Sky87-白いうさぎ~
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
連絡デッキの端に設けられた臨時の事務スペースは、昼の光が届かない代わりに、
天井灯の白さだけが均一に落ちていた。
艦の低い振動が床の下で鳴り続け、換気の音が一定のまま天井を流れていた。
サラは机の前の椅子に浅く腰を掛けていた。黒い服の襟は整っている。髪も乱れていない。
けれど、視線だけが机の端に落ちたままで、呼ばれるまで一度も自分から顔を上げなかった。
向かいに立つラナは、手元の端末を閉じると、一度だけサラの顔を見た。
事実を伝える前に、受け止められるかを測る視線だった。けれど、黙っている時間は長く取らない。
こういうことを先延ばしにしても、軽くはならないと知っている人の間だった。
「大統領を襲撃した犯人が捕まりました」
その一言で、サラの呼吸がわずかに止まる。顔は上げない。けれど、声だけが細く落ちた。
「……父を…誰が?」
ラナは感情を混ぜないように、言葉を選んだ。
「金銭で雇われた人物です。計画を立てた側とは直接の関係がない可能性が高い」
そこで、間が空いた。艦の振動が、二人の間の沈黙を埋めるみたいに続いている。
ラナは視線を落とさずに続けた。
「いわゆる、実行役です」
サラは何も言わない。理解しているのか、まだそこまで届いていないのか、外からは分からなかった。
ただ、瞬きだけが急に少なくなる。
ラナは端末を持ち直し、声の温度を変えないまま次を告げた。
「必要であれば、今後の特別法定にも出廷できます。検察官に伝えたいことがあれば――」
そこで、サラの唇がかすかに動いた。
「……せないで」
ラナがわずかに眉を寄せる。
「え?」
サラはそこでやっと顔を上げた。泣いてはいない。叫んでもいない。けれど、目の奥だけがひどく冷えていた。
「死なせないで下さい。絶対に」
ラナのまっすぐな表情が、そこで初めて少しだけ揺れた。
「……サラさん」
サラは視線を逸らさないまま、続ける。
言葉を整えているわけではない。胸の奥から出てきたものを、そのまま落とすような声だった。
「人を殺して、簡単に死ぬなんて……」
そこで一度、喉が詰まる。それでも、サラは止まらなかった。
「終わりになんて、させない」
声は大きくない。むしろ静かだった。静かなぶんだけ、その言葉はまっすぐ残った。
ラナはしばらく黙っていた。
慰めの言葉は違うと分かっている顔だった。いまここで必要なのは、同情ではなく返答だと分かっている。
やがて、短く頷く。
「分かりました。責任を持って監視させます。裁判は見学されますか?」
サラは首を振った。その動きは小さいのに、迷いがなかった。
「できる限りで構いません。真実を暴いてください。そう、検察の方に伝えてください」
ラナはもう一度、静かに頷いた。机の上の端末には、まだ処理しなければならない報告書がいくつも残っている。
艦の中では、今日も人が動き、物が運ばれ、次の判断が待っている。
それでも、この瞬間だけは、ラナは目の前の一人から視線を外さなかった。
サラもまた、椅子に浅く腰掛けたまま、背筋を崩さなかった。
泣かないまま、怒りだけを自分の中にまっすぐ通している人の姿だった。
*
休憩室を出たミュラーは、廊下の角で足を止めた。
大きめのモニターがある共有ラウンジから、ホロニュースの討論番組の声だけが漏れていた。
ミュラーは、嫌な予感のまま足を向ける。
ラウンジには訓練生が集まっていた。目は画面に吸い寄せられている。ホロの中では、スタジオの照明が明るすぎる。司会者が過剰に落ち着いた声で進行し、パネルの討論者が怒鳴り合っていた。
『――ブライトン大統領暗殺は、NTOへの宣戦布告です!』『報復は当然。帝国に〝痛み〟を返さなければ止まりません!』『それに、戦力が足りない。オルタイト保有者を〝フル動員〟すべきだ!』
〝フル動員〟
その言葉が、ミュラーの耳に引っかかったまま残る。まるで燃料の話みたいに、軽い。
