Sky99-残る音-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
医務区画の前の廊下は、夜でも白かった。
消毒液の匂いが薄く漂い、換気の一定の音が、艦内に残っている焦げた匂いを削り取ろうとしていた。担架の車輪が床を擦り、短い号令が交差し、誰かの靴音が走っては止まる。
「次、二番ベッド! 止血、続けて!」
サラは顎を引き、手元の端末を握る指に力を込めて立っていた。白い照明の下で、その顔だけが少し硬い。
(……また、誰かが壊れていく)
サラは離れた場所に立つミュラーへ視線を送った。
その様子を、ラナ艦長が遠くから見ていた。腕を組んだまま、視線だけが鋭い。隣に立つミュラー・エリスも何も言わない。けれど、彼の目も同じ場所を追っていた。
ラナが低く言った。
「いつか、何かが起きると思ってた。まさか、こんなに早いなんて……」
ミュラーは返事をしない。代わりに、袖口の端末を起動し、指を最短で滑らせた。表情は動かないのに、指先だけが焦っている。
「北方基地に照会を飛ばす」
「何を」
「この作戦の、ポリシー更新履歴。……それと、座標レイヤの差分ログ」
ラナの眉が一瞬だけ上がる。
「……やったのね」
問いではなく、断言だった。
ミュラーは、端末を閉じる前に一度だけ画面を見つめた。自分の中の燃え残りを、呼吸で押し込むように。
「“確認中”の使い方が綺麗すぎる。誰かが、綺麗に隠してる」
ラナは目を細めた。怒りではない。艦長として、次に動かす手順を決める目だった。
「最優先で。北方基地が受け取ったら、私にも回しなさい」
「了解」
ミュラーはそのまま通信室へと向かった。
*
格納庫に戻って、セリはあすみの装備を机に置きかけた。
金具が鳴りそうになって、寸前で止める。止めたせいで、手の中で小さく噛んだ音だけがした。
握った指に力が入る。手袋の縫い目が食い込み、関節が白くなる。
(……くそっ)
(あいつは、まだ戻れると思ってた)
まだ笑える。まだ飛べる。それだけで“まだ大丈夫”だと押し込んでいた。
(まだ、大丈夫だって勝手に……)
(隣にいたのに、何も見えてなかった)
喉の奥で息が引っかかる。言葉にならない。拳の中の装備だけが重い。
(ちくしょう……)
セリは、手元の装備を、また握りしめた。
*
ミュラーが端末の通信欄を開き、**北方基地/司令官室:直通**を選ぶ。
発信音が鳴る。
医務区画の白い廊下の奥で、モニターの通知音がひとつ鳴り、次に別の通知音が重なる。
――回線が繋がる。
北方基地の司令官室は、空気が乾いていた。
外では雪が降っていて、窓の向こうに白い光が滲み、室内のモニターだけが色を持っている。
机の上には紙の資料が積まれ、無線機のランプが細かく点滅していた。
ハイルトンは椅子に深く座らない。立っている方が落ち着くタイプだ。端末の前に腰を寄せ、指先で画面をスクロールした。
届いた照会を見る。ノーザンクロス艦長権限。最優先。
《INCOMING:NORTHERN CROSS/艦長権限》
その一行だけで、嫌な予感は確信に変わり始める。画面に並ぶのは、作戦名と時刻と、無機質な更新履歴だった。
――POLICY UPDATE.
――CIV LAYER : SUPPRESS (OPSEC).
――REASON : PREVENT OPERATION STOP DUE TO PUBLIC OUTCRY.
ハイルトンの指が止まった。
止まっても何も止まらないのに、止めずにいられなかった。唇の端が、わずかに引きつる。
「……あ?」
声が漏れた。怒鳴りではない。理解した声だった。
リーサが振り向く。救護班の上着を羽織ったまま、目が疲れているのに、反応だけは速い。
「司令?」
ハイルトンは返さない。代わりに、画面を指で叩いた。叩く指の力が、机を震わせる。
「“作戦停止を防ぐ”……?」
言い直すように、低く。
キヌアが、端末の隣に寄って覗き込む。肩が一瞬だけ強張った。
「……民間レイヤ、抑制……?」
「抑制じゃねぇよ。……隠蔽だ」
ハイルトンの声が乾いている。乾いているのに、奥が熱い。
視線が次の行へ落ちる。
――TARGET LAYER OVERRIDE : ACTIVE.
