Sky100-百合の紋章-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
オルディア帝国首都、ルクスグラン。
朝の霧は薄く、広い大通りの街路樹の枝先にだけ残っていた。
庁舎群は複合装甲材とガラスで覆われ、屋上の通信塔には帝国旗が濡れたように垂れている。
道路脇の表示板には、地上鉄道、官庁街循環バス、軌道港シャトルの時刻が並び、停留所では通勤客が温かい飲み物を片手に列を作っていた。軍服姿の兵士も、子どもを連れた職員も、同じ改札を通る。
配給所の列は番号順に進み、巡回ドローンは決まった高度で通りを横切り、庁舎の窓には一つずつ明かりが灯っていく。
この国では、戦争でさえ生活の外にあるものではなかった。申請され、記録され、許可され、日々の仕事の中へ組み込まれている。
人がどこへ行き、誰と会い、どの便に乗るのかまで、帝国は紙と端末の両方で把握していた。
官庁街の交差点には、ロナルド二世の若い頃の肖像が掲げられている。
古い映像を加工したものだろう。黒い軍服の胸元には皇帝章が光り、下には《帝国の血を守れ》という標語が流れている。
今では誰も立ち止まらない。通勤客は温かい飲み物を片手に、その下を通り過ぎる。
オルディア狩りの時代を知らない若い職員たちにとって、それは歴史教育の一部でしかない。
けれど庁舎の出入口には、今も血統照合用の古いゲートが残っていた。
ケビンはいつも通り、時間ぴったりに庁舎の裏口から入った。
受付に提出する通行証を胸のポケットから出し、金属板の上に置く。係員は無言で頷き、いつものように判を押した。
「今日も早いな」
背中から声がして、ケビンは振り向いた。同じ課のオルガだ。
彼は軽く片手を上げて、いつもの席に向かう。
「遅いよりはマシだろ」
ケビンがそう返すと、オルガは自分の机の上の書類を広げながら笑った。
二人の部署は、出入国関係の末端処理を扱っている。
末端、というのが肝心だった。偉い人間の名前は書類に出てこない。出てきても、印が一つ増えるだけだ。
自分たちが触れるのは、番号と日付と、薄い紙の束。
「昨日の分、まだ残ってる」
オルガが机の上の山を指した。
ケビンは椅子に腰を下ろし、書類の端を揃えた。指先が紙をなぞる感触は、毎日同じ。インクと乾いた埃の匂い。
窓の外からは遠く、戦闘機の音がときどき聞こえるが、ここでは誰も振り向かない。
午前中は、単調な作業が続いた。
出国許可。滞在延長。職員の身分照会。
許可が降りるたびに、机上の判が一つ増える。
昼前、課長が慌ただしく入ってきた。
コートの襟が少し乱れていて、珍しく目が笑っていない。
「午後、臨時の処理が入る。担当は――」
課長は紙を見て言葉を切り、少しだけ眉を寄せた。
それから、いつもの調子に戻そうとするみたいに、咳払いをした。
「……ローレンツがいないなら、オルガ。お前が代わりに動け」
オルガはペンを止めた。
「ローレンツ?あいつ今日、休みですか」
課長は答えず、机の端を指で叩いた。
「連絡がつかない。午前の時点で来ていない。……とにかく、回すぞ」
課長はそれだけ言って、足早に出ていった。
オルガはしばらく無言で、書類を見つめた。
ローレンツはこの課で一番「ちゃんとしている」男だった。
天候や体調が悪くても、遅刻しない。誰よりも早く来て、黙々と判を押す。そういうタイプだ。
「珍しいな」ケビンがぽつりと言うと、オルガは肩をすくめた。
「寝坊じゃない? たまにはあるだろ」
そう言いながらも、オルガの視線は何度も入口へ向いた。
午後になっても、ローレンツは来ない。
夕方、最後の書類を片付けた頃、オルガが立ち上がった。
「……お前、帰る?」
「帰るけど」
ケビンが荷物をまとめると、オルガは少し迷ってから言った。
「俺、寄ってくわ。ローレンツんとこ」
「家に?」
「鍵の管理もしてるって言ってたろ。明日の臨時便、外交官も技術者も軍属も乗る。あいつの判がないと、誰一人ゲートを通せない」
言葉は仕事のため、という顔だった。
けれど、オルガの声には別のものが混じっていた。心配、というより、落ち着かなさ。理由のない違和感。
