Sky89-掌の中-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
警報が鳴ったのは、その直後だった。
艦の奥を走る低い振動に、短い一音が重なった。誰かが息を止め、誰かが椅子から半身を浮かせる。廊下の照明が白から警戒色へわずかに変わり、壁際の誘導灯が順番に点いていく。短い一音。続けて、艦内アナウンスが落ち着いた声で状況を告げる。
《ブリッジより通達。全区画、移動を停止。係員の指示に従え》
ミュラーは足を止め、天井のスピーカーを見上げた。次の一文が来る前に、もう分かってしまう。
《外縁宙域に未確認機影。識別照合中》
識別が遅れる種類の相手
――近い
足元の床が、艦の減速に合わせてかすかに沈む。非常隔壁の手前で、係員が避難誘導用の端末を開き、通路の先では候補生らしい影が一瞬だけ立ち止まった。誰も大声を出さない。その静けさの方が、状況の悪さを告げていた。
ブリッジに入ると、照明がさらに白く感じた。モニターが複数立ち上がり、航宙図に赤い点が増えていく。窓のない部屋なのに、外の黒が壁一面に流れ込んでくるようだった。
「距離、詰めてきます。速度一定。編隊です」
オペレーターが報告する。
ガナシュ副艦長が隣で頷き、淡々と次の指示を出す。
「退避ルート、最終確認。医務、発電、空調、優先順位を出せ」
ラナは正面モニターを見たまま、短く言った。
「回線を繋いで」
衛星回線が立ち上がる。呼び出し音が一度。すぐに映像が切り替わった。
モニターに、ハイルトンの顔だけが映る。背景は北方第七基地の作戦室。情報が整理された机と、動いている人影。
現場じゃないのに、現場より硬い空気だ。
《聞こえるか、ノーザンクロス》
「聞こえる。状況は」
ラナの問いに、ハイルトンは即答しない。先に、確定情報だけを吐き出す。
《ブラック・ランスが、お前たちの近傍宙域に出た。退避ルートを優先しろ。前に出すな》
ミュラーはモニターの端で拳を握り、ほどいた。爪の跡が手のひらに残る。
「了解」
ラナは即答した。迷いを見せない。見せると、艦内が崩れる。
その背後で、退避区画の表示が次々に黄色へ変わった。医務区画、機関部、生活区画。人がいる場所ほど、処理に時間がかかる。画面の数字は無機質なのに、その一つ一つに誰かの息遣いが乗っている。
だが、次の報告がそれを許さなかった。
「艦長!退避準備、間に合いません」
オペレーターの声が、少しだけ早い。
ラナは顎を引いた。
「時間を稼ぐ必要がある」
それを口にした瞬間、ブリッジの空気が一段だけ沈んだ。
防衛戦。避難を完了させるまでの数十分を、誰かが外で引き受ける。
ラナの視線がミュラーに来る。来て、すぐ外れる。
艦長は頼まない。頼むのは「兵器に戻れ」と言うのに等しい。彼女はそれを言わない人だ。
代わりに、ガナシュが必要な事実だけを確認する。
「防衛に出す機体の編成は?」
「現行稼働は――REDROSE・Alpha2・SO1・SO2・SO3の五機、整備中の予備は間に合わない」
「なら、時間稼ぎはその五つでやる。艦の近傍から出すな。引き離すな」
ハイルトンの映像が、低く割り込んだ。
《……誰一人奪わせるなよ》
ラナが一拍置いて返す。
「当たり前でしょ」
ハイルトンの表情がわずかに硬くなる。
《稼ぐなら、最短で稼げ。無理を延長するな》
ラナは頷き、回線に告げた。
「こちらで判断する。退避ルートは維持する。......必ず生存者を残す」
通信が切れる。
一瞬だけ、回線の残響が白いノイズになってスピーカーに残った。それもすぐに消え、かわりに艦内各所から上がってくる報告音だけが重なっていく。誰かが椅子を引く音、端末を叩く音、遠くで閉まる隔壁の音。
