ぶ。

 発信音が鳴る。

 医務区画の白い廊下の奥で、モニターの通知音がひとつ鳴り、次に別の通知音が重なる。

 ――回線が繋がる。


 北方基地の司令官室は、空気が乾いていた。

 外では雪が降っていて、窓の向こうに白い光が滲み、室内のモニターだけが色を持っている。

 机の上には紙の資料が積まれ、無線機のランプが細かく点滅していた。


 ハイルトンは椅子に深く座らない。立っている方が落ち着くタイプだ。端末の前に腰を寄せ、指先で画面をスクロールした。


 届いた照会を見る。ノーザンクロス艦長権限。最優先。


 《INCOMING:NORTHERN CROSS/艦長権限》


 その一行だけで、嫌な予感は確信に変わり始める。画面に並ぶのは、作戦名と時刻と、無機質な更新履歴だった。


 ――POLICY UPDATE.

 ――CIV LAYER : SUPPRESS (OPSEC).

 ――REASON : PREVENT OPERATION STOP DUE TO PUBLIC OUTCRY.


 ハイルトンの指が止まった。

 止まっても何も止まらないのに、止めずにいられなかった。唇の端が、わずかに引きつる。


「……あ?」

 声が漏れた。怒鳴りではない。理解した声だった。


 リーサが振り向く。救護班の上着を羽織ったまま、目が疲れているのに、反応だけは速い。

「司令?」


 ハイルトンは返さない。代わりに、画面を指で叩いた。叩く指の力が、机を震わせる。

「“作戦停止を防ぐ”……?」

 言い直すように、低く。


 キヌアが、端末の隣に寄って覗き込む。肩が一瞬だけ強張った。

「……民間レイヤ、抑制……?」


「抑制じゃねぇよ。……隠蔽だ」

 ハイルトンの声が乾いている。乾いているのに、奥が熱い。

 視線が次の行へ落ちる。


 ――TARGET LAYER OVERRIDE : ACTIVE.

 ――VISUAL SUPPRESSED : CIV REFUGE CAMP (UNARMED).


 ハイルトンの喉が一回だけ鳴った。


(隠したな)

 言葉にしなくても、身体が先に確定してしまう。

 けれど――証拠を掴んだところで、止められたか。止められない。だから怒りは行き場を失う。

 ハイルトンは端末を閉じない。代わりに、回線リストを開き、迷いなく一件を選ぶ。


「西方。イル副司令官を出せ」


 リーサが息を飲む。

「今、繋ぎます」


 キヌアが小声で言う。

「……司令、落ち着いて」


 ハイルトンは笑わない。笑えるわけがない。

「……落ち着いてるよ」

 その言い方が、冗談ではなかった。



 画面に映ったイルは、疲れていた。

 背景は西方の司令室だろう。壁の地図も、机の端末も、整いすぎている。イル自身も同じだ。髪は乱れていないのに、目の下だけが重い。現場の火消しをし続けた顔だった。


 イルが口を開く前に、ハイルトンが言った。

「知ってたんですか」


 イルの眉がわずかに動く。反射だった。

「……何の話だ」


 ハイルトンは端末を持ち上げ、画面をこちらに向けた。指先が震えていないのが、逆に怖い。

「民間レイヤ抑制。OPSEC。理由――“世論による作戦停止回避”」


 イルの視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ。泳いで、戻る。戻すのが上手い人間の泳ぎ方だった。

