Sky88-黒い槍-
会議室として使われている艦内の小ブリーフィングルームは、朝の運用に切り替わった艦の中でも、ひときわ空気が張っていた。
天井灯は落としすぎず、机上の端末画面だけが青白く顔を照らしている。
外壁に近い壁面モニターには、北方基地との映像回線が二面、西方本部との回線が一面、連合軍司令部の回線が一面、順番に開かれていた。
どの回線もわずかな遅延を含んだ電子音を抱えていて、遠い場所と今この部屋が無理やり繋がっているのが分かる。
ラナは机の正面に立っていた。
肩の線はまっすぐで、手元の端末を軽く押さえている。
表情は静かだったが、これから出る言葉の重さだけは隠していなかった。
右手側にはガナシュが立っている。
椅子に腰を下ろす気は最初からないらしく、腕を組んだまま壁際に体重を預けていた。ミュラーも座っていない。
ラナから半歩引いた位置で、壁際に立ったままモニターを見ている。
昨夜ほとんど眠れていないはずなのに、その顔はもう教官のものに戻っていた。
ただ、目の下の影だけが少し濃い。
ジョンはCIC席から引っ張ってきた端末を開き、画面を二つ並べている。
回線管理と現在位置の同期を同時に見ているせいで、指先の動きがいつもより忙しい。
シュタイナーはその斜め後ろに立ち、端末画面ではなく人の顔を順に見ていた。
中立国の士官らしく、まず空気を読み、次に発言の順番を計っている。
映像回線の向こうでは、北方基地の会議室にハイルトン・グレイ大佐がいた。
頬杖もつかず、机の上に両肘を乗せることもなく、ただ前へ身を乗り出している。
横にはリーサ軍曹が座っていた。
暗号解読用の補助端末を複数開いており、細い指で文字列を追う目つきが鋭い。
西方本部側には、イル・チャンティ中将がいた。白髪混じりの頭を少し傾け、柔らかく見える目の奥で、状況の変化だけは一つも取りこぼさない顔をしている。
そのさらに上位回線、連合軍司令部にはアーノルド・サルダー大将が映っていた。
背景の暗さのせいか、顔より先に肩章が目に入る。短く決めるためだけに出てきた人間の座り方だった。
ラナが室内を見渡し、声を落ち着かせたまま口を開く。
「北方基地からの暗号通信解読結果を共有します。リーサ軍曹、お願い」
リーサはすぐに頷いた。声は小さめだったが、聞き取りやすい。
「帝国側の暗号通信を、昨夜二三時四十六分に傍受しました。
こちらで言う暗号通信は、普通の公開回線じゃなくて、軍の内部だけで使う鍵付きの通信です。
内容を解くまで時間がかかりますが、その分、流れている情報の温度は高い」
説明を一度だけ挟んでから、リーサは画面を切り替えた。壁面モニターに、原文の断片が並ぶ。
「今回の文言で注目すべきなのは、“destroy”ではなく“capture”が使われていたことです。
つまり、撃墜ではなく捕獲。壊すのではなく、生きたまま確保する意図がある」
ジョンが小さく息を止める音がした。
ミュラーは表情を変えない。変えないまま、視線だけが文字列に貼りついている。
リーサは続ける。
「発信元の系統はロイヤル側に近い。断定は避けますが、少なくとも現地部隊の雑音ではありません。確度は高いです」
ラナが短く訊く。「対象は明記されているの?」
「はい。コードネーム“REDROSE”です」
室内の空気が、そこで一段だけ硬くなった。誰もすぐには言葉を挟まない。
その沈黙を、北方基地側のハイルトンが破る。低く、無駄のない声だった。
「冗談や偽装の類じゃない。少なくとも、帝国側は本気で取りに来るつもりだ」
ハイルトンの背後で、北方基地側の表示板に進路推定図が浮かぶ。
「しかも母艦を率いたブラック・ランスが主力だ。小隊規模の嫌がらせじゃねえ。」
ラナが目を上げる。「ブラック・ランス……皇族直々に“迎えに”来たってことね。確認できているメンバーは」
リーサが即座に読み上げる。
「ノア・オルディア。帝国皇太子。レイン・エドガー。エースパイロット。ビル・グレイツ。ジョシュア・ラリー」
淡々とした羅列だった。
だからこそ、逆に嫌な現実味があった。
ジョンが思わず小さく呟く。「ブラック・ランスって、大規模作戦にしか出ない部隊じゃないのかよ。……本命じゃん」
ガナシュが腕を組んだまま横目で見る。ジョンは口を引き結び、端末へ視線を戻した。
そこでシュタイナーが、指先で机の縁を軽くなぞりながら口を開いた。丁寧だが、言葉は曖昧に逃げない。
「撃墜ではなく捕獲です。生存前提で確保する価値があると見ている」
「捕獲目的は不明ですが、過去の生体実験の延長である可能性は否定できません」
ジョンが顔を上げる。説明を求める目だった。
シュタイナーはそれを見て、言い直す。