ブリッジの空気が変わった。
ミュラーは息を吐き、ラナの横に立ったまま、正面モニターの赤点を見た。
赤点は増え続け、等間隔で並んでいる。統率のある編隊。遊びがない。
「......来るのは、あいつらですか」
口から出た声が、自分でも驚くほど低かった。
ラナは視線を動かさず答えた。
「情報通りよ。帝国の精鋭。皇太子の機体がある」
ミュラーは一歩、ブリッジの床を踏みしめた。気合じゃない。確認だ。自分の足がまだ床に乗っているか。
ガナシュが横から言う。
「ミュラー。艦内の避難統制に――」
「......俺も出る」
ミュラーの口が先に言った。言ったあとで、自分が何を言ったかを噛んだ。
ラナが、初めてミュラーを正面から見た。
「乗れるの」
「……乗る」
ミュラーはそう言って、言葉が足りないと分かって黙った。足りない言葉を足すと、揺れる。揺れた言葉は、もう要らない。
ラナが一行だけ返す。
「なら、帰る場所として出て。戻ってきて」
ミュラーは頷いた。その瞬間、格納庫から上がってくる足音が、ブリッジの通信に混ざった。出撃準備が始まっている。
ミュラーはブリッジを出た。廊下の途中、スザンナたちとすれ違う。
避難用のベルトを片手に握ったまま、彼女たちは壁際へ寄った。見上げるだけで、何も言わない。言う余裕がない。ミュラーは目を逸らさず、歩幅を落とさず、通り過ぎた。格納庫へ向かう。
ここで止まったら、次はもっと止まる。そういう確信だけが、足を動かした。
ブリッジの警報灯が、赤く一度だけ走った。
「接触予兆。近傍宙域、複数反応。――帝国側ヴィーラ、編隊」
オペレーターの声が硬い。情報が短いほど、悪い。
壁面スクリーンに、点が増える。距離が縮む速度が一定じゃない。減速していない。こちらの退避行動に合わせて、詰め方を変えている。
ラナ艦長は椅子から立たないまま、端末を一度だけ叩いた。
「退避ルートは継続」
返事が重なって返る。
「了解」
「医務、受け入れ増設に入ります」
ラナ艦長が、通路のほうへ視線だけを切った。
「……誰も奪わせない。絶対に」
その直後、回線が割り込んだ。
《ノーザンクロス。北方第七基地、ハイルトンだ》
モニターに映るのは顔だけだった。余計な背景も、余計な温度もない。
《退避ルートを優先しろ。艦を捨ててもいい。》
《数字だけ見れば前線投入が最適だ》
ラナ艦長は、視線を正面に戻したまま言った。
「分かってる。REDROSE発艦準備。時間を稼ぐ。――絶対に逃げ切って」
命令は短い。判断を長引かせない言い方だった。
ミュラーはブリッジ後方、壁際に立ってその一言を聞いた。喉の奥に、古い味が戻る。油と焦げ。あの日の騒音。机に置かれた報告書の「戦果」の順番。拳を握る。力の入れ方が分からないまま握る。
ラナ艦長は、ミュラーのほうを見ない。見ないまま言った。
「ミュラー、無理はしなくていい。いつでも出られる準備だけはしておいて」
それが、今できる最善の切り分けだった。
「......了解」
返事をしてから、ミュラーは自分の声が乾いていることに気づいた。
*
ブリーフィングルームの照明は白い。端末の待機光が小さく点滅している。壁際の換気口からは、格納庫側の冷えた空気がわずかに流れ込んでいた。空調の低い唸りだけが、沈黙の間を埋めている。
アスミが最前列に座っていた。背筋がまっすぐで、手元の端末にはすでに機体のチェックリストが開かれている。
セリは椅子に腰を落とすと同時に、前髪をかき上げた。
「相手は帝国ロイヤル部隊だ。いつも以上に注意しろ」
アスミがセリを見て答える。
「……うん。分かった」