「……作戦は継続しなければならない。最善策を講じたまでだろう」


「最善?」


 イルが言い切る前に、ハイルトンが一歩詰めた。机に手をつく。肩が前に落ちる。怒鳴るための姿勢だった。

「――誰にとっての最善だよ」


 司令官室の空気が震えた。

 リーサが反射で背筋を伸ばす。キヌアの目が一瞬だけ見開かれ、それでも口は閉じたままだった。

 イルは瞬きを一つして、声の温度を落とす。落とさなければ会話にならないと分かっている顔で。

「落ち着け。現場が止まれば――」


「“作戦停止を防ぐ”?それで守ったのは航路じゃねぇ」

 ハイルトンの指が画面を叩く。叩いたって届かないのに、叩かずにいられない。

「守ったのは――お前らの面子だろ。世論で、数字だろ!」


 イルの眉がわずかに寄る。怒りではない。痛みに似た皺だった。

「……世論が燃えれば、次の避難も止まる。補給も止まる。結果、もっと死ぬ」


「……その便利な理論で、何人殺してきた」

 ハイルトンは笑い声みたいな息を吐いて、拾う単語を、わざと選んで叩き返す。

「見えないものは撃てる、そういう仕組みにしたのは誰ですか」


 イルが口を開く。理屈の順番を整えようとする。だが、ハイルトンはその“整える動作”ごと許さない。

 イルの目がわずかに細くなる。怒りではない。痛みの形だった。

「……ハイルトン。俺だって、現場を――」


「――REDROSE は兵器じゃねぇ!古賀あすみは人間だ」


 室内の誰かが小さく息を漏らす。


 ハイルトンはそこで初めて、一瞬だけ声が掠れた。掠れたのを誤魔化すように、喉を鳴らして続ける。

「“最善”って言うたび、現場の人間が壊れてくんですよ」


 イルの視線が落ちる。落ちたまま、口だけが動く。

「……壊したいわけじゃない」


「じゃあ、止めろよ!」

 ハイルトンの怒鳴りが、最後だけ低くなった。怒鳴りではなく、殴る声だった。

「……今までだって、救えた命があったはずだ」


 沈黙が一拍、回線に挟まる。イルが何か言おうとして、言葉が出ない。出せない。


 ハイルトンは端末を睨んだまま言い捨てた。

「……もういい。」

「ミュラー・エリスの次に、お前らが壊したのは古賀あすみだ。」

「……ケイとノエルの娘だ……忘れるなよ、副司令官。」


 ぶつり、と回線を切る。

 司令官室に、端末の冷却ファンの音だけが残った。


 リーサとキヌアは、しばらく言葉を失っていた。

 二人とも、ハイルトンが怒鳴るのは見たことがあっても、あの種類の怒鳴りは初めてだった。理屈を理解したまま、理屈を殴り殺す怒鳴り。


 ハイルトンは椅子を蹴らない。机も殴らない。

 ただ、端末を握る指に力を込めた。プラスチックが軋むほど。視線を落とし、次の手を探す。

 探すしかない。


 その時――端末の隅に、別の通知が割り込んだ。

 暗号タグ。短い文字列。


 BLACK LILY


 ハイルトンの眉が、わずかに動いた。

「……なんだ」

 声は低い。怒りとは別の、嫌な予感の色だった。


 リーサが恐る恐る聞く。

「司令、それ……何ですか」


 ハイルトンは答えない。通知を開かずに、画面を見つめたまま言った。

「さあな」

 怒りはまだ胸の奥で燃えている。けれど次の現場が、もう来ている。ハイルトンは端末を握り直し、短く命じた。

「ログは全部保存。消される前提で二重にしろ。……ノーザンクロスに、今夜の更新履歴を送る」

「動くぞ」

 ハイルトンは椅子を蹴って立ち上がった。拳がまだ震えている。震えを握り潰すように指を丸める。

「次に同じ文面が来たら、こっちはこっちで“ログ”を取る。……逃がさねぇ」


 キヌアが小さく頷く。リーサは一度だけ唇を噛み、何も言わずについてくる。


 音が切れた後に西方の司令室に残ったのは、端末の冷たい光と、イルの呼吸だけだった。

 イルは立ったまま、指先が端末の縁に触れている。握っていないのに、握り潰すみたいに白くなっていた。

 画面には自分の顔が薄く映る。整えているはずの表情の奥で、言い返せなかった言葉だけが渦を巻く。


 最善。世論。停止回避。――全部、正しい形で並べられる。並べられるのに、今夜の怒鳴り声はそれを一段ずつ踏み砕いていった。

