Sky86-孤城の上-
次の日の朝、ミュラーは自室の簡易ベッドの上で魘されて起きた。髪が額に張りつくほど、汗をかいていた。
シャワー室を出た瞬間、空気が冷たくて、肌が一段だけ現実に戻った。
濡れた髪をタオルで拭きながら、ミュラーは医務区画へ向かう。
寝床へ行く足は止まるのに、医務室へ行く足は止まらない。そういう癖が、自分の中にできていた。
自動扉が開く。消毒の匂い。白い照明。
エリンは振り向いて、目だけでミュラーを測った。
濡れた髪、タオル、目の奥の赤み。言い当てるみたいに、先に言う。
「また寝てない顔」
「……寝たよ。横にはなった」
「それだけじゃ、寝てないって言うの」
エリンは端末を開いて、画面を見せる。そこに細い文字が並ぶ。
【ガルディア合衆国大統領 ジョージ・ブライトン大統領 国葬中継】
画面の衛星TVに表記された文字と、大勢の関係者と支持者に囲まれて運び出される棺の映像が映る。
「サラさんなら、ラナ艦長と一緒に式典の中継を見に行ってるわ」
「……遺体の回収、出来たのか」
口から出たのは、それだけだった。
言った瞬間、喉の奥が熱くなる。
エリンは画面に目をやって、声を落として言った。
「……わからないわ。でも、遺体がなくても、石一つ入れて棺を運ぶのだって、戦場じゃよくあることでしょう」
「この中継は、大統領が確かにいて、いなくなったっていう儀式なのよ」
ミュラーは鼻で短く息を吐いた。笑いにならない。
「娘のサラはここにいて出席していないのにか」
「……相変わらずクソみたいなシステムだな……」
言い切ったはずなのに、最後が落ちた。
“システム”の中身を言葉にしようとすると、舌が止まる。
責めたい相手が多すぎて、矛先が定まらない。
エリンは端末を閉じ、ミュラーをまっすぐ見た。
「……ミュラー、皆、ずっと貴方を心配してるわ」
「心配してる暇があるなら――」
ミュラーは言いかけて、止めた。
その続きは、誰かを責める言葉になる。責めたところで、何も変わらない。
ミュラーの喉が動く。あすみの目を思い浮かべる。
言葉が出ない代わりに、視線がカーテンの向こうのサラのベッドへ落ちる。
守ろうとしている顔は、確かにいる。
ラナの顔、ハイルトンの声、ケイの背中。
でも、それを“許さない形”が、いつも外側から降ってくる。
ミュラーは続きを言えず、口を閉じた。
エリンは責めない。追い詰める言い方もしない。
ただ、確認だけをする。
「……あなたは、守る側に戻りたいの?」
ミュラーはすぐには答えなかった。
答えた瞬間、戻れない気がしたからだ。戻ると言えば飛べと言われる。
戻らないと言えば逃げだと言われる。
どっちも嫌だった。
「……俺は、教官でいたいだけだ」
絞り出したのは、それだけだった。
エリンは頷いた。
「じゃあ、教官としてやることをやって」
「これ以上、戦地に子供を送らなくて済むように」
ミュラーは「分かった」と言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、短く息を吐く。胸の奥の熱を、外へ逃がすみたいに。
ミュラーはエリンの横を通り過ぎ、もう一度だけカーテンの並びを見た。
起きている目があった。気づかないふりをして、ミュラーは歩幅を落とさずに扉へ向かった。
*
医務室の扉が閉まったあとも、消毒の匂いが鼻の奥に残っていた。
ミュラーは廊下を曲がり、艦内の連絡デッキへ出る。換気の低い音と、足元の振動。
ノーザンクロスの“平常”は、機械の一定でできている。
その平常の中に、別の音が混じっていた。
――ニュースの音声。
通路脇のホログラム掲示板が自動で立ち上がっている。艦内向けの共通配信。
誰かがわざわざ点けたわけじゃない。情報は勝手に流れ込む。
『――ガルディア合衆国は現在、ブライトン大統領の国葬を執り行っています』
映像には、地球の青と白が広がり、次に式典会場の俯瞰が映る。黒い服の列。旗。整列した儀仗隊。
カメラが動くたび、拍手ではない“音のないざわめき”が画面越しに見えた。
ミュラーは足を止めなかった。
止めないまま、視線だけが勝手にホログラムへ寄る。
その先に、サラとラナがいた。