――VISUAL SUPPRESSED : CIV REFUGE CAMP (UNARMED).
ハイルトンの喉が一回だけ鳴った。
(隠したな)
言葉にしなくても、身体が先に確定してしまう。
けれど――証拠を掴んだところで、止められたか。止められない。だから怒りは行き場を失う。
ハイルトンは端末を閉じない。代わりに、回線リストを開き、迷いなく一件を選ぶ。
「西方。イル副司令官を出せ」
リーサが息を飲む。
「今、繋ぎます」
キヌアが小声で言う。
「……司令、落ち着いて」
ハイルトンは笑わない。笑えるわけがない。
「……落ち着いてるよ」
その言い方が、冗談ではなかった。
画面に映ったイルは、疲れていた。
背景は西方の司令室だろう。壁の地図も、机の端末も、整いすぎている。イル自身も同じだ。髪は乱れていないのに、目の下だけが重い。現場の火消しをし続けた顔だった。
イルが口を開く前に、ハイルトンが言った。
「知ってたんですか」
イルの眉がわずかに動く。反射だった。
「……何の話だ」
ハイルトンは端末を持ち上げ、画面をこちらに向けた。指先が震えていないのが、逆に怖い。
「民間レイヤ抑制。OPSEC。理由――“世論による作戦停止回避”」
イルの視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ。泳いで、戻る。戻すのが上手い人間の泳ぎ方だった。
「……作戦は継続しなければならない。最善策を講じたまでだろう」
「最善?」
イルが言い切る前に、ハイルトンが一歩詰めた。机に手をつく。肩が前に落ちる。怒鳴るための姿勢だった。
「――誰にとっての最善だよ」
司令官室の空気が震えた。
リーサが反射で背筋を伸ばす。キヌアの目が一瞬だけ見開かれ、それでも口は閉じたままだった。
イルは瞬きを一つして、声の温度を落とす。落とさなければ会話にならないと分かっている顔で。
「落ち着け。現場が止まれば――」
「“作戦停止を防ぐ”?それで守ったのは航路じゃねぇ」
ハイルトンの指が画面を叩く。叩いたって届かないのに、叩かずにいられない。
「守ったのは――お前らの面子だろ。世論で、数字だろ!」
イルの眉がわずかに寄る。怒りではない。痛みに似た皺だった。
「……世論が燃えれば、次の避難も止まる。補給も止まる。結果、もっと死ぬ」
「……その便利な理論で、何人殺してきた」
ハイルトンは笑い声みたいな息を吐いて、拾う単語を、わざと選んで叩き返す。
「見えないものは撃てる、そういう仕組みにしたのは誰ですか」
イルが口を開く。理屈の順番を整えようとする。だが、ハイルトンはその“整える動作”ごと許さない。
イルの目がわずかに細くなる。怒りではない。痛みの形だった。
「……ハイルトン。俺だって、現場を――」
「――REDROSE は兵器じゃねぇ!古賀あすみは人間だ」
室内の誰かが小さく息を漏らす。
ハイルトンはそこで初めて、一瞬だけ声が掠れた。掠れたのを誤魔化すように、喉を鳴らして続ける。
「“最善”って言うたび、現場の人間が壊れてくんですよ」
イルの視線が落ちる。落ちたまま、口だけが動く。
「……壊したいわけじゃない」
「じゃあ、止めろよ!」
ハイルトンの怒鳴りが、最後だけ低くなった。怒鳴りではなく、殴る声だった。
「……今までだって、救えた命があったはずだ」
沈黙が一拍、回線に挟まる。イルが何か言おうとして、言葉が出ない。出せない。
ハイルトンは端末を睨んだまま言い捨てた。
「……もういい。」
「ミュラー・エリスの次に、お前らが壊したのは古賀あすみだ。」
「……ケイとノエルの娘だ……忘れるなよ、副司令官。」