 イルは唇を開きかけて、結局何も言わない。言っても届かないのを、分かってしまったからだ。


 ケイとノエルの娘――。


 彼はただ、端末の暗転した画面を見つめたまま、短く息を吐いた。


 *


 医務室の前の廊下は、やけに静かだった。

 白い壁に、蛍光灯の光が冷たく落ちている。医務室の扉の向こうから、かすかに機器の電子音が響いていた。

 セリはその扉の前に立ったまま、動けずにいた。

 胸の奥が重い。何かが決定的に壊れてしまった感覚だけが残っている。


 そのときだった。廊下の奥から靴音が近づいてきた。

 規則正しい軍靴の音。だが、その歩調にはわずかな荒さが混じっていた。


 セリが振り返った次の瞬間、拳が飛んできた。

 鈍い衝撃が頬を打ち、視界が揺れる。体がよろめく。

 体勢を立て直す前に襟を強く掴まれ、引き寄せられる。そのまま背中を壁へ叩きつけられた。

 空気が肺から押し出される。

 顔を上げると、シュタイナーが目の前に立っていた。

 普段の柔らかな表情は消えている。怒りだった。静かで、抑え込まれているはずなのに、それでも隠しきれない怒り。掴んだ襟をさらに引き寄せる。


「なぜこうなる前に止めなかった!」

 低い声だった。押し殺しているはずなのに、廊下の空気が震える。

「……私は警告したはずだ」

 拳に力が入る。白い手袋の上から、関節が浮き上がる。

「堕ちる前に止めろと」


 セリは何も言えなかった。ただ、ゆっくりと顔を上げる。


 目が合う。


「……あんただって……止めれたはずだ」

 その言葉に、シュタイナーの手にさらに力が入った。


 しばらく沈黙が続く。


 シュタイナーはセリを睨みつけたまま、言った。

「君は気づかなかったのか」

 壁に押しつける力が強くなる。

「彼女の目が空になったのは——」

 言葉が途切れる。そして次の瞬間、怒声が廊下に響いた。

「君たちが第7艦隊から帰ってきてからだ!」


 セリの目が、一瞬大きく開く。その瞬間、医務室の扉が勢いよく開いた。


「貴方たち、なにをしている!」

 ラナだった。艦長の声だった。鋭く、廊下の空気を断ち切る。


 シュタイナーの手が止まる。

 数秒の沈黙の後、ゆっくりと襟を離した。

 シュタイナーはその場に立ったまま、自分の手を見る。


 白い手袋がわずかに歪んでいた。

 それを外し指先で引き抜く。手にはまだ力が籠っている。そして、廊下のゴミ箱の底へ叩きつけた。


 乾いた音が響く。


「失礼した」

 強くはない。しかし、声には、まだ怒りが滲んでいた。

 シュタイナーはセリを一度だけ見た。その視線には、怒りとも失望ともつかないものが残っていた。

 すぐに踵を返し、そのまま廊下の奥へ歩き去る。


 ラナは二人を交互に見た。そして小さく息を吐いた。

「アンダーソン、部屋へ戻りなさい」


「……はい」


「あなたは休んだ方がいい」


 セリは小さく頷いた。

 廊下を曲がって少し進むと、セリは誰もいない廊下の壁に背中をつけ、そのまま両手で頭を抱えて座り込んだ。


(……もっと早く止められた)


(止めようと思えば、いくらでも機会はあった)


 廊下は音がなくなったみたいに静かだった。その時、ジョンがセリに向かって走ってきた。


「セリ!あすみが倒れたって、だいじょうーー」

 ジョンはうずくまるセリを見て、言葉を止めた。

「……何があった?」


 セリは顔を上げずに、泣くでも怒るでもない、悔しさの滲んだ声を落とした。

「……カイトはARCLINEにいる」


 ジョンが止まる。理解が追いつかない。

「…は?」


「俺は知ってた。あいつがどこにいるかも」

「あすみがおかしいことも」

 頭に添えている手が震える。

「……全部分かってたのに」

 髪の毛を掴む指に力が入る。震えているのに、力は弱くならない。

「全部……」

「あいつなら、大丈夫」

 セリの声が、少しだけ掠れる。

「……カイトが戻ってくるまで耐えられるって」

「ーーー俺は、あすみを飛ばすために隣にいたんだ」

「あいつの監視役だから…」


『ーーー人を殺すためにここにいるの』


(ーーあんなこと言わせる前に、止めれたはずだ)