ラナが入室する。
「状況は一つ。退避ルートが確保できるまで、ここを持たせる」
壁面に帝国編隊の推定図が出る。
「敵は艦を落とすより、REDROSEを獲りに来る可能性が高い」
アスミの指が一瞬だけ止まった。止まったのに、顔は動かない。
ラナが続ける。
「REDROSEは、後方支援にまわって。撃墜は優先しない。近づかせない」
セリが短く言う。
「了解」
アスミも続けて言う。
「了解です」
ミュラーは部屋の端、壁際に立っていた。口を挟む権利はある。けれど、今ここで言葉を増やしたら出撃前の集中を壊す。
アスミが視線だけを上げた。ミュラーを見ているようで、見ていない。
前線の情報を通してしか世界を捉えていない目だった。
ミュラーの喉が鳴る。
「......レイナー」
呼んでしまった。
アスミは小さく頷いた。
「はい、ミュラー教官」
敬語が残っている。そこだけが救いで、胸が重くなる。
ミュラーは続けられなかった。今の自分の言葉は、たぶん役に立たない。
ラナが結ぶ。
「発艦。時間を稼ぐ」
*
格納庫の気圧が調整され、カタパルトのランプが点る。床面の誘導灯が一本の線になり、機体の足元を艦外へ向けて導いていた。整備員たちは声を張らず、手振りと短い合図だけで最後の安全確認を終えていく。
ヴィーラが滑るように前へ出た。金属音が一つ、固定具が外れる音が一つ。
機体の駆動音がそろって立ち上がる。
《REDROSE、発艦》
《アルファ2、続く》
《SO2、発艦》
《SO3、出る》
アスミの機体識別が、HUDに上がる。
ミュラーはパイロットスーツに着替え、格納庫の横のモニターで見ていた。
外の宙域が、黒く広い。ノーザンクロスの艦体灯が、その黒の端に細い白線を引いている。そこに、帝国の編隊が入ってくる。
光の点ではなく、形として見える距離だった。散らばっているようで、どの機も互いの死角を補っている。
まず速度が違う。到達までの計算が最初から揃っている。
《接敵まで二十。――十九、十八......》
管制が数える声が、いつもより乾いていた。次の瞬間、通信がざらついた。
《……ジャミング?》
《いや、波形が違う――》
REDROSEの回線が、狭くなる。聞こえる音だけが残って、細かい情報が削れる。
(会話をさせないつもりか)
ミュラーの胃が縮む。
視界の先、帝国機が見えた。
先頭――黒い機体の左肩に金のラインが光で照らされている。黒槍を象った紋章の中央に、金の皇紋が重ねられていた。
ノア・オルディア、皇太子の機体だ。
横に、レイン。
二人の並びが崩れないまま、こちらの進路を読んでいる。
セリの声が割り込んだ。
《......来るぞ。全機、散るな。アスミ、前に出るなよ》
言い方が早い。いつもより余裕がないのが分かる。
火線が走った。黒い宙域に、細い光が何本も引かれる。爆ぜるための線ではなく、進路を切るための線だった。
撃ち合いではない。押さえ込むための射線だ。
逃げ道を細かく切る。こちらが「避けた先」に、次の弾が置かれている。
アスミが機体を振る。旋回は速い。反応も速い。帝国側がそこへ逃げるしかないように火線を切っている。
レインの機体が横から入った。速度差で一気に距離を詰め、アスミの進路に先回りする。
撃たない代わりに、機体の向きだけで「ここは通るな」と言っているようだった。
《......近い!》
SO1が叫ぶ。
ノアがその隙を使う。ノアは撃つ。撃ち方が短い。必要な分だけ撃つ。無駄弾がない。
こちらのシールドの弱い箇所を狙って、じわじわ削る。
《SO1、シールド残量――》
管制の報告が途中で切れた。ジャミングがさらに強くなった。