「要するに、“戦場で使いたいから奪う”だけではない、ということです。身体そのもの、あるいは適性そのものに価値を見ている可能性がある」
その言葉に、ミュラーの喉が小さく動いた。
視線はまだモニターから外れない。
イル・チャンティ中将が、そこで初めて口を挟んだ。柔らかい声のはずなのに、内容は冷静すぎるほど冷静だ。
「連合としては、ここを曖昧にはできん。REDROSEは軍の象徴だ。帝国に拉致されることだけは避けなければならない」
人としてではなく、象徴として言った。その冷たさを、ラナもガナシュも聞き流さなかったが、誰も遮らない。
ミュラーが低く言う。
「ノーザンクロスにいる候補生は戦力対象外として下さい」
声は静かだった。怒鳴らない。だからこそ硬い。
ミュラーは一拍置いて、続けた。
「……あいつらは、まだ訓練途中だ。」
その一言に、ハイルトンが北方基地側の画面の向こうで目を細めた。
何か言いたげだったが、先にガナシュが口を開く。
「つまり、REDROSEだけじゃない」
「ノーザンクロスそのものが捕縛対象になる可能性がある」
副艦長の声は、艦そのものの重さを背負っていた。
艦が狙われる、というのは比喩ではない。
ここにいる候補生も、避難民も、医療区画も、全部まとめて危険に晒されるという意味だ。
ラナがジョンを見る。「現在位置と接触予測」
ジョンはすぐに画面を切り替えた。声は少し早いが、内容は正確だった。
「現在位置はアルクトリ圏縁。宇宙エレベーター接続空域からは既に離脱済み。
近隣宙域に帝国側の大規模反応はまだ出てません」
「ただ、ブラック・ランス級の部隊が母艦ごと動いてるなら、接触時期は読みづらいです。
進路を大きく変えれば避けられる可能性はありますが、その分、哨戒の穴が開きます」
「哨戒の穴」という言葉に、ラナの目がわずかに細くなる。
艦長として、一番嫌う種類の報告だった。
サルダー大将がそこでようやく口を開いた。短く、結論だけを置く声だった。
「運用は止めない」
誰も息をしないみたいに静かになる。
「護衛・警戒を強化」
「REDROSEの確保を最優先」
「以上だ」
それだけ言って、サルダーの回線は沈黙する。上の人間ほど短い。決定だけが残る。
ラナはその沈黙を数秒だけ受け止めたあと、自分の声で会議を引き取った。
「REDROSEの運用方法は大幅変更なし。大規模・中規模作戦、近隣宇宙空域の哨戒も継続する」
「ただし、警戒レベルを一段上げる。ノーザンクロスが狙われる前提で守る」
艦長としての結論だった。
感情を混ぜない。けれど、人を切り捨てる言い方もしない。現実と守りを両方抱えた声音だった。
ジョンが端末に指を走らせる。
ガナシュは頷き、すでに次の配置を頭の中で組み直している顔になる。
シュタイナーはモニターを見たまま、口元の笑みを消していた。
ハイルトンは画面の向こうで一度だけ目を閉じる。イルは何も言わない。
ミュラーだけが、まだ動かなかった。
候補生は前に出さない。
その言葉を口にした瞬間から、余地は消えている。
(あいつらは出さない)
胸の奥で、言葉だけが先に固まる。
(出すなら、俺だ)
視線は壁面モニターの青白い光に残ったまま、もうその先を見ていた。
(ノーザンクロスごと狙うなら、なおさらだ)
会議室の空気は冷えていた。
けれど、その冷たさの中でラナが最後に置いた一文だけは、ちゃんと人の声だった。
「総意を確認するわ」
「REDROSEは捕獲対象になった。だが運用は止めない。だから艦ごと狙われる覚悟で守る」
誰も異を唱えない。
異を唱えたところで、この現実は軽くならないと全員が知っていた。
ミュラーは、机の上の端末にはもう視線を落とさなかった。
会議は終わっていない。けれど、自分の中では、もう次の段階へ入っている。
逃げる余地は、消えたのだ。
ーーー帝国側の母艦の発進デッキは静かだった。
艦は、ノーザンクロスの進路を正面から塞ぐ位置にいた。連合の哨戒圏ぎりぎりの外側、逃げ道を潰すには十分で、まだ正式な交戦開始には遠い距離だった。
外から見れば、その母艦は黒い槍のような形をしていた。長く鋭い艦首、左右に張り出した発進ベイ、腹部に並ぶ装甲板。連合艦のような白く広い船体ではない。光を反射せず、宙域の黒に沈み込むような、帝国軍らしい艦影だった。
整備員の手つきに無駄がない。指示が短く、返事が即座に返る。音が少ないぶん、機体の駆動音だけが目立つ。
先頭の機体の前に、ノア・オルディアが立っていた。 ヘルメットを抱え、視線は前方宙域の一点に固定されている。
焦っていない。待つ必要がない顔だった。
「距離、詰めます。ノーザンクロス、迎撃準備の動き」中隊長のモリー・クインツが報告する。声は硬い。
