Sky95-誇りたいもの-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
管制システム課のモニターの隅では、未処理の数字が増えるたびに小さな通知音が鳴って、鳴って、鳴り止まない。白い照明が天井から均一に落ち、空調の乾いた風がラックの隙間を抜けていく。モニターの熱が、狭い島の空気をわずかに押し上げていた。
ジョンは椅子の背にもたれず、画面に近いまま手を止めた。
指先が熱を持っている。キーボードの角が、やけに硬い。
隣の席ではアンが、いつも通り口だけ荒い顔でログを叩いている。
怒りを燃料にしているみたいな、あの手の速さ。けれどジョンは、アンの声を〝遠い音〟として聞いていた。
画面には、別のウィンドウが開いている。
――旧版仕様書。ページの端に、見慣れた署名があった。
《設計責任:――ロイ・ラブラトリー》
ジョンは一度だけ唾を飲み、スクロールをゆっくり進めた。古い設計思想の欄。そこに短い一文が残っている。
「混線時は救護を最優先とする」
たったそれだけなのに、胸の奥がきゅっと縮む。
(……誇りたいんだよ、これを)
父は、アスミの母親が死んだ事件で足に障害を残した。それでも〝現場を嫌いにならない〟人だった。
歩けなくなった分だけ、頭の中で人を助ける流れを組んで、軍本部のシステム課に残った。誰よりも事故を憎んで、誰よりも「救護が遅れる」ことを嫌った。
だからこの一文は、父の祈りみたいなものだ。
――なのに。
ジョンは、目の前の現実ログに視線を戻す。救護、戦闘誘導、回収ライン。全部が同時に鳴っている。
〝混線時は救護を最優先〟。今それを忠実にやれば、戦闘誘導が遅れる。
遅れれば退避コリドーの計算が狂う。狂えば回収班が遅れる。遅れれば、救護が詰まる。
正しいはずのものが、別の正しさを殺す。ジョンの指は、変更案の欄を開き、書きかけては止まる。
カーソルが瞬く。瞬いているだけで、責められている気がした。
「……ジョン?」
アンが横目で見た。眉を吊り上げたまま、口だけが少し柔らかい。
「顔、死んでる。寝てないでしょ」
ジョンは笑いそうになって、やめた。口角が上がりきらない。
「寝ると、追いつけない」
「追いつく気あるのが偉いんだって」
アンはそう言って、またキーボードに戻る。ガチャガチャと音が増える。その〝増える音〟が、ジョンには救いにも焦りにもなる。
そのとき、画面の端で別のウィンドウが勝手に前に出た。戦闘運用の自動最適化表示。人間の手を待たずに回り続ける、冷たい手順。
REDROSE:AUTO ROUTE OPTIMIZED
TIME TO LAUNCH:00:45
LOADOUT:STANDARD/SAFE-MIN
PRIORITY:HIGH
ジョンの胃が、ぎゅっと締まる。喉の奥が渇いて、唾を飲み込む音が自分の耳にだけ大きく響いた。
REDROSE――アスミ。
自動最適化。勝手に、最短で、最善で。その〝最善〟の中に、彼女の気配はどこにもない。
ジョンは、画面を指で押さえた。押さえても何も止まらないのに、押さえずにいられなかった。
父さんのシステムで、守られてきたのは、お前とカイトだ。アスミが名前じゃなくて、兵器として呼ばれてる。
カイト、どこにいるんだよ。
兵器にしないように二人を守るシステムを作った父を、誇りたい。けれど今、同じ仕組みが〝兵器としての最適化〟を先に走らせている。
背後で椅子が鳴った。誰かが通路を横切る気配。ブーツの音がひとつ、重い。
ミュラーだった。通りすがりに管制室の奥を覗き、ジョンの画面を一瞬だけ見た。
ミュラーは何も言わない。眉間だけを少し寄せる。あれは心配でも命令でもない。状況を〝飲み込んだ顔〟だ。
ジョンが目だけで会釈すると、ミュラーは小さく顎を引いて、そのまま行った。袖口の白銀が、照明に一瞬だけ浮いて、すぐ消える。ジョンは自分の掌を見た。キーボードの跡がうっすら残っている。握っていたわけじゃないのに、力が入っていた。
父の足は、もう戻らない。父は〝現場に行けない代わりに〟システムで守ろうとしている。
背筋を、冷たい汗が一筋伝った。ジョンは、その父の一文を画面の片隅に残したまま、ログ保存のコマンドを叩いた。保存音が小さく鳴る。
たったそれだけの音が、今夜はやけに重い。
どうすれば、守れる。何を切れば、助かる。誰を後回しにすれば、誰が生き残る。そんな計算をするために、父はこのシステムを作ったんじゃない。
それでもジョンは、手を止められなかった。止めた瞬間、誰かが死ぬ。モニターの隅で、REDROSEのカウントが淡々と減っていく。
00:31
00:30
ジョンは、息を殺してキーを叩いた。
「……ごめん、アスミ」
声は、ファンの唸りに沈んだ。
*
格納庫は、いつも通りの匂いをしていた。冷却剤の霧が薄く漂い、金属と油の匂いが喉の奥に残る。整備灯の白が機体の腹を照らし、工具の音がリズムみたいに重なる。台車の車輪が床の継ぎ目を跨ぐたび、小さな衝撃音が反響していた。誰かの笑い声が、天井の高い空間に一瞬だけ伸びて消える。