アスミは回避を続けながら、敵の動きを見る。
見るために速度を落とす。落とした瞬間、ノアの射線が重なる。
その〝重なり方〟が、嫌だった。撃墜するなら、もっと荒い。もっと雑に削れる。
なのにノアは、落とし切らない距離で、逃げ道だけを削る。
セリが、歯を噛みしめた声で言った。
《......撃ち落としじゃない。お前を集中的に狙ってきてる》
一瞬、回線が静かになる。
誰もが、その言葉を飲み込む時間だけ空白ができた。
ミュラーはモニターの数値を見て、背中が冷えた。
(レイナーよりも速い。経験値が違う。このままだと、捕まる)
アスミの機体が姿勢を変える。避難路側へ寄らない。寄らないまま、敵を引きつけるルートを選ぶ。
レインがさらに踏み込んだ。機体同士の距離が詰まり、回避の余地が減る。
レインはアスミの反応を一つ見て、次の位置取りを変える。迷いがないのに、感情で突っ込んでいない。冷たい強さだ。
《アスミ、押されてる!上!》
セリが叫ぶ。
上は、すでにノアが塞いでいる。塞いでいることが、アスミには見えてしまう。
HUDに警告が増える。シールド低下。推力偏差。操舵応答遅延――相手の妨害が効いている。
アスミの呼吸が一度だけ浅くしなった。戦闘の恐怖じゃない。
初めて、自分が「持っていかれる」恐怖を、感じていた。
あの機体、上の機体も。動きを狭めてきてる。逃げられない。
アスミの背筋に冷たいものが走った。
《……捕まる》
声が小さい。小さいのに、管制に届いた。
ミュラーの指先がヘルメットの縁を掴む。掴んだまま、動けない。
ラナ艦長の声が入る。短い指示だけ。
《REDROSE、回避優先。距離を取れ。》
アスミは、返事を一拍遅らせて言った。
《......了解》
その瞬間、ノアの機体がさらに詰めてきた。距離が、もう一段、削られる。
ミュラーの視界が狭くなる。
(――間に合え)
口に出せない願いが、喉の奥で固まったまま残った
*
近傍宙域。帝国側の編隊は、無駄がない。
黒槍の母艦を背に、機体群が影から剥がれる。推進光だけが短く尾を引き、すぐにまた闇へ馴染んだ。
推進の火線は揃いすぎず、散りすぎず、艦隊の影から滑るように出た。
誰も叫ばない。
誰も慌てない。
整備の手つきが静かだったのと同じで、ここでも言葉は最短で済む。
ノアの機は先頭に出すぎない。編隊の形がノアを中心に整う。
レインは一段低い位置で、アスミの逃げ道を塞ぐ角度だけを取り続けていた。
射線は浅い。撃つ回数も少ない。
――その代わり、撃つ場所が正確すぎる。
「目標、ノーザンクロス。回頭開始。退避コリドーを切る」
ノアの声は平坦だった。感情がないのではなく、作戦と同じ温度で整理されている。
「REDROSEを取る。機体を壊しすぎるな。運べなくなる」
撃て、ではなく、どう終わらせるかの形。
ジョシュアが軽く口を挟む。
「逃げる気なら、逃げさせてから取ったほうが⸺」
「逃げさせない」
ノアが言い切る。
レインが通信を切り替え、編隊全体へ流す。
「全機、射線を浅く。落とすな。⸺繋ぐ」
帝国側の機影が、ノーザンクロスの方角へ滑る。距離は縮む。
ノアは淡々と告げた
「難しい相手ではない、終わらせるぞ」
*
ノーザンクロス側、宙域。
視界の端で、退避コリドーを示す青いラインが揺れている。守るべき線はそこにあるのに、帝国側の機影はその線へ向かう途中の空間を、先に塞いでいた。
回線が荒れ、音が欠ける。それでも命令だけは残る。
警報は機体の中まで追いかけてきて、ヘルメットの内側で薄く鳴った。
その合間に、別系統の声が一瞬だけ割り込んだ。
雑音に潰れたのに、名前だけが妙に残る。
《ノア、回頭開始。退避コリドーを切る》