連絡デッキの端、臨時の事務スペース。
折り畳みの机に、救護名簿と搬送リストと、艦内配給の申請書が積まれている。
ホログラムの青白い光が、二人の横顔を薄く照らしていた。
黒いスーツの襟は整っている。髪も乱れていない。
ただ、立ってホログラムに顔を向けていた。
ミュラーは一歩だけ近づいて、止まった。
声をかける距離なのに、声が出ない。出せば、どこに触れるか分からない。
『――式典には各界の代表が参列し、治安関係者は「二度と同様の悲劇を繰り返さない」と……』
ニュースキャスターの声は、整っていて、冷たい。
ホログラムが切り替わる。式典の映像から、街頭インタビューへ。
『――強い報復を求める声も広がっています』
画面の中で、人が怒っている。泣いている。叫んでいる。言葉が強いほど、字幕が太くなる。
『「帝国に思い知らせろ」』
『「こちらが手を緩めたからこうなった」』
ホログラムがまた切り替わる。
『――一方で、オルタイトの軍事運用を拡大すべきだとする意見も――』
“オルタイト”という単語が、艦内の空気を変える。
現場の言葉じゃない。政治の言葉だ。都合の良い言葉だ。
『「抑止力として必要だ」』
『「運用を制限する余裕はない」』
『「今こそ研究と投入を」』
ミュラーの奥歯が噛み合う。自分でも分かるくらい、顎に力が入った。
学校が燃えた直後に、もう次の“利用”の話をする。
死んだ人間を弔いながら、同時に次の弾を作る。そういう順番で世界が動く。
ミュラーはホログラムから視線を逸らした。
その時、サラが口を開いた。
「父は、帝国との停戦協議を進めていた」
「オルタイトの利権争いで続いたこの無意味な戦争を、止めようとしていたんです」
一度、言い切ってから、サラは息を吸い直す。
事務的な言葉を並べるほど、胸の奥が静かに冷えていく。
「……オルタイトなんて、なければ良かったのに」
ラナはサラの横顔を見つめながら、静かに言った。
「ブライトンさん。大統領のこと、お悔やみ申し上げます」
サラがふっと笑う。笑いは軽いのに、目だけが動かない。
「ありがとうございます。……落ち着いたら、私も船を降りてガルディアに帰ります。
それまで、もう少しだけ――ここにいさせて下さい」
「もちろん。あなたを追い出したりしたら、艦内の男性職員全員に叱られるわ」
サラがくすりと笑う。
その笑顔を見て、胸の奥のつかえがほんの少しだけ緩んだ。
サラの瞳は、まだ光を失っていない。
今は、それだけでよかった。
昼が近づくころ、ノーザンクロスはアルクトリの宇宙港へ滑り込んだ。
宇宙エレベーターと接続する港湾区画は、遠目にも白く明るい。
外壁の向こうには青い地球が大きくかかり、その縁に沿って薄い雲が流れている。
艦内放送が接続完了を告げるたび、待機していた生徒たちの空気が少しずつ浮き足立っていった。
普通科の生徒のうち、保護者が自費で迎えに来ている者たちは、ここで艦を降りることになっていた。
臨時区画から搬出口へ続く通路は、人の流れで細くなっている。
荷物を抱えた生徒、付き添う職員、見送りに来た候補生たち。
行き交う靴音と話し声が天井の低い通路に反響して、どこを向いてもせわしない。
ミュラーは搬出口の脇に立ち、艦を離れて親元へ帰る生徒の名簿を確認しながら、一人一人を出口へ送っていた。
何度も同じ名前を呼び、確認し、頷く。
その繰り返しの間にも、視界の端では生徒たちの表情が次々に入れ替わっていく。
ほっとした顔。泣くのをこらえている顔。残る者に手を振る顔。置いていかれるような目で見送る顔。
ノーザンクロスは守るための艦だ。
そう定義したばかりのはずなのに、送り出す側に立つと、それだけでは済まない痛みが残る。
通路の奥で、また小さなざわめきが起きた。
ミュラーが顔を上げるより少し前に、聞き慣れた声が耳に入る。
「古賀さん、お久しぶりですね」
あすみが足を止める。
振り向いた先には、軍服の襟元まできっちり整えた男がいた。
長身で、柔らかい笑みを浮かべている。
周囲の慌ただしさの中でも、その男だけ時間の流れが少し違うみたいだった。
「…シュタイナー中佐…」
あすみの声に、すぐ横のセリが眉を上げる。
