Sky85-折れた牙-
医務区画へ続く通路は白く、磨かれた床に照明の光が冷たく落ちていた。艦の奥を走る機械の振動が、壁の内側で低く鳴っている。
避難民の移送が一段落したとはいえ、まだ人の出入りは絶えていない。看護師が早足で角を曲がり、担架の車輪が遠くで短く軋む。
その合間の、ほんの少しだけ空いた静けさの中に、セリは立っていた。
壁にもたれたまま、片手で首の後ろを押さえている。顔色は悪くない。
けれど、肩の力の入り方だけがいつもと違っていた。疲れているのを隠すのは昔から上手い。
隠し方まで、LAAの頃から変わらない。
ミュラーは少し離れたところで足を止めた。セリも気配に気づき、顔を上げる。
「よお、どうだ。現場には慣れたか。」
軽い調子の問いだった。
けれど、声の底に探る響きがあることくらい、セリにも分かっている。
「…入隊何年目だと思ってんですか。慣れましたよ。」
返事はすぐだった。少しだけ口元を動かして、いつもの調子を作る。ミュラーは鼻で笑う。
「まぁ、お前はな。」
短い間が落ちた。
通路の向こうで、誰かが扉を閉める音がした。セリはその音を聞き流したまま、先に本題へ切り込む。
「ーーーあすみの事、聞きたいんですか?」
ミュラーは否定しない。視線だけを少し動かし、セリの顔を見た。
「…それもある。お前のことも心配してる。昔っから飛び方にでんだよ、お前は。」
その言い方に、セリの喉がわずかに動く。図星を刺された時の、黙って飲み込む癖だった。
「俺は大丈夫です。あいつだって…」
言い切る前に、ミュラーは軽くため息を吐く。
“あいつだって”の先に何を置こうとしたのか、聞かなくても分かった。
守りたいのか、庇いたいのか、それともまだ認めたくないのか。
たぶん全部だ。
ミュラーは壁から身体を起こし、セリの正面までは行かず、その少し横に立つ。
追い詰めない距離だった。
「お前らが、LAAの頃から踏ん張って立ってんのは、俺も知ってる。事情もな。でも、今とあの頃じゃ、何か違う。西方でなにがあった?」
その問いに、セリはすぐには答えなかった。目線が一度だけ逸れて、床の白い光を踏む。靴先の向きがわずかに変わる。
逃げたいわけじゃない。ただ、ここで口を開けば何かが決定的になると分かっている顔だった。
「それを答えるのは…命令ですか?」
ミュラーは即答する。「違う。」
そこでセリは、ほんの短く息を吐いた。逃げ道がなくなったというより、逆だった。
命令ではないなら、自分で選ばなければならない。その選択の方が、いまはずっと重い。
「じゃあ、言いたくありません。」
通路の空気が一瞬だけ止まる。ミュラーは表情を変えなかった。
「……言わなきゃ何もできねえけど。」
それでもセリは首を振らない。視線を上げたまま、言葉だけを置く。
「それでも、答えたくありません。」
声は大きくない。強くもない。
なのに、そこにある拒絶ははっきりしていた。感情的に突っぱねているんじゃない。
言えば立っていられなくなると知っていて、ぎりぎりのところで押し留めている。
ミュラーは黙った。セリの顔を見る。目の下には薄い影が落ちている。
いつものように立ってはいるが、踏ん張っている足場が見える顔だった。
(……言ったら立ってられないって顔だな)
それ以上、追い込むのは違うと分かった。
ここで無理にこじ開けても、出てくるのは答えじゃなく、壊れた音だけだ。
セリの方が先に視線を外した。話はもう終わりだと、自分に言い聞かせるみたいに背筋を伸ばす。
「じゃあ、検診に行くんで、失礼します。」
言い終わると同時に、壁から身体を離す。ミュラーの横を通り過ぎる時も、歩幅は乱れなかった。
すれ違いざま、ミュラーは何も言わない。止めることも、呼び止めることもしなかった。
セリの足音が通路の先へ遠ざかっていく。白い照明の下に、その背中だけがしばらく残って見えた。
やがて通路の角を曲がり、医務室の扉が開く。
医務室の照明は白く、機械の低い駆動音が床に薄く響いていた。消毒液の匂いに混じって、金属と薬品の乾いた気配がある。
採血用のトレイに並んだ器具が、灯りを受けて鈍く光っていた。
セリは診察用の椅子に浅く腰を掛け、袖を肘までまくっていた。壁際のモニターには心拍と生体値が淡く流れ、細い数値だけが静かに変わっていく。
