Sky92-帰る場所-
格納庫のシャッターが震えるような音を立てて開いた。
冷却剤の白い霧が、床すれすれに流れ込んでくる。その霧の奥で、さっきまで戦闘管制が吐き出していた音声ログの残響が、まだ耳の奥に貼りついていた。『敵部隊、撤退確認。帰投を許可する。救護班、待機――』その向こうから、焦げた匂いと、金属のきしむような音と一緒に、一機のSKYが滑り込んできた。
白銀の機体が、軌条の上をきちんとした角度で進んでくる。装甲の縁は焼け、関節の一部が黒く煤けている。損傷の見え方だけで、どれだけ近い距離で押し合ったかが分かった。脚が落ち、ロックが掛かる。駆動音が順に落ちていって、最後に残るのはファンが回る低い唸りだけだった。
少し離れた別レーンでは、回収班がレッドローズの損傷機を引いていく。担架が走り、救護の呼び声が短く交差した。それでも、格納庫の視線は――今ここに戻った一機へ吸い寄せられていた。
ノーザン・クロスの整備クルーたちが、誰からともなく手を止めた。
「……帰ってきた」
誰かが小さくつぶやく。
サラは、格納庫の入口近くに立っていた。救護用ジャケットの前をきちんと閉じたまま、両手だけはぎゅっと握りしめている。
さっきまで、医務室で負傷者の受け入れの指示を出していた。それを他のスタッフに託してここに来たのは、ミュラーが「戻ってくる」と言ってから、ずっと胸の中で凍ったままになっていたものを、ようやく確かめられる気がしたからだ。
ハッチが開く音がした。
白い霧の中、パイロットスーツの黒が浮かび上がる。ミュラーが、いつも通りの無駄のない動きでコクピットから立ち上がった。ヘルメットを片手に抱え、梯子を下りる。その足取りは、戦闘明けにしては驚くほどまっすぐだった。
ちゃんと、歩いてる。
サラの喉の奥で、何かがふっとほどける。視界がじんわり滲んでいくのを、彼女は瞬きで誤魔化そうとした。だが、もう涙は止められなかった。
床にブーツが降りる音が、格納庫に乾いて響く。整備班の誰かが、工具を落としかけて慌てて拾った。
ミュラーは、周囲の視線を一度も拾わないまま、まっすぐ前を見る。その先に――サラがいた。涙をこぼしながら、逃げも隠れもしない目で、まっすぐこちらを見ている。
ほんの一瞬、二人の間の空気が止まった。その瞬間だけ、格納庫の喧騒が遠のいて、ファンの低い唸りと、どこかで鳴った金属の乾いた音だけが響いていた。
ラナ艦長が、少し離れたところで腕を組んだまま、何も言わずに様子を見ている。ガナシュ副長は隣で、ふっと目元だけを和らげた。
ミュラーは、歩き出した。
一歩、二歩。ヘルメットを持っていない方の手が、わずかに力んでいるのが近くで見ると分かる。
サラの頬を、透明な筋が伝って落ちた。
「……ミュラー」
名前を呼ぶ声は、震えているのに、真っ直ぐだった。
ミュラーは、それに返事をしなかった。
代わりに、目の前まで来て、躊躇いもなく彼女を両腕で抱きしめた。救護ジャケットごと、細い肩を胸元に引き寄せる。
乾いた油と金属の匂いと、サラの髪の匂いが、狭い距離の中で混ざった。ミュラーは、彼女の背中に回した腕に、ゆっくりと力をこめた。
「……待たせた」
それだけだった。
格納庫のあちこちで、すん、と誰かが鼻を鳴らす音がした。
「……ガナシュ」
ラナが小声で呼ぶ。
「戦闘記録のところに“特記事項”で残しておきましょう」
「何を書くつもりですか」
「“白銀の獅子、人前で人を抱きしめる。艦内騒然”」
ガナシュは思わず吹き出し、すぐ咳払いで誤魔化した。その笑い声が、小さく格納庫に広がる。
そして、またミュラーに目を向ける。
(ミュラー、待ってたぞ)
サラの肩が、ミュラーの胸の中で小さく震えていた。泣き止もうとして、うまくいかない震えだ。救護ジャケット越しに伝わる体温が、細くて、軽い。
ミュラーは抱いたまま、背中に回した腕へもう一度だけ、ゆっくり力をこめた。強くはしない。逃がさない程度。
「……もう、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるみたいな声になった。
サラは返事をしない。代わりに、喉の奥で息が詰まる音がして、肩が一度だけ跳ねた。それでも顔は上げない。上げたら崩れると分かっている顔だった。
その背後で、格納庫の空気が「戦闘後」から「作業」へ切り替わっていく。工具の金属音が戻る。カチャ、と乾いた音。トルクレンチが回る短い唸り。誰かが落としかけた部品を受け止める指の音。低い換気ファンが、霧を押し流していく。
シャッターが閉まる重い音が、遠くでゆっくり響いた。白い霧は残ったまま、床すれすれに薄く流れている。その霧の向こうで、担架の車輪が走る音が近づいてきて、横切った。
「搬送、右! 酸素、先!」
救護班の号令が短い。感情が入る余地のない声だ。担架の上の誰かが呻く。すぐ、別の誰かが「大丈夫、大丈夫」と言っている。大丈夫ではないのに言う声だった。
サラの髪が、ミュラーの胸元で少し揺れた。息を整えようとしている。
ミュラーは、彼女の背中をぽん、と一度だけ叩いた。慰めの形をした合図だった。
「……戻れ。仕事に」
サラがようやく顔を上げる。目の縁が赤いのに、視線だけは逃げない。