《レイン、射線を浅く。落とすな。繋げ》
次の瞬間には、またこちらの回線が上書きした。
《REDROSE、退避コリドーへ寄せろ!時間を作る!》
ラナの声。
アスミは返した。返事はできる。手も動く。なのに――機体が逃げ場へ届かない。
帝国側のヴィーラが〝そこ〟にいる。
いま自分が行きたい角度に、先に置かれている。
《......聞いたか。今の、皇太子機がいる》
セリの声が短い。
《聞いた》
アスミはHUDの中心を見た。速度差が、最初から勝負になっていない。
追い付かれているのではなく、追い付かせられている。
相手が速いのではなく、相手が「ここに来い」と言っている。
《管制、敵、落とす撃ち方じゃない!》
SO1に搭乗している、リックの報告が、途切れがちになる。
《......削りが浅い!シールドだけ削って、誘導してる!》
背中が冷えた。撃墜じゃない。誘導。誘導の先がある。
横にレインが入った。距離が近い。急所を外して撃ってくる。姿勢制御の余裕を奪う撃ち方。薄い刃で、逃げ道の縁だけを削る。
警告音が鳴る。短く、何度も。
アスミの指が速くなる。速くなるほど、視界が狭くなる。
《アスミ。呼吸、整えろ。手が速くなると読まれる》
セリが言う。
アスミは息を吸った。吸ったつもりなのに、胸まで入らない。
指が滑る。握り直す。自分の手が震えているのが分かる。
怖い。
《聞け》
セリの声が低くなる。
《……あいつら、囲い込んでお前を捕まえるつもりだ》
その一言で、アスミの中の何かが固まった。
固まったまま、目の前は動く。動きは止まらないのに、心だけが遅れる。
レインの機体の腹が開いた。
装甲の継ぎ目がわずかにずれ、内部の射出機構が覗く。銃口のような荒さはない。もっと作業的で、もっと冷たい仕組みだった。
光でも弾でもない、細い線が伸びる。
《拘束ワイヤ!》
管制が叫ぶ。
アスミは反射で機体を振った。ワイヤが掠めて流れる。掠めただけなのに、吐き気が来た。
身体が「触れた」と認識する。
触れてないのに。
(当たってたら、終わってた)
次が来る。二本。逃げ道を削る角度。
避けた先に最初からノアが居る。
綺麗すぎる。ミスを起こさせようとしている。
《俺があいつを押さえる!あの拘束ワイヤのやつから離れろ!》
セリが割って入る。
ノアは動じない。セリの回避を一段だけ遅らせる場所へ釘を打つ。
《......っ》
セリが息を呑む音。
アスミは、その音で身体が硬くなった。自分が捕まるより、セリが崩れるほうが怖い。
《セリ!》
《擦っただけだ。いいか、あのワイヤーに捕まるな》
セリが言い切る。
《......本当にお前を〝持っていく〟気だ》
喉が詰まる。言葉が出ない。出したら崩れる。
怖い、と言ってしまったら、本当に怖くなって、動けなくなる気がした。
《退避コリドーまで七分!七分稼げ!》
管制の声が、数値だけを落とす。
七分。長い。帝国側の動きは短い。短い動きで、こちらの時間を削ってくる。
アスミは唇を噛んだ。痛みで、辛うじて現実に戻る。
《......やる》
自分に言い聞かせるみたいに呟いた瞬間、レインのワイヤがまた伸びた。
避ける。避けた先にノア。ノアを避けた先にまたレイン。
逃げ道が、潰されていく。
守るために動いているはずなのに、動くほど“捕まる形”へ寄せられていく。
アスミは、はっきり思った。
どうしよう。私、怖い。
ヴィーラで闘い始めてから、誰かに怖いなんて思ったの、初めて。
*
控え室の扉の前で、ミュラーは立っていた。
扉の向こうでは、格納庫へ続く通路を人が走っている。靴音が近づき、離れ、警報の低い音に溶ける。壁の表示灯は発進準備を示しているのに、ここだけが一拍遅れた場所みたいに静かだった。