向かいでは、エリンが端末を操作しながら、採血チューブのラベルを一つずつ確かめていた。
手つきに迷いがない。長い時間を医務室で過ごしてきた人の動きだった。
エリンはラベルを確認し終えると、採血管を光に透かし、セリの方へ視線を向けた。
「DNA自体には問題なさそうね。髪の毛と目の色は、少し薄くなったみたいだけど。問題なく乗れてる?」
セリは椅子の背にもたれず、まっすぐ前を見たまま答える。
「……まあ。なんとか、乗れてます」
「あなたもしっかり眠りなさいね。西方はハードだったでしょう」
西方。
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥に沈めていたものが浮いた。
(西方……言った方がいい。カイトのこと)
(でも、ここで口にしたら。誰かに漏れるかもしれない)
喉の奥が、かすかに乾く。
セリは舌先で唇の内側を押し、少しだけ呼吸を整えた。けれど、鼓動だけが妙に近い。
「……おばさん」
エリンは端末から目を離し、静かに返す。
「なに?」
「俺……西方で――」
言葉はそこまでだった。喉の奥から先へ出ない。
目の前にいるのは、ずっとカイトを探し続けてきた母親だ。
見つけてほしいと思っていた時間より、言わないままでいた時間の方が、もう長い。
“言わない”が優しさになることもあると、分かってしまっている。分かっているのに、胸の奥だけがきしむ。
「……アルクトリで……」
その瞬間だった。
エリンの手が伸びて、セリの手を握った。
指先は温かいのに、力は思っていたより強い。逃がさないためじゃない。止めるための強さだった。
セリははっとして顔を上げる。まっすぐな眼が、すぐ近くにあった。
カイトと同じ種類の、揺れない眼。
「……言わなくていい。分かるから」
その言葉に、胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩む。
いつから?
どうして?
浮かんでは消える言葉より先に、安堵だけが先に広がっていく。
セリは小さく息を吐いた。吐いた息が、思っていたより熱かった。
「あなたは昔から、ずっと優しいのね」
「……俺は」続きが出ない。
何を言えばいいのか、自分でも分からない。
「行きなさい。言わなくていいから」エリンは手を離さなかった。
ただ、ほんの少しだけ握る力を緩めた。
それが「大丈夫」の合図に見えた。
その眼に、もう探す色はなかった。
探し続けた人間だけが持つ、諦めない代わりに決めてしまった静けさがあった。
セリはゆっくり立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、短い音を立てた。
何か言おうとして、結局何も言えないまま、視線だけを一度落とす。
端末も、採血管も、そのまま机の上に置いたまま、ただセリを見ていた。
セリは黙って医務室を出ていく。
扉が閉まる音が、艦の低い振動に吸い込まれていった。消毒液の匂いが薄く残る。
採血用のトレイに並んだ器具が、白い照明に鈍く反射していた。
エリンは手袋を外し、端末の画面を一度閉じる。ほんの短い間。息を整えるみたいに、肩を落とした。
ブリーフィングルームの照明は半分だけ落とされていた。
壁際のモニターは黒いままで、机の上には飲みかけの紙コップと端末が散らばっている。
避難民の移送と検診の合間に押し込まれた短い休憩時間だった。
艦の低い振動が床の下で鳴り続け、換気の音が一定のまま天井を流れていく。
誰も大きな声は出していないのに、部屋の空気は完全には緩まなかった。
ジョンは椅子を少し後ろに倒し、片肘を机についたままあすみを見ていた。
向かいに座るあすみは、紙コップを両手で包むでもなく、いつも通りの姿勢で持っている。
「あすみ、西方行ってから戦果の上げ方やばくない?」
あすみは紙コップを口元から少し離し、何気ない顔で首を傾けた。
「そう?」
「早い・正確・迷いなし」
「やめてよ。叩き売りみたい。」
その返しにジョンが笑う。
つられて部屋の空気も少しだけ動いた。笑っているあすみの指先の、ほんの少しの震えにジョンは気づかない。