「……うん」
声がかすれていた。彼女は頷いて、袖で頬の涙を乱暴に拭った。すぐにそれを恥じるみたいに、ジャケットの前をきっちり整える。そこへ、ラナ艦長が近づいてきた。腕は組んだまま。けれど、目はちゃんと二人を見ている。
「……二人とも」
ラナの声は低い。優しい言葉は言わない。その代わり、現実を渡す。
「救護とログ整理が詰まってる。ミュラー、動ける?」
ミュラーは一瞬だけサラを見る。サラは小さく顎を引いた。行け、という合図だった。
「……ああ」
ミュラーは答えて、最後にもう一度だけサラの肩に手を置いた。軽い重さ。そこにいる証明。
サラは、その手の温度を目で追ったあと、唇を噛んで言った。
「……行って」
短い命令みたいに言って、背を向けた。泣いた顔のまま仕事に戻る背中だった。
ミュラーはヘルメットを脇に抱え直し、霧の中を歩き出した。
戦闘が終わったんじゃない。
――処理が始まった。足の裏から、そう伝わってきた。
医務区画の手前は、いつもより照明が白かった。白すぎて、影が薄い。消毒の匂いが鼻の奥に刺さる。
廊下の角から覗くだけで、混み具合が分かる。ベッドの数が足りない。ストレッチャーが壁際に並び、座れない患者が床に腰を下ろしている。スタッフの歩幅が速すぎて、止まるとぶつかる速度だった。
「次、外傷優先! 出血量、二以上は先!」
「鎮痛剤、残り三十本! ――半量運用に切り替え!」
「医務班、ベッド追加! 仮設、廊下に出す!」
数字が飛ぶ。命を数字にしないと回らない現場の声だった。
ミュラーは廊下の壁に体を寄せ、通り道を空けた。担架が二つ続けて走り抜ける。その間に、救護スタッフが次の指示を怒鳴り返す。扉の向こうでは、サラの声が聞こえた。怒鳴ってはいない。けれど切れている。
「搬送順、変えないで。今、変えたら混乱するわ」静かな声なのに、押し返せない強さがある。
ミュラーは立ち止まった。声のするほうへ一歩踏み出しかけて、やめた。行って何を言う。ここでは、抱きしめるより順番だった。
代わりに、扉越しに一言だけ投げた。
「……無理すんなよ」
返事はすぐには返ってこなかった。少し遅れて、サラの短い声が返る。
「してない」
してる、と分かる声だった。ミュラーはそれ以上言わず、踵を返した。
ブリッジ側へ向かう通路は、戦闘のあとの匂いがまだ残っていた。焦げた金属、冷却剤、汗、消毒液。そのどれもが艦の中で混ざり合い、どこへ行っても「まだ終わっていない」と告げてくる。
管制区画の手前では、若い士官たちが端末を抱えたまま走り回っていた。混線した通信ログ、損傷報告、救護班への引き継ぎ、機体の再整備申請。全部が同時に押し寄せているらしい。
「回線、被ってます! 優先度上げて!」
「ログ、未整理が二百八十件! 戦闘管制の主系列から先に!」
「損傷レポート、整備班に直送しろ! 紙に落とすな、時間がない!」
ミュラーはブリッジの手前で呼び止められた。管制担当の若い士官が、目の下に濃い影を作ったまま端末を抱えている。
「ミュラー中尉、さっきの戦闘ログ、確認サインを――」
言いかけた声を聞き流しかけて、ミュラーは端末の画面に視線を落とした。分類タグが、画面の端に並んでいる。戦果、損傷、回収、救護。その中にひとつだけ、目を止める文字列があった。
――拘束ワイヤ/捕獲プロトコル。
ミュラーの目が止まる。
帝国がREDROSEを狙っていること自体は、もう分かっていた。リーサの解読でも、ハイルトンの口からも、撃墜ではなく捕獲だと聞いている。だが、画面に出ているこれは意図の説明ではなかった。実際に戦場で使われた装備と手順の記録だった。
撃ち落とすのではなく、逃げ道を削り、姿勢を奪い、拘束して持ち帰る。
あすみが口にした「連れていかれる怖さ」が、ここでようやく具体的な形を持つ。あれは思い込みでも、戦場の錯覚でもなかった。帝国側は最初から、古賀あすみを墜とす相手ではなく、生きたまま確保する対象として動いていたのだ。
ミュラーの喉の奥で、冷たいものが鳴った。
「……これ、抽出できるか」
若い士官は一瞬きょとんとしてから、慌てて画面を見直した。
「はい。管制ログの主系列と敵装備反応の照合で、ある程度は。まだ荒いですが、残せます」
「消すな。別タグで残せ」
「は、はい」
士官が頷いた、その直後だった。背後から別の声が飛んでくる。
「ミュラー中尉! 医務区画、搬送の人手が足りません!」
ミュラーは画面から目を離さなかった。離したくなかった。今見ないと、また見落とす。戦闘の最中に掴み切れなかったものが、ようやく形を持って目の前に出ている。
けれど、通路の向こうではストレッチャーの車輪が止まらない。救護班の号令が重なり、扉の開閉音がせわしなく続く。この艦では、違和感だけを追って立ち止まることが許されるほど、何かが終わってはいなかった。
ミュラーは歯を食いしばり、端末を持つ士官に短く言った。
「そのタグ、残せ。――あとで俺が見る」
士官は目を見開き、強く頷いた。
「はい!」
ミュラーは踵を返した。
足を速めながら、胸の奥を見る。熱はもうない。代わりに、冷たい現実が重い。
勝ったあとに残るのは、休息ではない。
処理と、見落としてはならない違和感だけだった。