討論者の一人が、笑顔で数字を並べた。
『オルタイトは戦力として極めて有用です。適性者を集中的に運用すれば――』
ミュラーの奥歯が噛み合う。口の中が苦くなる。
自分が昔、同じ言葉で前に押し出されて、最後に何も残らなかったことを身体が覚えている。
ラウンジの端に、サラが立っていた。顔は動いていない。目だけが画面を見ている。
クリスが、隣のアミューに小声で言った。
「......俺らもさ、役に立てるなら......」
悪気はない声だった。怖いから、意味を作りたい。役に立つ側にいれば、置いていかれずに済む気がする。
アミューが頷く。
「うん。だって、戦力が足りなかったら……また、守れないかもしれないし」
スザンナは何も言わず、ただ画面を見ていた。
ミュラーは一歩踏み出しかけて、止まった。
ここで怒鳴ったら、止めるための言葉ほど、逆効果になる時がある。
その前に、サラが動いた。サラは黙ったまま、ラウンジの制御パネルに手を伸ばす。
指先が迷わない。ボタンを一つ押す。
討論番組の声が途切れ、ホロが一瞬で暗転した。残ったのは、艦の換気音と、遠くの足音だけだった。
クリスたちが驚いた顔をして振り向いた。
サラは誰も見ないまま、低い声で言った。
「……こんな番組、見なくていい」
説教はしない。理屈も言わない。禁止の理由も説明しない。
サラの制御パネルを押す指に、力が入っている。
爪が白くなるほどではない。でも、感情がそこに出ている。
ミュラーは、そこで初めて気づいた。サラは泣いていない。叫んでもいない。
でも、怒っている。社会そのものに。
人を〝有用〟と呼んで消費する言い方に。
父が死んだ直後に、次の燃料の話を始める世界に。
サラは顔を上げずに言った。
「......あなたたちは、役に立つために生きてるんじゃない」
生徒たちが黙る。誰も反論できない。反論したら、自分が壊れるのが分かる言葉だ。
ミュラーは喉の奥で息を飲んだ。
サラは、ひとりで立っているようで、ちゃんと守っている。
父の代わりに、じゃない。自分の意思で。
ミュラーは、クリスたちの方へ視線を向けた。
「今のは忘れろ。やれることはある。だから、勝手に前に出るな」
クリスが口を開きかけて、閉じる。スザンナがミュラーを見る。
その目は〝分かりました〟とは言っていない。けれど、〝聞いた〟とは言っている。
サラはようやく顔を上げた。ミュラーと目が合う。
そこにあったのは、助けを求める目じゃない。同じ方向を見ている目だった。
ミュラーは、短く頷いた。ラウンジの照明が、さっきより少しだけ冷たく見える。
艦のどこかで、何かの音だけが一定に響いていた。換気の低い唸り。金属のきしみ。誰かの足音。
日常が続く音。続けなければいけない音。
サラは背筋を伸ばしたまま、ラウンジを出ていく。歩幅は乱れない。
ミュラーは生徒たちを見回し、最後に一言だけ落とした。
「お前たちは、余計なこと考えるな」
そう言うと、サラの後を追って、廊下を歩き出した。
暗転したホロ画面だけが、黒い鏡みたいにラウンジに残っていた。
サラの背中は、ラウンジを出たあともまっすぐだった。
歩幅は乱れない。けれど、さっきまで候補生たちの前で立っていた時より、少しだけ小さく見える。
ミュラーは何も言わず、その半歩後ろを歩いた。
医務室の横、サラが自室代わりに使っている小部屋の前で、サラが立ち止まる。
扉を開けて中へ入り、ミュラーも続けて入った。
室内は静かだった。医務室の気配が壁越しに薄く伝わってくる。
消毒の匂い、換気の低い音、遠くで誰かが器具を動かす小さな金属音。
狭い部屋の中には簡易ベッドと小さな机、それから折り畳み椅子が二つだけ置かれている。
扉が閉まると、さっきまでのラウンジの光景が急に遠くなった。
ミュラーはサラを見ずに言った。
「艦長に聞いたか」
サラはベッドの端に腰を下ろし、黒いスーツの袖を整えてから答える。
「ええ。さっき聞いた」
ミュラーは立ったまま、短く息を吐く。
「平気か?」
