Sky90-白銀の獅子-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
格納庫の天井が割れる。
装甲板の継ぎ目が左右へ滑り、誘導灯の列が黒い外へ向かって伸びていった。
艦内に満ちていた金属音が一枚薄くなり、その向こうに宇宙が開く。
白い格納庫の光が、開いた天井の縁でくっきりと切れていた。その先には、光のない黒と、遠い星の粒だけが、機体の前方を埋めていた。
その瞬間だった。
喉の奥を押し上げていた吐き気が、ふっと退いた。汗の冷たさはまだ首筋に残っている。
だが、指先の震えは止まっていた。浅かった呼吸が、計器の点滅に合わせるように整っていく。視界の端で、警告灯、推進残量、味方識別、敵影の予測線が順に意味を取り戻す。
ミュラーは操縦桿に手を置いた。
革手袋の下で、指が自然に締まる。力を入れすぎない角度。機体の軸を乱さない圧。忘れていたはずの細かな手順が、思考より先に掌へ戻ってくる。キャノピー越しの星がわずかに傾き、機体が外へ出る姿勢を取った。
――ここだ。
短い息を吐く。
スラスターを開くと、機体は余計な遅れもなく応えた。ノーザンクロスの外縁を離れ、ミュラーは宙域へ出る。
背後の艦影が小さくなり、前方に味方の機影が散っていた。避難コリドーを守るための線。守りながら下がるしかない、歪んだ陣形だった。
その中に、一機。
機体の癖、噴射の間、回避の角度。訓練で何度も直した動きが、今は戦場の中心で削られている。
動きは崩れていない。けれど、逃げ場が狭い。アスミの機体は、落とされるのではなく、囲われていた。
ミュラーは一度だけ息を吸い、回線を開いた。心臓が、耳の奥で鈍く鳴っている。操縦桿を握る掌に、じわりと汗が滲んだ。
「全機へ」
声は大きくない。だが、管制の雑音の中でも、輪郭を失わなかった。
「ミュラー・エリス、これより介入する」
通信帯の向こうが、わずかに静まる。
誰かが言葉を失い、別の誰かが息を飲む気配だけが返ってきた。
ミュラーは、その沈黙に応じなかった。前方、斜め上から敵影が二つ落ちてくる。
撃墜を狙う弾ではなかった。相手の進路を少しずつ奪い、回避できる場所を限定し、最後に拘束するための射線だった。
その組み方が、異様に綺麗だった。
先頭機は出過ぎない。前へ出ないことで、むしろ全体の中心にいる。
低い位置についたもう一機は、最小限の射撃で味方の移動先だけを消していた。外れた弾まで、次の動きのための壁になっている。
ミュラーは言葉で状況をなぞらなかった。説明している間に、アスミの逃げ場がひとつ消える。
スラスターを一段切り替え、味方の陣形の外側へ滑った。敵が作っている捕獲の箱。その角に、自分の機体を差し込む。
味方の機影が揺れた。アスミの機体が、一瞬だけ姿勢を崩す。
そこへ、細い光が伸びる。ワイヤだった。
《拘束!》
管制の声がかすれる。
ワイヤは、ただ掠めるための角度ではなかった。接触すれば、姿勢を持っていかれる。次の回避が消え、その次には牽引される。
ミュラーは機体を入れた。敵機を狙わず、伸びたワイヤの根元だけを撃つ。短い射撃音が通信の奥で沈み、光の線が砕けた。散った粒子の流れを見て、ミュラーは次弾の位置を読む。断たれることまで織り込んだ仕掛けだ。
《……っ、助かった――!》
回線の向こうで、誰かが声を飲み込む。
その一拍のあと、別の声が、ほとんど独り言みたいに漏れた。
「戻ってきた。白銀の獅子が……」
敵の先頭機が、こちらを見た。
レーダー上では、ただ一点の向きが変わっただけだった。
だが、その直後に低い位置の機体が動き、ミュラーの逃げ場をひとつ削った。
視線を向けるだけで、僚機の動きまで変わる。その中心にいるのが、誰なのかはすぐに分かった。
「今だ。二番機、上へ」
名を呼ばない。番号も呼ばない。それでも、戦場の空気が命令の形を取る。セリの機体が滑り込んだ。速い。だが、敵の先頭機は揺れなかった。セリが逃げたい場所を先に潰す角度へ弾を置く。撃つというより、釘を打つ動きだった。
《……っ》
セリの息が詰まる音がする。
ミュラーは一瞬だけ、アスミの機影を見た。アスミの機体はまだ落ちていない。