「あんた、こんなとこにまで来んのかよ」
シュタイナーは少しだけ肩をすくめて見せた。
その仕草すら品がある。
「私はREDROSE専属の士官なので。」
その時、CIC側の扉が開き、アンが出てきた。
片手で腹を押さえながら、いかにも疲れた顔で口を尖らせる。
「お腹すいたー。あすみ、食堂行こう。」
アンの声にシュタイナーが目を向ける。
視線の動きが自然すぎて、一瞬だけ観察されたことに気づかないほどだった。
「初めまして、アン・ヘンドリック二等兵ですか?」
アンは一歩だけ止まる。
まさか自分に話しかけられるとは思っていなかった顔で、素直に返した。
「…はい。」
シュタイナーは胸に手を当てるみたいに軽く礼をする。
「ゼルンハイトから派遣されてきました。シュタイナー中佐です。
噂通りの方のようだ。」
「噂?」
アンが怪訝そうに首を傾けると、シュタイナーはそのまま微笑んだ。
「西方本部で、優秀で綺麗な管制官だと伺っています。
これからこちらで色々とお世話になりますが、宜しくお願いします。」
アンの目が一瞬だけ丸くなる。
返事が半拍遅れた。
「あ、はい。」
そのちぐはぐな返事に、横で見ていたジョンが口元を押さえた。
笑うにはまだ疲れが残っているけれど、それでも少しだけ場が和む。
その時、少し離れた前方へシュタイナーは視線を向けた。
シュタイナーはそちらへ顔を向け、あすみたちに軽く会釈して歩いていく。
アンは去っていく背中を見ながら、ぽつりと言った。
「……へえ。いい人じゃない。かっこいいし。」
すぐ横でセリが露骨に顔をしかめる。
「はぁ?あんなの誰にでも良い顔してるだけだろ。」
ジョンが小さく眉を動かす。
「……セリ」
そのやり取りを、ミュラーは少し離れたところから見ていた。
艦内の空気が変わる時は、だいたいこういうふうに、誰か一人の存在から始まる。
シュタイナーはあすみたちの前を通り過ぎると、そのまま真っ直ぐミュラーの方へ向かってきた。
人の流れを縫うように歩いてくる足取りに迷いがない。目当てが最初から決まっていた歩き方だった。
ミュラーの前で足を止めると、シュタイナーはまっすぐその顔を見つめた。
「……なんだ?」
荷物確認の途中で呼び止められた教官の顔のまま、ミュラーが低く返す。
シュタイナーはその声にも臆さない。
「ゼルンハイトから参りました。エーリッヒ・フォン・シュタイナー中佐です。
失礼ですが、“白銀の獅子”と呼ばれていた、ミュラー・エリス中尉でお間違い無いでしょうか。」
過去のコードネームを面と向かって自分に言う奴なんて珍しい。
ミュラーは眉間に少しだけ皺を寄せて返事をした。
「……そうだけど」
その返事を聞いた瞬間、シュタイナーの顔が明るくなり、口元が緩んだ。
その表情は、昨日、REDROSEを見つけた時のクリスとアミューの顔と同じだった。
憧れをそのまま抱えて立っている人間の、隠しようのない顔。
シュタイナーは少しだけ前のめりになって話を続ける。
「実は、私は入隊する前にエリス中尉の戦闘ログを拝見した事がありまして」
「美しい飛び方をされる方だと、あの、陰ながら尊敬しておりました」
「……ここでお会いできるとは…大変嬉しいです」
通路の向こうではまだ普通科の生徒が呼ばれ、名前の確認が続いている。
保護者と再会して泣く子もいれば、荷物を握りしめたまま黙って頭を下げる子もいる。
そのざわめきの真ん中で、シュタイナーだけが少し違う熱をまとっていた。
ミュラーは一瞬だけ、返事に困った。
まっすぐ見られるほど、いまの自分は軽くなかった。
「…ああ。どうも」
短く返すと、シュタイナーはその素っ気なさすら嬉しそうに受け取った。
ミュラーはそれ以上何も言わず、手元の名簿へ視線を戻す。
けれど、通路のざわめきとは別に、新しく艦内へ入ってきた空気だけは、しばらく耳の奥に残っていた。
夕方になってやっと候補生以外を乗せた輸送機が、宇宙エレベーター側へ離れていき、搬出口の隔壁が閉じた。
それまで艦内に溜まっていたざわめきが、一段だけ引く。
泣きながら手を振っていた普通科の生徒たちの姿はもうなく、通路に残っているのは、候補生と艦の人間だけだった。