その問いに、サラは視線を落とした。考えるというより、自分の中の温度を確かめるみたいな間だった。
「平気。嘘みたいに落ち着いてる」
ミュラーはその返事を聞いて、ようやく椅子を引いた。
きしむ音が小さく鳴る。サラの横に座ると、二人の間には言葉より先に、部屋の静けさが落ちた。
サラが先に口を開く。
「……ミュラー」
ミュラーはサラの顔に視線を向けた。
「私、貴方に馬鹿な事を言ったわ」
ミュラーは眉を動かした。
「馬鹿な事?」
サラは自分の膝の上に置いた手を見たまま、小さく笑うように息を漏らした。
笑ってはいない。ただ、その言葉を口にするしかないみたいな顔だった。
「みんな殺してきて。なんて。忘れてね。もうそんな事、考えてもいないから」
その言葉に、ミュラーはすぐには返さなかった。
部屋の白い灯りが、壁際に置かれた机の角だけを冷たく照らしている。
忘れてね、という声の奥に、忘れてほしいだけじゃないものが混じっているのが分かった。
「忘れない」
サラが顔を上げる。驚いたわけでも、止めようとしたわけでもない。
ただ、思っていた返事じゃなかったという目だった。
ミュラーは視線を逸らさずに続けた。
「あれは、お前が悲しかったってことだ。それは、忘れない」
言い切ったあと、部屋の中がまた静かになった。壁の向こうで、誰かの足音が一度だけ通り過ぎる。
サラの目が少し揺れた。涙ではない。ただ、目が少し水分を帯びた。
「ありがとう」
その礼に、ミュラーは何も返さなかった。言葉を足したら、かえって浅くなる気がしたからだ。
ただ隣に座ったまま、動かない。
サラもまた、背筋を崩さないまま前を見ていた。それで十分だった。
*
ミュラーはしばらくサラのそばにいたが、やがて静かに椅子を立った。部屋を出ると、その足は自然に訓練生のいるラウンジへ向かっていた。どこにいても艦は低く鳴っていて、換気の音が一定だった。
訓練生たちはラウンジのソファーの所で、端末を抱えて笑っている。
クリスがふざけて肩をぶつけ、アミューが笑いながら「すいませーん」と手を上げる。いつもの雑さ。いつもの空気。
ミュラーは軽く息を吐きながら、少し離れたソファーに腰を下ろして手元の端末を開いた。
その時、クリスたちの笑い輪から、スザンナだけが音もなく抜けた。
歩幅が小さいのに、止まらない。立ち止まらない顔をしていた。
「……教官」
「私を戦闘要員にして下さい」
ミュラーは顔を上げた。返事が出るまで一拍遅れて、声が低くなる。
「は?」
「役に立ちたいからじゃないです。私は戦闘要員になるために入隊しました」
「戦闘要員として、立たせて下さい」
ミュラーは手元の端末を机に置いた。音が短く鳴る。
声は大きくしない。大きくしなくても、止める力がある。
「それは、いま、お前を出す理由にはならねぇ」
「でも――」
「でも、じゃねぇ」
言葉が鋭くなる。普段より、明らかに。
生徒たちが気配を殺した。ふざけた空気が引っ込む。
「お前らは弾じゃない」
スザンナは引かなかった。視線が逸れない。息を吸って、吐く。
「私の妹は、戦場で死にました」
ミュラーの眉がわずかに動いた。言葉の意味を受け取る前に、身体が先に固くなる。
「私は助けられなかった。……そこにいれば違ったかもしれないって、ずっと思ってました」
スザンナの指先が制服の裾を一瞬掴む。声が乱れないまま続く。
「避難区域でした。非武装のキャンプ。……攻撃が来るって、誰も思ってなかった」
ミュラーの喉が鳴る。目線が、スザンナの顔から一度だけ外れる。
顔色が変わるほどではない。けれど、目だけが明らかに止まった。
「あの日も、白いうさぎのぬいぐるみを持ってました。……片目が取れかけてて」
周りの音が遠のいた気がした。それでも、換気だけは止まらずに鳴っていた。
ミュラーの中だけが静かになる。
スザンナはミュラーの顔を見て、確認するみたいに言った。
「……あの日…あの戦場に、白銀の獅子がいたって…お父さんが言ってた」
ミュラーの拳がゆっくり握られる。爪が掌に食い込む。