機動も保っている。だが、背中が硬い。回避のたびに選択肢が減り、機体が自分の意思より狭い場所へ押し込まれていく。
ミュラーは、アスミの前に立ち続けることをやめた。そこを塞げば、敵は別の角度から箱を閉じる。
必要なのは盾ではない。箱そのものを歪ませることだった。
敵が中心に据えている先頭機。その居場所をずらす。
射撃。機体ではなく、推進の足場になる宙域へ向ける。微小デブリと妨害粒子が散り、綺麗すぎる連携に、ごく薄い濁りが走った。低い位置の敵機が、初めて余計な噴射をする。わずかな乱れだったが、それで十分だった。
ミュラーはその乱れへ機体を滑り込ませた。
「退避線、開ける。いま抜けろ」
アスミの機体が、開いた隙間へ入る。敵の先頭機が追った。
しかし、その距離を詰め切る前に、ミュラーの機体が進路の中央を塞いでいた。
ミュラーは敵影を見据えたまま、低く言った。
「……捕まえる相手を、間違えるな」
その言葉が誰に向いたものか、通信を聞いた者には分からなかっただろう。敵に向けた挑発にも聞こえる。
味方への牽制にも聞こえる。けれど、ミュラー自身は分かっていた。
これは、自分が再びこの場所へ立つための線引きだった。
敵の先頭機が、ミュラーを取る角度へ入る。戦場の空気がさらに硬くなった。
*
――北方第七基地。作戦室。
モニターの青白い光が、壁と人の横顔を照らしていた。加速度、姿勢制御、射線選択。戦闘ログが無機質な数字となって走り続ける。
ハイルトンは椅子に深く座ったまま、画面を見ていた。表情は動かない。ただ、口元だけが呆れたように歪む。
「あいつにはブランクって言葉はねえのかよ」
隣のリーサは、端末の縁に指をかけたまま瞬きを忘れていた。画面に映る機動を追い、そこにある技量と、誰を守るためにその技量が使われているのかを同時に見ている。
「これが、白銀の獅子。すごい」
小さな声だった。感嘆だけでは、そこまで掠れない。
*
――宙域。
ミュラーは敵の先頭機と正面で噛み合った。人間離れした連携の精度が、操縦桿を握る指先にまで重くのしかかる。美しさと確実さが、同じ形をして迫ってくる。
それでも、機体は乱れなかった。ミュラーは受け止めるのではなく、わずかに前へ出る。アスミの機体が距離を取る。守る線が、一段だけ広がった。
ミュラーは、その広がった一段を使う。ほんの少し前なら、届かなかった場所。今なら、届く場所。
「……次で、形を変える」
呟きは独り言だった。けれど、その声は戦場の中心に落ちた。
敵の先頭機が、初めてミュラーに〝答えるように〟動いた。
正面で噛み合った瞬間、宇宙の黒が線に変わった。
推進の火線、射線、回避の軌跡。散らばっていた光の点が、一本ずつ意味を持って結ばれていく。
敵の先頭機は無駄を出さない。前へ出過ぎず、弾をばら撒かず、それでもこちらの次の進路だけを確実に狭めていた。
ミュラーは息も乱さない。操縦桿に余計な力を入れず、機体の傾きと敵の射線から、先に目的を読む。
捕まえる。落とさない。そのために、こちらの足を切る。
機体を半回頭させ、あえて逃げる角度を作った。逃げ道ができた瞬間、敵の先頭機が追える距離に入る。
追えるのではない。
追わせた。
ミュラーは逆噴射を一瞬だけ噛ませた。追いの慣性が、敵の軌道を半拍押し出す。そこへ射線を落とす。
撃ち込む場所は機体ではない。推進の癖の根。姿勢制御の要。
弾が掠め、敵機の姿勢が一度だけ崩れた。崩れても墜ちない。だが、次に使える選択肢がひとつ消える。
効いている。
NTOの回線がわずかにざわついた。誰も大声は出さない。ただ、呼吸の音だけが変わる。
《何だよあれ。撃ち方が、違う……》
誰かの独り言が漏れた。
前だけを見て、さらに形を変えた。
敵のもう一機――拘束ワイヤの機影が、アスミの背後へ滑る。
浅い射線。短い射撃。逃げ道の縁だけが削られていく。アスミの機体は狭い場所に押し込まれていた。
狭いまま飛ぶ背中は、機体越しでも、訓練場で何度も見た教え子の背中と重なった。
ミュラーは名を呼びそうになり、喉の奥で止めた。今呼べば、あの背中が振り向く。振り向いた瞬間に、捕まる。だから、別の言葉で繋いだ。
「二番機。今の角度、捨てろ。浅い線に乗るな」