避難艦として開かれていたノーザンクロスが、少しずつ元の顔へ戻っていく。
格納庫からは牽引車の音が戻り、艦橋からは短い指示が落ち始める。
換気の低い音に混じって、機械の一定がまた艦の中を満たしていった。
ブリーフィングルームの壁面モニターには、宇宙空域支援に入った各艦の戦術画面が流れていた。
候補生たちは自然にそこへ集まり、クリスがいちばん前、アミューがその半歩後ろ、
スザンナだけが少し離れた位置に立っている。ミュラーはその後ろから、三人の肩越しに画面を見ていた。
ラナから下りた通達は短かった。普通科は順次移送。候補生は艦内待機。
その一文の意味を、若い三人はそれぞれ違う顔で受け取っていた。
最初に口を開いたのはクリスだった。
まだ幼さの残る顔に、不安と、少しだけ期待が混じっている。
「俺ら、戦闘に出る可能性もあるんですか?」
アミューがすぐ横で眉をひそめる。
「…そんなわけないだろ、俺たちまだ2年だぞ。」
けれど、スザンナは感情を見せなかった。画面から目を離さないまま、静かに言う。
「宇宙空域が本格的に戦闘区域になったら、私たちだって駆り出される。
その可能性もあるから待機なんですよね?」
その問いに、ミュラーは間を置かなかった。
答えというより、線を引く声だった。
「本部が何をどう決めようと、お前たちは前に出さない」
「俺が止める。以上だ。」
クリスとアミューは反射みたいに背筋を伸ばす。
それで終わりだと分かったからだ。
ミュラーがこう言う時は、もう議論の余地がない。
スザンナだけが一度だけ目を伏せ、それきり何も言わなかった。
モニターの表示が切り替わる。
宇宙空域支援に上がった味方艦のSKY部隊が、別艦の編隊と合流していく。
識別表示の中に、REDROSEの機体番号が浮いた。
クリスの肩がぴくりと跳ねる。
アミューが息を止める。
ミュラーは何も言わない。
ただ、画面に流れる機体の動きを追った。
合流。進路修正。接敵。
REDROSEが、味方機の一歩前へ滑る。射線の選び方が速い。回り込む角度に迷いがない。
敵機の動きを待たず、次の位置へ入る。
照準、発射、撃墜。
ひとつ終わる前に、もう次へ移っている。
速くて、正確で、無駄がない。
候補生にとっては、それだけで十分だった。
「すげえ!すげえ速い。」
クリスの声が思わず裏返る。
アミューも画面から目を離せないまま、呟いた。
「上限赤振り切ってるはずなのに…あんなに安定して飛べるのか。」
感嘆の混じった声だった。二人とも、ただ純粋に見入っている。
ああいうふうに飛べるものだと、まだどこかで信じている目だった。
スザンナは黙って見ていた。
目を細めもせず、感動も羨望も出さない。ただ、映像として受け取っている。
彼女は最初から、英雄という言葉に救われる側ではなかった。
ミュラーは候補生たちの横で見ていて、呟く。
「…速すぎる」
誰に向けた声でもなかった。
クリスにもアミューにも届かないくらい低い声だった。
モニターの中で、REDROSEが次の敵機へ移る。
被弾の揺れも、接敵の緊張も、判断の間も見えないまま、先へ先へ進んでいく。
(兵器というより……何かを先に置いてきている)
そうとしか見えなかった。
上手いんじゃない。馴染みすぎている。戻った人間の飛び方じゃない。
画面の中の機体が、また一機落とす。
クリスが小さく息を呑み、アミューが「やばい」と笑うみたいに漏らした。
ミュラーだけが、もうモニターの中の勝敗を見ていなかった。
見ていたのは、あの速さの奥にあるものだった。
誰より早く動けることじゃない。そこへ至るまでに、何を置いてきたのか。
スザンナが、モニターから目を離さないまま静かに言った。
「ミュラー教官は、もう飛ばないんですか」
ミュラーはスザンナの顔を見た。
その問いにすぐ答えが出るなら、こんなところで立ち止まってはいない。
「さあな」
それだけ言って、ミュラーは踵を返した。
そのまま通路の奥へ歩いていく。
スザンナは、ミュラーの背中を見つめたまま、その場に立っていた。
艦内の通路を抜けると、空気の匂いが変わった。
消毒と布の匂いが薄れて、金属と油と冷却剤が濃くなる。
ノーザンクロスの格納庫は、いつも同じ温度で、同じ音がしていた。