ノアの前で余計な温度は削る。
ノアは頷くだけで答えた。「包囲する。逃がすな」
短い命令だった。声を荒げたわけでもないのに、その一言が落ちた瞬間、発進準備区画の空気がさらに細く張った。
白い照明が、並んだ帝国軍機の外装を冷たく照らしている。床のガイドランプ、整備端末の認証音、遠くで重く唸るカタパルト。誰も慌てていない。ただ、全員が同じ方向へ緊張を揃えていた。
レイン・エドガーは、肩にかかる緑色の長い髪を手早くまとめ、後頭部で留めた。癖のない動きでヘルメットを被り、顎のロックを締める。硬い音が、小さく響く。そのまま視線を上げ、正面モニターを見る。
REDROSE。
連合軍のS級パイロット。
戦闘ログの中で何度も見た、赤い軌跡。オルタイト高適合者。連合が“象徴”として扱っている存在。
生かして連れ帰る。
ノアの命令は明快だった。だが、撃墜ではなく捕獲が前面に出る任務は、いつもより少しだけ輪郭が違って見えた。レインはその違和感の正体を言葉にはしないまま、拳を軽く握る。
「……REDROSEは、まだ出てきていないようですね」
レインはモニターから視線を外し、ノアへ向けた。
ノアは戦術画面を見たまま、わずかに口元だけで笑った。
「すぐに出てくる。彼女は即戦力だ」
言い方は静かだった。予測というより、癖を読んでいる口調だった。
そのすぐ後ろで、ジョシュア・ラリーが笑う。明るい笑い方ではない。何か面白いものを待っている時だけ、喉の奥で転がるように漏れる笑いだった。
「いいですね。REDROSEさえ折れれば終わる」
レインが横目だけでジョシュアを見る。表情は変えない。
「ジョシュア。REDROSEを軽く見ない方がいい」
ジョシュアは片方の口角を上げ、肩をすくめた。軽口の形をしているのに、目の奥だけが妙に冷えている。
「殿下が一緒に出るんです。問題ないでしょう?」
少し離れた場所で、ビル・ドーソンが自機の外装を一度だけ撫でた。確認というより癖に近い仕草だった。顔を上げずに言う。
「お前もA級だろ。足を掬われないように気をつけろよ」
ジョシュアは返事の代わりに鼻で笑った。
モリーが端末を操作しながら、淡々と情報を読み上げる。
「対象はノーザンクロス所属、オルタイト保有者。REDROSE同行機はセリ・アンダーソン一等兵。A級パイロットです」
「A級パイロットねえ」
ジョシュアが小さく繰り返す。その声音は軽い。だが、何を値踏みしているのかは顔に出さない。
ノアは誰の顔も見ないまま、続けた。
「目的は艦の撃沈じゃない」
その声だけが少し硬くなる。命令というより、譲らない方針だった。
「REDROSEを捕獲する。殺すな。生かして連れ帰る」
レインは無言のまま、その言葉を受けた。
殺すな。
他の命令よりわずかに重く残る。ノアは連合の象徴を戦場から消したいのではない。奪いたいのだ。
その事実だけが、冷たい金属みたいに胸の内側に沈む。
捕獲。
レインは、その言葉をもう一度だけ胸の内で繰り返した。
戦場で敵を殺す命令なら、理解できる。
撃墜しろ。制圧しろ。突破しろ。
それらは軍の言葉だった。
けれど、生かして連れ帰る、という命令は違う。
それは戦闘ではなく、回収に近い。
人間を、人間としてではなく、価値ある部品として扱う時の響きがあった。
レインは、その考えをすぐに消した。
任務前に余計な感情を持ち込むな。
そう教えられてきた。
「ノア様、予定通り、私がREDROSEを捕縛します」
レインは前を見たまま言った。迷いのない声だった。だがその言葉の奥で、任務の異質さだけが静かに沈んでいる。
ノアが視線だけをレインへ向ける。
「任せた。私が追い込む。お前が追え」
「了解しました」
レインは短く答えた。
モリーが最後の確認を投げる。
「捕獲優先。機体破壊は最小限。連合側は防衛戦で時間を稼ぎに来ます」
ノアは頷き、ヘルメットを被る。顎のロックを締める音が、周囲の静けさの中で妙に大きく聞こえた。
「来させる。来たら、こちらの形にする」
その言い方に熱はない。だが、勝ち方だけがすでに決まっている声だった。
レインは通信回線を開く。澄んだ声が、発進準備区画に落ちる。
「全機、出る。目標、REDROSE――捕獲」
ジョシュアがすぐに返した。
『了解。――やっと会えるな』
ビルの低い声が続く。
『余計なことは言うな。捕まえるだけだ』
発進灯が変わる。
床下でカタパルトが動き出し、低い駆動音が足元から骨へ伝わってきた。
帝国側SKY部隊が、近傍宙域へ出る。
ノーザンクロスの方角は、すでに戦術画面の中心にある。
距離は短い。
逃げる時間は、さらに短い。
そして――奪うための時間は、十分にある。