「各機、チェックシート回してー。今日もいつも通り、壊すなよー」
整備主任が怒鳴る。怒鳴り方が、怒っていない。号令の音だ。
セリが返事を投げる。
「了解了解。俺は〝優しく〟飛ぶタイプなんで」
軽口。笑い声が一瞬だけ起きる。でも、その笑いの中に混じる息が薄い。セリの笑いは支えじゃない。摩耗を先送りするための癖だ。ミュラーはそれを見て、少しだけ胃が締まった。
アスミも笑っている。ヘルメットを抱えたまま、整備員の指示を一つずつ復唱する。
「REDROSE、燃料系統、正常。推進、正常。姿勢制御、正常。チェック、完了」
声は一定。無駄な揺れがない。
〝人の声〟というより、ログの読み上げに近い。
ミュラーは自分の機体の前で、グローブを締めた。指先の感覚を確かめる。
整備班が叫ぶ。
「REDROSE、発進レーンへ移動! 次、Alpha2、続け!」
「はい」
セリが手を挙げて歩き出す。
*
宙域。管制の声が、いつもの速度で落ちる。
《目標区域、表示。赤点、三。砲座、車列、通信塔。順に消して。残ったら、後処理まで》
アスミの声が返る。一定の温度で、淡々と。
《REDROSE、第一目標――沈黙させます》
モニターの地形図で、赤い点が三つ灯っていた。砲座、車列、通信塔。
次の瞬間、画面が揺れた。閃光は一瞬で、残るのは〝消える〟方だった。赤い点が一つ消える。二つ消える。三つ目が消える。
アスミの声が、同じ温度で続く。
《第二目標、消失確認。第三目標――消失確認。……作業、終了》
〝撃った〟ではない。〝倒した〟でもない。消失確認。作業終了。
セリの回線が被る。
《終わったな。帰るぞ》
その「帰る」が、励ましなのか、自分に言い聞かせているのか。区別がつかないのが、いちばん嫌だった。
ミュラーは横からその軌道を見ていた。戦術的には完璧だった。無駄がないほど、人間味が削られて見える。
(正確な兵器だな)
口には出さない。出した瞬間、戻れなくなる気がした。
ミュラーは、REDROSEの背中を見た。迷いのない軌道。余分な推進も、余分な言葉もない。
命令を理解し、目標を処理し、帰投する。正しい。あまりにも、正しい。
(レイナー)
胸の奥で、声にならない声が落ちる。
(そのまま行くな)
正しく飛べば、褒められる。速く終わらせれば、次も呼ばれる。迷わなければ、誰かが助かる。
その全部が、本当だから、人はそこへ自分を差し出してしまう。
(お前まで、あの手順の中に入るな)
ミュラーは奥歯を噛みしめた。
自分もそうだった。上手く飛べた。正しく撃った。誰かのためだと、言い聞かせた。
その先で、空から降りられなくなった。
(これ以上、自分を差し出すな)
REDROSEの誘導灯が、青白く機体の縁をなぞる。
(お前は、まだ人間だろ)
その言葉だけは、通信に乗せられなかった。
帰投の灯が点く。発進灯が次の順番を告げるのと同じ無機質さで、帰投が許可される。
格納庫のカタパルトが動き出す。発進の衝撃が来る前に、ミュラーは短く呟いた。
「……行くぞ」
返事は、通信の中で重なる。
いつもの戦争が、何事もなかったみたいに再開した。
アスミの機体が前へ進む。機体は滑らかだ。迷いがない。
なのに。ほんの一瞬だけ、背中が固く見えた。
固いのは装甲じゃない。そこに乗っている〝誰か〟の気配だ。ミュラーは目を細める。見逃すなと、自分に言い聞かせる。
*
艦内の医療区画の廊下で、サラとエリンが医療物資の確認をしていた。廊下の照明は白く、消毒液の匂いが薄く漂っている。
補給が必要な物資や、不足している薬の数をエリンが数えて、サラが端末に入力している。
通路の奥の方にある待合からTV画面の音が流れてくる。距離があるぶん、音がくぐもって届いた。
《特集はNTO統合軍、REDROSEの素顔――》
その声に、サラが端末から顔を上げると、画面の前にシュタイナーが立っているのが見えた。
画面の映像は見えないが、NTO広告用のアスミの特集が流れているのであろう事は分かった。
「彼は、NTOも戦争も関係なく、アスミちゃんを心配してる一人ね」
エリンが薬の箱の蓋を開けながら言った。サラはエリンを見てから、またシュタイナーに顔を向ける。
遠くから見たシュタイナーの表情はよく読み取れはしない。けれど、その表情はサラには覚えがあった。
ミュラーがヴィーラに乗れなくなっていた頃、隣でただ見ていることしかできなかった、あの時の自分と同じ顔をしている。
「ただ見ているだけで、何もできない時って辛いですよね。辛いのは自分ではないはずなのに」
サラの言葉に、エリンもシュタイナーを見る。
「……そうね」
画面越しに映るアスミは、無数の光を浴びながら微笑んでいる。
NTOの象徴。赤く光るヴィーラ、オルディア人の高適合者。戦果を上げる英雄。
映画の一場面のように、北方基地での映像が編集されて流されている。
雪原に咲く、赤い薔薇。REDROSE。
シュタイナーは、画面に映るアスミの眼差しを、目を逸らさずに真っ直ぐに見つめていた。
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