アンはその震えに気づいていた。ほんの少しだけ、あすみの様子を伺う。笑い方も、声の高さも、受け答えの速さもおかしくない。
なのに、何かだけが噛み合っていない。
「……ねえ、西方で乗る時、どんな感じ?」」
あすみはカップを持ち替えて、笑った。
「終わったら何食べようかな。とかかな?」
「お前食いしん坊かよ」ジョンが吹き出すみたいに笑う。
あすみも笑う。
でも、アンだけは、あすみの目の奥に動かない光があることに不安を覚えていた。
その時、ブリーフィングルームの扉が開いた。音は大きくなかったのに、室内の空気が少しだけ締まる。
セリが入ってきたのだと、振り向く前に分かった。
セリは扉のところで足を止め、そのままあすみを呼ぶ。
「……あすみ。検査。お前の番だぞ。医務室行け」
「うん、わかった」
あすみは椅子から立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
歩幅に迷いはない。背中はまっすぐで、いつも通りに見える。それが余計に、アンの胸に引っかかった。
セリが持っていたコーヒーをテーブルに置き、ジョンの隣に座る。
椅子を引く音が、やけに硬く聞こえた。
アンが、セリに向かって声を落とす。
「……ちょっと。どういうことよ」
ジョンはアンのその声に一瞬で真顔になり、黙った。
セリは目線だけをアンに向ける。
「何が」
机に置いたアンの手に力が入る。指先が、紙コップの影のすぐ横でぴたりと止まっていた。
「あすみ」
「なんなの、あの目。あんた、西方でなにやってたの」
セリのアンを見る目の温度が変わる。
さっきまで医務室からここまで歩いてきた疲労とも違う、もっと深いところの硬さだった。
「……うるせえな。関係ねえだろ」
アンは唇を固く結び、席を立つ。
言い返さないまま、そのまま無言で部屋を出ていった。
「……おい、言い方……」ジョンがセリを見て、そこでまた黙る。
セリは返さない。カップを持ったまま、親指の腹だけがゆっくり沈んでいく。
陶器が鳴る寸前で、力を抜いた。
それから少しして、医務室の扉がノックされた。
ノックは控えめだった。返事を待たずに扉が開き、細い影が滑るように入ってくる。
あすみだった。
歩き方が、前と少し違う。急いでいないのに、迷いもない。
目線がまっすぐで、どこにも引っかからない。
艦内の音も匂いも、全部“情報”として拾って、感情がそこに混ざらない歩き方だった。
「……座って」
エリンが椅子を示すと、あすみは無言で従った。背筋は伸びている。
膝の上に手を置き、指先だけがわずかに動く。止まろうとして止まらない、細い震え。
エリンは準備を手早く整え、あすみの腕に駆血帯を巻く。
皮膚に触れた瞬間、あすみの表情がほんの一拍だけ遅れて反応した。
痛みに鈍いのではない。痛みを“感じないふり”が上手くなっているだけだ。
針が入る。採血管に赤が満ちていく。
「やっと戻ってきたわね。どう? 久しぶりのノーザンクロスは」
エリンが軽く声をかけると、あすみは視線を落としたまま答えた。
「……部屋が、元のままでした」
「そうなの。ラナがね、いつ里帰りしてもいいように、そのままにしておくって」
その言い方は、冗談みたいで優しい。
でもあすみは笑わなかった。笑うタイミングを測る必要がない顔だった。
採血を終え、エリンはコットンを押さえてテープで留める。
そのまま正面に座り直す。
あすみの眼を見る。
濁っていない。焦点も合っている。けれど、奥に薄い翳りがある。
光が届かない場所を、一度見てきた人の翳りだった。
エリンはそれを見逃さない。
「……あすみちゃん。眠れてないでしょう?」
あすみのまぶたが、ほんの少しだけ動いた。
反射で否定する前に、一度“考えた”痕が出る。
「……寝てます」
「必要なら、薬出すわよ」
「いえ。大丈夫です」あすみの声は丁寧で、硬い。
丁寧すぎる硬さは、心の距離を作る。
(……西方で、何かあったのね)
エリンは内心で息を吐き、端末に視線を落とした。
検査項目を確認しながら、あすみを横目で追う。
あすみがふいに顔を上げる。エリンの眼を見る。
――見ているようで、見ていない。
その奥に、誰かを重ねている。