ケビンは少し考えて、頷いた。
「それは、大変だ。一気に人の流れが止まるな。俺も行くよ」
ローレンツの住まいは、官庁街から二つ先の区画にある古い集合住宅だった。
階段の踊り場は暗く、廊下の窓は小さく、外の光が薄く差し込むだけだ。戦争が長引いて、ついに最近は街灯が減らされた。
省エネだとか言っていたが、ただ暗いだけだった。
扉の前に立つとオルガが、手を置いてノックした。
「ローレンツ。いるか?」
返事はない。
もう一度、強めに叩く。
「おい、冗談やめろ。課長が怒ってるぞ」
それでも音は返ってこない。
ケビンは、扉の隙間に目を落とした。新聞も溜まっていない。郵便受けも空だ。
「……留守じゃないのか」
オルガは眉を寄せて、ドアノブに手を掛けた。
鍵は――かかっていなかった。ノブが軽く回り、扉が開く。
二人は一瞬、顔を見合わせる。ローレンツは鍵をかけない男ではない。
「入るぞ」
オルガが低く言い、扉を押し開けた。
部屋の中は、気持ち悪いくらいに整っていた。食器は洗われ、椅子は机に収められ、靴も揃っている。
生活の匂いはあるのに、気配だけが薄い。まるで、誰かが「片付けてから」出ていったみたいに。
「ローレンツ?」
オルガが呼ぶが、返事はない。
ケビンは、机の上に視線を落とした。
そこに、ひとつだけ“新しいもの”があった。
白いカードだ。
紙質がやけに良く、光を少しだけ弾く。封筒はない。カードだけが、机の中央に置かれている。
そして、カードの中央には百合が刻印された黒い封蝋が押されていた。
オルガもそれを見て、動きを止めた。
言葉が出ないまま、ゆっくり近づいて、カードを持ち上げようとして――途中でやめた。
触れたら何かが確定してしまう、という顔だった。
部屋の静けさが、急に重くなる。外の遠い戦闘機の音が、ここまで届いた気がした。
ケビンは息を吸って、吐く。
「……なんだこれ」
オルガは答えない。ただ、黒百合の封蝋を見つめていた。
まるでそれが、名前の代わりに“誰か”を名乗っているみたいに。
「ローレンツは?」
ケビンが問うと、オルガはようやく視線を上げた。
「……さあな」
声が掠れていた。それは、知らないからじゃない。言葉にしたくないからだ。
机の上には、白いカードと黒い百合だけが残っている。
ローレンツがそこにいた痕跡は、どこにもなかった。
少し離れた場所でバックミラーからローレンツの家の出入り口を伺う車が停まっていた。
シートに身体を沈めたニコがバックミラーから視線を正面に戻すと、エンジンをかけようと姿勢を正した。
「……本当に良かったのか。このやり方で」
ニコは視線を前に向けたままハンドルを握った。
「ああ」
フードを深く被ったカイトが助手席からサイドミラーを見ている。
出入り口からケビンとオルガが出てくる。二人は話しながらアパートの道を車とは反対の方へ歩いて行った。
カイトは、ローレンツの部屋の窓に視線を向ける。
その瞬間、車のトランクがドン。と鳴った
ニコが眉間に皺を寄せながら車を走らせ始めた。
「まだ起きないんじゃなかったのかよ」
カイトは助手席の窓の外から、流れるオルディアの街を見ている。
「すぐ静かになる。アルクトリとの国境まで行ったら、予定通り処理する」
車内のラジオから、低い男の声が流れていた。
『――先日、連合各国で執り行われたブライトン大統領の国葬以降、連合軍内部では混乱が続いています。西方戦線に投入されていたREDROSEについても、現在所在は確認されておらず、連合軍は正式な発表を避けています』
ニコが舌打ち混じりに笑う。
「どこも大騒ぎだな」
カイトは窓の外を見たまま、答えない。
官庁街の交差点に差し掛かると、ロナルド二世の肖像が目に入った。
ロナルド二世。
特別な血。
オルディア狩り。
消えたREDROSE。
この世界はどこまでも腐っている。逃げられないなら、向き合うしかない。
この腐った世界の構造と。
最後の最後まで。
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