ぶつり、と回線を切る。
司令官室に、端末の冷却ファンの音だけが残った。
リーサとキヌアは、しばらく言葉を失っていた。
二人とも、ハイルトンが怒鳴るのは見たことがあっても、あの種類の怒鳴りは初めてだった。理屈を理解したまま、理屈を殴り殺す怒鳴り。
ハイルトンは椅子を蹴らない。机も殴らない。
ただ、端末を握る指に力を込めた。プラスチックが軋むほど。視線を落とし、次の手を探す。
探すしかない。
その時――端末の隅に、別の通知が割り込んだ。
暗号タグ。短い文字列。
BLACK LILY
ハイルトンの眉が、わずかに動いた。
「……なんだ」
声は低い。怒りとは別の、嫌な予感の色だった。
リーサが恐る恐る聞く。
「司令、それ……何ですか」
ハイルトンは答えない。通知を開かずに、画面を見つめたまま言った。
「さあな」
怒りはまだ胸の奥で燃えている。けれど次の現場が、もう来ている。ハイルトンは端末を握り直し、短く命じた。
「ログは全部保存。消される前提で二重にしろ。……ノーザンクロスに、今夜の更新履歴を送る」
「動くぞ」
ハイルトンは椅子を蹴って立ち上がった。拳がまだ震えている。震えを握り潰すように指を丸める。
「次に同じ文面が来たら、こっちはこっちで“ログ”を取る。……逃がさねぇ」
キヌアが小さく頷く。リーサは一度だけ唇を噛み、何も言わずについてくる。
音が切れた後に西方の司令室に残ったのは、端末の冷たい光と、イルの呼吸だけだった。
イルは立ったまま、指先が端末の縁に触れている。握っていないのに、握り潰すみたいに白くなっていた。
画面には自分の顔が薄く映る。整えているはずの表情の奥で、言い返せなかった言葉だけが渦を巻く。
最善。世論。停止回避。――全部、正しい形で並べられる。並べられるのに、今夜の怒鳴り声はそれを一段ずつ踏み砕いていった。
イルは唇を開きかけて、結局何も言わない。言っても届かないのを、分かってしまったからだ。
ケイとノエルの娘――。
彼はただ、端末の暗転した画面を見つめたまま、短く息を吐いた。
*
医務室の前の廊下は、やけに静かだった。
白い壁に、蛍光灯の光が冷たく落ちている。医務室の扉の向こうから、かすかに機器の電子音が響いていた。
セリはその扉の前に立ったまま、動けずにいた。
胸の奥が重い。何かが決定的に壊れてしまった感覚だけが残っている。
そのときだった。廊下の奥から靴音が近づいてきた。
規則正しい軍靴の音。だが、その歩調にはわずかな荒さが混じっていた。
セリが振り返った次の瞬間、拳が飛んできた。
鈍い衝撃が頬を打ち、視界が揺れる。体がよろめく。
体勢を立て直す前に襟を強く掴まれ、引き寄せられる。そのまま背中を壁へ叩きつけられた。
空気が肺から押し出される。
顔を上げると、シュタイナーが目の前に立っていた。
普段の柔らかな表情は消えている。怒りだった。静かで、抑え込まれているはずなのに、それでも隠しきれない怒り。掴んだ襟をさらに引き寄せる。
「なぜこうなる前に止めなかった!」
低い声だった。押し殺しているはずなのに、廊下の空気が震える。
「……私は警告したはずだ」
拳に力が入る。白い手袋の上から、関節が浮き上がる。
「堕ちる前に止めろと」
セリは何も言えなかった。ただ、ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
「……あんただって……止めれたはずだ」
その言葉に、シュタイナーの手にさらに力が入った。
しばらく沈黙が続く。
シュタイナーはセリを睨みつけたまま、言った。
「君は気づかなかったのか」
壁に押しつける力が強くなる。