出るつもりだった。格納庫へ行く。乗る。時間を稼ぐ。
順番まで頭に入っている。手順は知っている。
......知っているのに、足が動かない。ヘルメットを握った手が、勝手に震える。指先が冷たくなる。
喉の奥が上がってきて、吐き気が込み上げた。
「......っ」
息を吸おうとして、吸えない。肩だけが上下する。
警報は遠い。遠いのに、耳の奥に刺さる。刺さって、昔の音とつながりそうになる。
ミュラーは壁に手をついて、呼吸を整えようとした。
体が言うことを聞かない。出る、と決めたのは頭なのに、止まっているのは身体だ。
その時、廊下を走る靴音が近づいた。
勢いよく止まって、息が切れたまま、サラの声が入る。
「ミュラー......」
サラが扉の隙間から顔を出す。
廊下の赤い警報灯が、彼女の髪を一瞬だけ暗く染めた。制服の襟は少し曲がり、肩で息をしている。ここまで走ってきたことが、乱れた前髪と頬の熱だけで分かった。
髪が乱れている。頬が赤い。息が整っていない。
それでも言葉は切らない。
「出て。お願い、今、アスミさんが......」
ミュラーは返事をしようとして、声が出なかった。吐き気を飲み込んで、ようやく喉を動かす。
「......サラ」
足が出ない。
サラはミュラーから目を話さない。足の微かな震えを見て、一歩だけ近づく。
そして、息を飲み込んでから言った。
「お父様が死んだのも、あの子が死んだのも、貴方のせいじゃない!」
息が切れたまま、言い切る。言い切ったあと、少しだけ間が空く。
ミュラーは視線を落とした。
サラが続ける。声が少しだけ震えた。
「でも、今行かなくて、もしアスミさんが死んだら......貴方なら助けられる。まだ間に合うわ!」
ミュラーは、サラを見る。
そして、ゆっくりと扉に向かって歩き出した。
ヘルメットを持っていない方の手で、サラの肩に触れた。
返事がすぐ出ない。出ない時間が、ふたりの間に残る。
ミュラーがサラの目を見据えた。
「......戻ってくる」
まだ吐き気は消えていない。震えも残っている。
それでも、言葉は切れない。
「必ず」
サラもミュラーを真っ直ぐ見た。
「......待ってる」
ミュラーは頷き返して扉へ向き直る。足が出た。たった一歩。次の一歩。
警報が続く。遠くで、何かの音だけが一定に響いている。
ミュラーはヘルメットを握り直し、格納庫へ向かった。格納庫へ向かう通路は、いつもより長く感じた。
避難誘導の矢印が床に流れ、反対方向へ急ぐ人影が何度も横を過ぎる。誰もミュラーを止めなかった。止めないことが、今この艦に残された信頼の形だった。
照明は白い。壁のパネルは整っている。なのに、床の下から伝わる振動だけが荒い。
戦闘警報が遠くで続いていて、艦のどこかで何かがぶつかる音が遅れて響く。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷却剤の匂い。油。金属。人の汗。整備灯の点滅。工具の乾いた音。
何より――発進準備の駆動音だけが、やけに大きい。
ミュラーは一歩、足を入れた。
視界の端で、整備員が走り、救護班が横切り、誰かが「通るぞ」と短く叫ぶ。
返事は即座。全員が、余計な言葉を捨てて動いている。
その中心に、自分の機体がある。
白い機体は、整備灯を受けて静かに立っていた。胸部の装甲には新しい塗膜の艶が残り、関節部の奥だけが古い金属の色を覗かせている。綺麗に直されたものほど、壊れた記憶を隠しきれない。
白く塗り替えられた外装の下に、昔の癖が残っている。触れれば分かる。触れなくても分かる。