 ジョンは蹲ったセリを黙って見ていた。廊下の奥で、機材の搬送音が遠くに鳴る。

「立てよ」

 セリはジョンの腕に引き起こされて立ち上がった。

 そのまま壁にもたれかかり、力のない目でジョンを見上げた。


「後悔してんなら、崩れんな」

 ジョンはセリをまっすぐ見た。

 怒りでも、叱責でもない。ただ前を向く目だった。

「……何がどうなってんのか知らないけど」

 ジョンの手が、セリの腕を強く掴んだ。

「そんなにヤワじゃないだろ、あすみも、お前も。」


 セリの背中が壁から離れる。視線を外し、上を向くと、蛍光灯の白い光が目に入る。

 静かに目を閉じて、深呼吸をした。医務室の方で誰かが走ってくる音がする。

 その瞬間、ジョンの手がセリの腕から離れた。


「……言うなよ、誰にも」

 セリの声はいつも通りだった。


 ジョンが少しだけ口角をあげながら答える。

「言うかよ」


 そう言うと、ジョンはそのまま医務室に向かっていった。そして、廊下を曲がっていくジョンを見届けてから、セリは格納庫へ足を向け歩き出した。


 *


 エリンの視線が、担架の上の顔に戻る。


 あすみは目を開けている。開けたまま、何も見ていない。焦点が合わない目が天井の一点を通り抜けて、そこに留まる。

 エリンは看護師に目で合図する。

「カーテン。周りを落として。必要な人だけ」

 看護師が頷き、カーテンを引く。布が走る音が短く響く。


 それでも、電子音は変わらない。

 そのとき、扉が開く音が重なった。駆け足の靴音が近づき、呼吸が乱れたまま医療区画に飛び込んでくる。

 アンの後に遅れてラナが入ってくる。

 ラナが入口の脇に立つ。医療の動線を塞がない位置だった。艦長の声は低いが、張りつめてはいない。

 「状況は」

「身体は保ってるわ。いま優先するのは刺激を増やさないこと」

 エリンは言い切る。


「……あすみ!」

 声が出たのは、名前だけ。その次の言葉が続かない。担架を見た瞬間、アンの足が止まる。

 目が開いている。でも、あすみの目がこちらを見ない。

 アンの喉が小さく鳴る。息を吸う音が引っかかる。


 看護師が反射的に手を上げる。

「患者さんに——」


 ラナが短く遮る。

「いいわ。……通して」


 アンは礼も言えず、担架に近づく。

 二歩で距離が詰まるのに、その二歩が長い。途中で膝が揺れ、肩が前に落ちる。

「ねえ……」

 声があすみに届く前に、自分の喉で擦れてしまう。

 アンは手を伸ばして、止まる。触れる直前で指先が宙に浮いて、震える。


 エリンがアンの視界に入る位置へ回り、淡々と告げる。

「触れるなら、ゆっくり。大きい声は避けて」


 アンは頷けない。頷いたら、ここにあるものが全部“本当”になる気がした。

 それでも、指が降りる。あすみの手に、そっと触れる。


 温かい。

 温かいのに、反応は返ってこない。


 アンの顔が歪む。泣く前の顔だ。泣くのを止めようとして壊れる顔。

「……あすみ、聞こえてるよね」

 言った瞬間に、自分で分かる。聞こえていない。

「ねえ……」

 もう一度。今度は声が大きくなる。

「返事して」


 医療室の空気が一瞬だけ硬くなる。看護師の手が止まり、ラナの視線がアンの肩に落ちる。

 アンは止められない。止めたら、あすみが本当にいなくなる気がして、息が詰まる。

「やだ……」

 それは怒鳴りでも泣き声でもなく、喉から落ちた音だった。

 次の瞬間、堰が切れる。

「やだよ」

 声が割れ、涙が落ちる。アンはそれを拭かない。拭く手が動かない。


 エリンが短く言う。

「椅子」


 看護師が椅子を寄せ、ラナがアンの背中に手を添える。押さえつけない。倒れないように支えるだけ。

 アンは座らされる形になり、それでも身を乗り出す。

 あすみの手を離さない。


「……お願い……」


 誰に向けた言葉か分からない。あすみでも、医療でも、自分でもない。

 あすみは瞬きをした。

 それは何かに反応した動きじゃない。乾きに身体が従っただけの動き。

 アンはその瞬きを見て、息を呑む。希望が胸を叩いて、すぐ落ちる。

「……あすみ」


 医療モニターの電子音が、同じ間隔で鳴り続けていた。


 *


 扉が閉まって、医療室の白が切れた。

 通路の照明が一段落ちる。


 アンは一歩も動けず、扉の継ぎ目だけを見ていた。息を吸っても胸まで入らない。

(目は開いてたのに、見てなかった……)


 膝が抜けそうになって、アンは壁に手をついた。掌が滑って、指が震える。涙が勝手に落ちる。

 足音が近づいた。急ぎすぎない、慌ててる足音。

 角からジョンが出てきて、アンの顔を見て止まる。

「……アン」

 アンは振り返れないまま、吐き出した。

「ジョン」


「あすみは?」

 その返事で、アンの肩が大きく揺れた。泣き声が漏れる。

 目の前の事実だけで、ジョンは理解した。


 アンが喉を鳴らして、続けた。

「……あすみ、帰ってくるよね」


 ジョンは一拍だけ間を置いた。

 アンの目を見て、逃げない声で言った。

「当たり前だろ」


 アンはそれに縋るみたいに頷いて、顔を伏せた。泣きながら、息だけが少し戻っていく。


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