「彼女の目が空になったのは——」
言葉が途切れる。そして次の瞬間、怒声が廊下に響いた。
「君たちが第7艦隊から帰ってきてからだ!」
セリの目が、一瞬大きく開く。その瞬間、医務室の扉が勢いよく開いた。
「貴方たち、なにをしている!」
ラナだった。艦長の声だった。鋭く、廊下の空気を断ち切る。
シュタイナーの手が止まる。
数秒の沈黙の後、ゆっくりと襟を離した。
シュタイナーはその場に立ったまま、自分の手を見る。
白い手袋がわずかに歪んでいた。
それを外し指先で引き抜く。手にはまだ力が籠っている。そして、廊下のゴミ箱の底へ叩きつけた。
乾いた音が響く。
「失礼した」
強くはない。しかし、声には、まだ怒りが滲んでいた。
シュタイナーはセリを一度だけ見た。その視線には、怒りとも失望ともつかないものが残っていた。
すぐに踵を返し、そのまま廊下の奥へ歩き去る。
ラナは二人を交互に見た。そして小さく息を吐いた。
「アンダーソン、部屋へ戻りなさい」
「……はい」
「あなたは休んだ方がいい」
セリは小さく頷いた。
廊下を曲がって少し進むと、セリは誰もいない廊下の壁に背中をつけ、そのまま両手で頭を抱えて座り込んだ。
(……もっと早く止められた)
(止めようと思えば、いくらでも機会はあった)
廊下は音がなくなったみたいに静かだった。その時、ジョンがセリに向かって走ってきた。
「セリ!あすみが倒れたって、だいじょうーー」
ジョンはうずくまるセリを見て、言葉を止めた。
「……何があった?」
セリは顔を上げずに、泣くでも怒るでもない、悔しさの滲んだ声を落とした。
「……カイトはARCLINEにいる」
ジョンが止まる。理解が追いつかない。
「…は?」
「俺は知ってた。あいつがどこにいるかも」
「あすみがおかしいことも」
頭に添えている手が震える。
「……全部分かってたのに」
髪の毛を掴む指に力が入る。震えているのに、力は弱くならない。
「全部……」
「あいつなら、大丈夫」
セリの声が、少しだけ掠れる。
「……カイトが戻ってくるまで耐えられるって」
「ーーー俺は、あすみを飛ばすために隣にいたんだ」
「あいつの監視役だから…」
『ーーー人を殺すためにここにいるの』
(ーーあんなこと言わせる前に、止めれたはずだ)
ジョンは蹲ったセリを黙って見ていた。廊下の奥で、機材の搬送音が遠くに鳴る。
「立てよ」
セリはジョンの腕に引き起こされて立ち上がった。
そのまま壁にもたれかかり、力のない目でジョンを見上げた。
「後悔してんなら、崩れんな」
ジョンはセリをまっすぐ見た。
怒りでも、叱責でもない。ただ前を向く目だった。
「……何がどうなってんのか知らないけど」
ジョンの手が、セリの腕を強く掴んだ。
「そんなにヤワじゃないだろ、あすみも、お前も。」
セリの背中が壁から離れる。視線を外し、上を向くと、蛍光灯の白い光が目に入る。
静かに目を閉じて、深呼吸をした。医務室の方で誰かが走ってくる音がする。
その瞬間、ジョンの手がセリの腕から離れた。
「……言うなよ、誰にも」
セリの声はいつも通りだった。
ジョンが少しだけ口角をあげながら答える。
「言うかよ」
そう言うと、ジョンはそのまま医務室に向かっていった。そして、廊下を曲がっていくジョンを見届けてから、セリは格納庫へ足を向け歩き出した。
*
エリンの視線が、担架の上の顔に戻る。
あすみは目を開けている。開けたまま、何も見ていない。焦点が合わない目が天井の一点を通り抜けて、そこに留まる。
エリンは看護師に目で合図する。
「カーテン。周りを落として。必要な人だけ」
看護師が頷き、カーテンを引く。布が走る音が短く響く。