工具が金属を叩く乾いた音。
遠くでモーターが一定に唸る音。
誘導灯の点滅が、視界の端で規則正しく明滅している。
ミュラーは、格納庫の入口で一度だけ立ち止まった。
さっきまで、生徒たちの前では“先生の顔”をしていた。大丈夫だと言い切れる態度。怒鳴らずに止める声。ここでは、その声が出ない。
整備中のSKYが上にいた。
機体腹のパネルが開かれ、配線が覗き、整備灯が内部を白く照らしている。機体を支えるラックが、規則正しく並んでいた。
ミュラーは無意識に足を進めた。
機体へ上がるための整備階段の前で、速度が落ちる。
一段目。
そこに足を乗せようとして、止まった。
止まったことに気づいた時には、指先が細かく震えていた。
拳を握り直すほど、震えが目立つ。
ミュラーは手をポケットに突っ込み、震えを隠した。
隠したところで消えないのは分かっているのに、そうしないと立っていられない。
整備班の声が飛ぶ。
「トルク、確認!」
「OK!」
「冷却ライン、もう一度!」
普通のやり取り。普通の格納庫。
それなのに、ミュラーの喉の奥が乾いた。
視線だけ、上の機体へ上げる。触れられない。近づけない。
それが、はっきり分かる距離で、ミュラーは階段の前に立っていた。
「……何やってんだ、俺」
独り言は小さく落ちた。
笑う形だけ作ろうとして、うまくいかなかった。
背後から足音が来た。
艦内で一番、余計な音を出さない人の歩き方。
ラナだった。
ミュラーの背中越しに機体を一度見上げてから、ラナはミュラーの横に立った。
「無理に乗せるつもりはないわ」
ラナの声は淡々としていて、慰めに寄らない。
事実の宣言だった。
ミュラーは肩だけ動かして、軽く笑った“つもり”の息を出す。
「……分かってるよ」
声が少しだけ掠れた。
誤魔化したのは、ラナに向けてじゃない。自分のためだった。
ラナは、それ以上は踏み込まない。
踏み込まない代わりに、同じトーンで続けた。
「私は、あなたが“今”ここにいることが嬉しいのよ」
言い切る前に、ラナの視線がミュラーの手元へ落ちる。
ポケットに突っ込んだままの指。力の入り方。
見抜いても、言葉にしない。
返事をしたら、階段の一段目で止まっている理由まで、言葉になってしまう。
ラナは短く息を吐き、整備班へ視線を移した。
「格納庫は通常運用に戻って」
ラナは、そこだけ小さく言った。
それから、またミュラーへ声を戻す。
「……今日もあなたが生徒の前に立てた。サラさんが、少し笑った」
「それで十分よ」
ミュラーは顔を上げないまま、口だけで返す。
「先生って柄じゃねぇんだけどな」
ラナは笑わない。
「柄じゃなくても、必要ならやる。あなたはそういう人よ」
ミュラーは一瞬だけ黙って、ポケットの中で拳を握った。
震えはまだ残っている。残っているのに、握れるだけマシだと思ってしまうのが悔しい。
階段の一段目は、変わらずそこにあった。
ミュラーは見ないふりをして、格納庫の出口へ歩き出す。
背中に、工具の乾いた音が続く。
艦は、止まらない。止めてくれない。
ミュラーは歩きながら、さっきのスザンナの声を思い出していた。
「教官は、もう飛ばないんですか?」
答えていない。答えられていない。
でも、“飛ばない”で済む状況が、この先も続くとは思えなかった。
通路の角を曲がる直前、ミュラーは一度だけ、格納庫の明かりを振り返りそうになって
――やめた。
格納庫を離れた頃には、艦内はもう夜の運用へ切り替わっていた。
ミュラーはそのまま最終報告のためにブリーフィング室へ向かう。
扉を開けた瞬間、格納庫の空気を吸ったあとだと、ブリーフィング室の乾いた匂いがやけに薄く感じた。
机に並ぶ端末の待機光。壁面モニターの青白さ。椅子を引く音が揃うたび、室内の空気が一段ずつ硬くなっていく。
ミュラーは、壁際に立ったまま入室した。
席はある。だが座る理由が見つからない。いまの自分は、ここに混ざってはいけない気がした。
――さっき、格納庫の階段の一段目で止まった。
足が止まったというより、身体が前に出なかった。
握ろうとした手が勝手に細かく震えて、手すりの冷たさだけがやけに鮮明だった。
「無理に乗せるつもりはない」