声が出ない。出せないのではなく、形にならない。
「……誰が、お前にそんな話をさせた」
「誰も」と言って、スザンナは首を振った。
「私が言いたかっただけです。私の妹が、確かにそこにいたって。……忘れられたくないから」
ミュラーは一拍置いて、ようやく言葉を拾った。
「……忘れるわけない」
スザンナの目が少しだけ揺れる。
ミュラーはスザンナから視線を外した。端末を取り上げるふりをして画面を閉じる。
スザンナが、最後に一歩だけ詰めた。
「……教官。妹が死んだのは戦争のせいです。敵を撃ち落として終わりが近くなるなら、私は撃ちます」
スザンナの声は小さい。けれど、はっきり届く。
「教官はまだ逃げるんですか?」
ミュラーは振り向かなかった。返事を探した瞬間、喉の奥が先に固くなる。
ラウンジの換気音だけが、やけに一定に聞こえた。
*
夜のノーザンクロスは、昼よりも整っている。照明は落ちて、監視モニターが静かに点いている。通路の角ごとに、カメラのランプが小さく瞬く。
巡回の足音が、一定の間隔で近づいては遠ざかった。
ミュラーは、居住区の方向へは向かわなかった。寝ようとすると、目の奥が勝手に戻る。
簡易スポーツジムの扉を開けると、無音に近い空気が出迎えた。
機械の待機ランプだけが点いている。
ミュラーは迷わずトレッドミルに乗り、スタートを押した。
最初は歩き。すぐに軽いジョグ。呼吸が整う前に速度を上げる。頭が静かになる。静かになった分だけ、余計なものが入りにくくなる。
......だけど、完全には消えない。
速度をもう一段上げる。ふくらはぎが張って、膝が熱くなる。息が荒くなる。汗が頬を伝う。
それでも止めない。
(......あー……気持ち悪りぃ……)
喉の奥に、何かが上がってくる感覚がある。
実際に吐くわけじゃない。ただ、体が“戻りたがってる”感じだけがある。
ミュラーは速度を落とさない。
落とした瞬間、頭が空いてしまうのが分かっている。
(情けねぇ……)
走っているのに、どこにも行けない。分かっていても、止まれない。
やっと、足が重くなってきた頃。ミュラーはようやく速度を落とし、停止ボタンを押した。
止まった瞬間耳の中の血流音が急に大きくなる。自分の心臓だけが、やけに騒いでいる。
タオルで顔を拭き、乱暴に首筋を拭く。
鏡に映った自分は、ただ汗まみれの男だった。戦場の顔でも、教官の顔でもない。
シャワー室へ向かう通路は暗い。床が少し冷えていて、汗ばんだ足裏に張りつく感じがある。
個室のシャワーをひねると、湯気が立った。水圧が肩に当たり、皮膚が熱で軽く痺れる。
ミュラーは額を下げたまま、しばらく湯を浴び続けた。
――目を閉じなければ。
それでも、疲れが勝つ瞬間がある。まばたきが長くなって、次の瞬間、視界が一度だけ暗くなる。
暗くなったところへ、勝手に入ってくる。
子どもの腕。短い袖。赤黒い血。
泥に濡れたぬいぐるみ。
片目が取れかけて、布が重く濡れている。
音はないのに、喉が絞まる。
コクピットの匂いが鼻の奥に戻る。焦げた金属。油。熱。
ミュラーは反射で目を開けた。開けても、遅い。
体の芯が硬くなる。息が詰まる。肩が上がる。湯が降っているのに、背中が冷える。
ミュラーは壁に手をつき、次に額をつけた。
冷たいタイルに触れた瞬間だけ、今ここだと分かる。
吐く方を長くする。それだけをやる。
(...…くそ......いつまでやってんだよ)
(ーーサラはちゃんと立ってるのに)
ミュラーは額を壁につけたまま、目を開けない。開けたら、見えるものが増える気がした。
湯が肩を流れ続ける。
ミュラーは数回、深く息を吐いた。
やっと喉の詰まりが少しだけ緩み、顔を上げる。手のひらで水を受けて目元を何度も洗う。
鏡は曇っている。そこに映る自分の輪郭は、はっきりしない。
廊下の監視モニターが、静かに光っていた。
夜が明けても、艦の音は変わらなかった。
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