短い。命令に近い声だった。セリの機体が反射で角度を変える。
《了解。……教官、相変わらず口が悪い》
セリの声は軽い。
*
近傍宙域、帝国側。
コクピットの計器の光が、ノアの横顔を青白く照らしていた。シートに預けた背は動かない。
ノアは、視線だけを変えた。焦りはない。逃げ道を潰す箱が崩れた。崩したのはREDROSEではない。
「……来たな」
ノアの声は低い。
戦闘ログでは、何度も見ていた。
白銀の獅子。
オルテアの記録映像に残る軌跡。旧式の戦場で、ひとりだけ別の線を描いていた機体。
射線の置き方、間合いの詰め方、敵の足を切るために使う余白。それらは、資料としてなら頭に入っている。
だが、画面の中の過去と、いま目の前にいるものは違った。
撃墜を捨て、盾になる機体。それでも動きは鈍らず、守るために入ったはずの機体が、戦場の中心を奪い返している。
ノアは、REDROSEの機影を見なかった。ミュラーの白い機体だけを追っていた。
「あれが白銀の獅子。戦闘ログで見た通り」
レインが言った。
ノアは短く返す。
「違う」
レインの機体が、わずかに角度を変える。ノアは続けた。
「ログでは足りない。本物は、もっと厄介だ」
声に熱はない。けれど、その冷たさの奥で、獲物を定めるような集中がひとつ沈んだ。
狩りたい。
ノアは、その感情を言葉にはしなかった。
ただ、戦術画面の中心をREDROSEから白い機影へ移す。
「レイン。REDROSEは任せる」
ノアが言った。
レインは即答する。
「承知しました……逃がしません」
ノアは続けた。
「私は、あの獅子を狩る」
狩る。撃墜ではない。盾を剥がす。戦場の中心から引きずり下ろす。
盾が剥がれれば、避難艇は露出する。露出すれば、戦場の形は帝国側に戻る。
モリーが短く確認した。
「狙いを変更。対象、白銀の獅子ですか?」
「そうだ」
ノアは淡々と、しかし迷いなく宣言した。
「REDROSEの捕獲は続行。だが、邪魔がいるなら先に排除する」
ノアの機体が前へ出る。出過ぎない。だが、周囲の機影がその動きに合わせて広がった。
先頭機の向きが変わるだけで、僚機の配置まで変わる。
その中心が、いまミュラーに向いた。
*
ノーザンクロス側、宙域。
ミュラーは、敵の先頭機の注意がこちらへ移ったことを、射線の組み替わりで知った。狙いが増える。逃げ道が削られる。それでも、機体の動きは鈍らない。狙いが自分に来るのは悪くなかった。
アスミが捕まらずに済む可能性が上がる。敵の先頭機が来る。来る前から、来た後の形まで作っている動きだった。ミュラーは、その出来上がった形を壊すために、最短の動きを選んだ。
正面で受けない。逃げない。斜めに落ちる。
推進を一段だけ切り替え、敵の射線の外側へ滑る。滑った先に敵の刃が来る。来る場所に、自分の刃を先に置く。
射撃は短い。短いのに、戦況が動いた。敵機の姿勢がまた僅かに崩れる。その分だけ、避難艇の前に一瞬の空白が生まれた。
《避難艇、抜けた!》
管制の声が走る。ミュラーは息を吐いた。吐いた瞬間、次が来た。敵の先頭機がさらに踏み込む。
さっきまでの精密な連携のまま、圧だけを一段上げてくる。ミュラーはその動きを見て、口元だけで笑った。
笑い声ではない。まだ足りない、と言う顔だった。
「――いいぞ」
誰にでもなく、宇宙に言う。
「来い。俺が相手だ」
回線の向こうで、アスミの機影が揺れる。拘束ワイヤの影が、その背後に張り付いている。
レインはアスミを狙っている。狙い続けている。執拗に、浅く削って、最後に繋ぐために。
ミュラーはそれを横目で捉え、同時に先頭機を離さなかった。
アスミの退避線、避難艇の進路、敵の中心。
三つの線を同時に見続けるだけで、目の奥が鈍く痛んだ。視野を絞らず、広いまま保つのは、負荷のかかる作業だった。
三つの線を視界の中に置いたまま、ミュラーは機体をさらに前へ出す。
昔の自分なら、どれかを切っていた。戦果のために、正しそうな順番を選んでいた。
今は、その順番を他人に預けない。
敵の先頭機が、それに応えるように角度を変える。ふたつの影が、戦場の中心で重なった。
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