背後のラナの声を思い出す。
優しさで言ったわけじゃない。判断として言った声だった。
その判断に甘えたくなくて、ミュラーはここに来た。
――見るだけでも、逃げないために。
扉がもう一度開く。
「……失礼します」
あすみが入ってきた。先にセリが入っていて、半歩遅れて彼女を迎える形になっている。
あすみはヘルメットを脇に抱えていた。髪はきちんと整え直している。
頬に汚れもない。なのに、目だけが戦場のままだった。
“兵器の目”
ミュラーの胸の奥が、嫌に冷える。
子どものころから見てきた顔。その目が、いまは「必要なものだけ」を拾う目になっていた。
ラナが短く告げた。「開始。帰還報告から」
あすみが前に立つ。モニターに航跡ログが上がり、数字が並ぶ。
彼女の声は、震えていない。張り上げもしない。必要な音量だけで、淡々と届く。
「敵SKY、四機。接触は二回。こちらの損耗は軽微。交戦距離は――」
順番が、きれいだった。整理の仕方が、完璧だった。
“戦果”が先に来て、“人”が後ろに回る。
それが、もう癖になっている。
セリが一度だけ目を伏せる。アンとジョンは後方にいて、騒がない。騒げない空気を読んでいる。
あすみは続ける。
「交戦宙域に民間輸送艇の残存を確認。迂回のため、予定ルートから〇・二秒遅延。回避行動を優先しました」
“民間”が出たのに、言い方は変わらない。
「守った」ではなく「要因」。遅延理由の一つとして、処理されるだけ。
ミュラーの喉の奥に、苦いものが上がる。
――俺も、そうだった。
戦果を出すために、守るために、最短の手順を選ぶ。
壁面モニターの端が切り替わり、回線の接続音が短く鳴った。
ノーザン・クロス艦内の空気と違う、外の回線の乾いたノイズが混ざる。
『統合司令部、評価を伝達する』
誰の声か分からない。分からないように作られている声だ。
『戦果は良好。敵SKY部隊への抑止として十分な結果である』
ミュラーは、奥歯を噛む。
“良好”。それだけで片づける言い方。
回線の声が続いた。
『また、オルタイト保有者の戦闘能力は有用。今後も前線での運用を継続――』
“保有者”。人の名前を消す単語。
ミュラーの視界が、ほんの一瞬だけ狭くなる。
頭の奥が熱くなるのに、表情は動かない。動かしたら、この場で自分が壊れる。
あすみが、ほんのわずかに瞬きをする。
瞬きをしただけで、拒否も肯定もない。与えられた評価を、そのまま取り込む顔だ。
ミュラーは、思い出してしまう。白銀の獅子、と呼ばれていたころ。
「有用」「運用」「戦果」。
そう言われるたび、自分の中から何かが削れていったのに、それでも笑って敬礼していた。
笑うのが一番早かった。反論するより、次の任務に行くほうが簡単だった。
その結果、地上に落ちたものを見て、ようやく気づいた。
――腕と、血と、ぬいぐるみ。
ミュラーは目を閉じない。代わりに、呼吸を一つだけ深くする。
回線の声はまだ続いていた。
『民間被害については、現時点では小規模。作戦遂行に影響なし――』
影響なし。
ミュラーの指先が、壁に触れた。
触れた瞬間、わずかに震えが戻る。さっきの階段の一段目と同じ震えだ。
怒りと怖さが、同じ場所から出てくるのが分かる。
ラナが、短く言った。「こちらの判断で守る。以上」
遮断の音。回線が切れる。
室内に、艦内の静けさが戻った。
誰かが小さく息を吐いた。
椅子が鳴る。端末の画面が閉じられる音が重なる。
それだけの音が、しばらくやけに大きく響いていた。
あすみは最後まで姿勢を崩さない。報告を終えたあとも、敬礼をして、戻る。
その動きが正確すぎて、ミュラーの胸が痛む。
――正確であるほど、助けを求めなくなる。
ミュラーは壁際から動けなかった。苛立っているのは、あすみじゃない。
あすみをそういう順番に追い込む運用で、それを「分かっていながら」止められない自分だ。
ミュラーは、胸の奥で一度だけ言った。
(……ふざけるな)
声にはしない。
あすみが扉の方へ向かう。セリが一歩遅れてついていく。
その背中に、ミュラーは何も投げられなかった。
代わりに、ミュラーは拳をほどいた。ほどいた掌に、爪の跡が白く残っていた。