それでも、電子音は変わらない。
そのとき、扉が開く音が重なった。駆け足の靴音が近づき、呼吸が乱れたまま医療区画に飛び込んでくる。
アンの後に遅れてラナが入ってくる。
ラナが入口の脇に立つ。医療の動線を塞がない位置だった。艦長の声は低いが、張りつめてはいない。
「状況は」
「身体は保ってるわ。いま優先するのは刺激を増やさないこと」
エリンは言い切る。
「……あすみ!」
声が出たのは、名前だけ。その次の言葉が続かない。担架を見た瞬間、アンの足が止まる。
目が開いている。でも、あすみの目がこちらを見ない。
アンの喉が小さく鳴る。息を吸う音が引っかかる。
看護師が反射的に手を上げる。
「患者さんに——」
ラナが短く遮る。
「いいわ。……通して」
アンは礼も言えず、担架に近づく。
二歩で距離が詰まるのに、その二歩が長い。途中で膝が揺れ、肩が前に落ちる。
「ねえ……」
声があすみに届く前に、自分の喉で擦れてしまう。
アンは手を伸ばして、止まる。触れる直前で指先が宙に浮いて、震える。
エリンがアンの視界に入る位置へ回り、淡々と告げる。
「触れるなら、ゆっくり。大きい声は避けて」
アンは頷けない。頷いたら、ここにあるものが全部“本当”になる気がした。
それでも、指が降りる。あすみの手に、そっと触れる。
温かい。
温かいのに、反応は返ってこない。
アンの顔が歪む。泣く前の顔だ。泣くのを止めようとして壊れる顔。
「……あすみ、聞こえてるよね」
言った瞬間に、自分で分かる。聞こえていない。
「ねえ……」
もう一度。今度は声が大きくなる。
「返事して」
医療室の空気が一瞬だけ硬くなる。看護師の手が止まり、ラナの視線がアンの肩に落ちる。
アンは止められない。止めたら、あすみが本当にいなくなる気がして、息が詰まる。
「やだ……」
それは怒鳴りでも泣き声でもなく、喉から落ちた音だった。
次の瞬間、堰が切れる。
「やだよ」
声が割れ、涙が落ちる。アンはそれを拭かない。拭く手が動かない。
エリンが短く言う。
「椅子」
看護師が椅子を寄せ、ラナがアンの背中に手を添える。押さえつけない。倒れないように支えるだけ。
アンは座らされる形になり、それでも身を乗り出す。
あすみの手を離さない。
「……お願い……」
誰に向けた言葉か分からない。あすみでも、医療でも、自分でもない。
あすみは瞬きをした。
それは何かに反応した動きじゃない。乾きに身体が従っただけの動き。
アンはその瞬きを見て、息を呑む。希望が胸を叩いて、すぐ落ちる。
「……あすみ」
医療モニターの電子音が、同じ間隔で鳴り続けていた。
*
扉が閉まって、医療室の白が切れた。
通路の照明が一段落ちる。
アンは一歩も動けず、扉の継ぎ目だけを見ていた。息を吸っても胸まで入らない。
(目は開いてたのに、見てなかった……)
膝が抜けそうになって、アンは壁に手をついた。掌が滑って、指が震える。涙が勝手に落ちる。
足音が近づいた。急ぎすぎない、慌ててる足音。
角からジョンが出てきて、アンの顔を見て止まる。
「……アン」
アンは振り返れないまま、吐き出した。
「ジョン」
「あすみは?」
その返事で、アンの肩が大きく揺れた。泣き声が漏れる。
目の前の事実だけで、ジョンは理解した。
アンが喉を鳴らして、続けた。
「……あすみ、帰ってくるよね」
ジョンは一拍だけ間を置いた。
アンの目を見て、逃げない声で言った。
「当たり前だろ」
アンはそれに縋るみたいに頷いて、顔を伏せた。泣きながら、息だけが少し戻っていく。
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