あの時と同じ形、あの時と同じ高さ。
ミュラーは、ヘルメットを握り直した。
掌の中で硬い感触がずれる。指がまだ冷たい。
「ミュラー」
背後からガナシュが声をかけた。
「搭乗許可は出ている。出撃は単機。……無理するなよ」
「......分かってる」
分かっている。頭では。身体が、今から何をするのかも、手順も、全部知っている。
機体へ続く昇降階段の一段目が、やけに高い。
いや、同じだ。ずっと同じ。自分のほうが縮んだみたいに感じるだけだ。
ミュラーは、息を吸った。
胸まで入ったかどうか分からない。吸ったはずなのに、喉の奥が熱い。
視界の裏側が、瞬きみたいに切り替わる。
「......っ」
ミュラーは首を振った。誰にも見えない程度に。見えない程度に、必死に。
階段の手すりに指をかける。
金属が冷たい。冷たすぎて、現実に引き戻される。
一段。
足が乗った瞬間、膝が小さく揺れた。
揺れたのに、倒れない。倒れるわけがない。ここで倒れるほど、今は暇じゃない。
二段。三段。
上がるたびに、記憶が擦れて戻ってくる。
コクピット縁へ手をかける。
乗り込む動作は、覚えている。目を閉じてもできるはずの動き。
なのに乗り込んだ瞬間、空間が狭くなる。
計器の光が浮き、外の喧騒が一枚隔てられて遠くなる。
ミュラーはシートに深く沈んだ。キャノピーが閉まる。
密閉音が短く鳴って、次にロックの硬い音。その瞬間、呼吸が乱れた。
胸だけが速く上下して、喉が乾いて、舌の奥が苦い。
冷汗が背中を伝う。
手袋の中で、指先が震える。震えるのを止めようとして、逆に震えが目立つ。
(......やめろ)
頭の中で言ったのに、身体は聞かない。
自分の手が勝手に動いて、引き金に触れようとする感覚だけが残る。
ミュラーは、操縦桿に手を置いた。
置いただけで、握れない。
計器が点灯し、スタンバイ表示が並ぶ。機体が「出られる」と言っている。機械の言葉は一貫している。
外ではまだ工具の音がしている。誰かが最後のロックを外し、誰かが発進ラインから退避する。全部が現実の音なのに、ミュラーの耳には一枚膜を隔てたみたいに遠かった。
その時、ふいに――別のものが割り込んだ。
サラの声。息が切れた声。あの場所の、あの間。
生徒たちの顔。訓練場で笑っていた、あの朝の顔。
そして――アスミの背中。小さいのに、前に出る背中。怖いまま飛んでいる背中。
ミュラーは息を吐いた。
長く、細く吐いて、もう一度吐いて、ようやく酸素が胸に入った。
震えは消えない。吐き気も残っている。冷汗も止まらない。
それでも、操縦桿を握った。
指が食い込む。痛みが現実を固定する。
(......今度は、見落とさない)
声にしたら、壊れる気がした。だから、手にだけ言わせる。
回線が入る。
《起動確認。――ミュラー、聞こえる?》
ラナの声だった。短く、揺れない。
ミュラーは一拍遅れて返す。
「聞こえる」
《発進許可。出るなら今よ。時間を作って。避難ラインを守る》
ミュラーは喉を鳴らした。返事は短い。
「了解」
推進が点火する。
機体が震える。格納庫の空気が揺れる。吐き気が、最後にもう一度だけ込み上げた。
ミュラーはそれを噛み潰し、視界を前に固定する。
カタパルトが動き出す。発進灯が変わる。
ミュラーの機体が、艦外へ滑り出した。
白い格納庫の光が背後へ流れ、視界の全部が黒に変わる。遠い星の粒だけが、正面に散っていた。
本作の本文・設定・登場人物・固有名詞・世界観・構成を、作者の許可なく転載、複製、翻案、要約転載、データセット化、AI学習・機械学習・生成AIサービスへの入力、解析、再配布に利用することを禁じます。