それが分かった瞬間、エリンの胸の奥が冷えた。
「……おばさんの眼、カイトにそっくり」
ぽろりと落ちた言葉だった。
言った本人が一番驚いたみたいに、あすみの口元が一瞬だけ固まる。
すぐに、あすみは唇を結んで、視線を逸らした。
自分の中に出てきたものを、急いでしまい込む仕草。
エリンは笑わない。否定もしない。ただ、あすみの呼吸の浅さだけを数える。
(……危ないわ。たぶん、すごく)
端末に結果が表示される。
エリンは淡々と診断書へ記入した。ペン先が紙の上を滑り、乾いた音がする。
最後に一度だけ、あすみに向き直る。
「問題なさそうね。でも、無理はしないで。約束よ」
あすみは小さく頷いた。頷き方も、もう“兵士”だった。
「……はい。分かりました」
椅子が引かれる音。
あすみは立ち上がり、医務室の出口へ向かう。振り返らない。
扉が閉まる直前、艦の振動が一段だけ大きく感じられた。
エリンはしばらく、閉まった扉を見つめたまま動かなかった。
消毒液の匂いの中で、さっきの言葉だけが、いつまでも残っていた。
隣室の病室のカーテンが、わずかに揺れた。
消毒液の匂いがまだ薄く残る中で、サラはベッドの背を少し起こしたまま、その音の方へ顔を向けていた。
医務室の白い灯りがカーテン越しに淡くにじみ、機械の低い駆動音が絶えず床を伝ってくる。
起き上がれるようにはなっても、病室の空気はまだ完全に日常へ戻ってはいなかった。
戻ってきたエリンがカーテンを軽く押さえ、サラの様子を確かめる。
サラはすぐにはエリンを見ず、さっき閉じた扉の方へ視線を残したまま、小さく息を動かした。
「起きてたのね」
「……今の子……」
エリンはサラの視線の先を一度だけ振り返る。
あすみが出ていった扉はもう閉じていて、その向こうに残っているのは足音の気配だけだった。
「ああ、パイロットの子よ。検診だったの」
サラはそこでようやくエリンへ目を向けた。
眠っていた時間は長かったはずなのに、目の奥にはまだ疲れが沈んでいる。
けれど、さっきまでの“何も見えていない”顔ではなかった。見ようとしている顔だった。
「今の子が、REDROSEですね」
「資料は父の仕事で拝見してます」
言葉は整っているのに、声はどこか遠かった。
知識として知っていた名と、いま目の前を歩いていった一人の少女が、やっと重なったような言い方だった。
エリンはベッド脇に立ったまま、静かに頷く。
「そう。REDROSEって呼ばれてる子」
「古賀あすみ一等兵よ」」
サラは少しだけ黙った。
その名を心の中でなぞるみたいに、唇がほんのわずかに動く。
それから、また扉の方へ視線を戻した。
「あの子も、あの時のミュラーと同じくらいの年齢ですね」
その一言に、エリンは返事を急がなかった。医務室の白い光の下で、サラの顔を見る。
父を亡くした娘の顔でありながら、もうそこには自分の痛みだけを抱えている目ではなく、
別の誰かを見てしまった人の目があった。
「――そうね」エリンは短い肯定だけを置く。
余計な言葉を足せば、かえって浅くなる気がした。
サラはそれ以上何も言わなかった。
シーツの上に置いた指先が、わずかに握られてまた緩む。
白いカーテンの向こうで、艦の振動が途切れず続いていた。
(……あの子も、戦場に立ってる)
同じ夜、ミュラーは格納庫へと足を向けていた。
深夜の格納庫は静かだった。
整備灯だけが薄く機体を照らし、訓練用のSKYの白い装甲を夜の底から浮かび上がらせている。
工具の音も、整備員の声も、もう遠い。艦の低い振動だけが、鉄骨の内側を絶えず流れていた。
ミュラーは整備足場を上がり、訓練用のSKYのコクピットに体を沈めた。
実戦機より軽い。計器も簡易だ。出力も抑えられている。
訓練用――その言葉だけなら、怖がる理由なんてどこにもないはずだった。
背中がシートに触れる。視界の端で、薄い計器灯が点いたまま揺れない。
ミュラーは右手を持ち上げた。操縦桿へ伸ばす。指先が、届く距離までいく。
その瞬間だった。
喉が急に狭くなる。
息を吸おうとしても、空気がうまく入ってこない。
胃の奥がひっくり返るみたいに持ち上がって、遅れて吐き気が一気に込み上げた。
「……っ、くそっ!」
指先が止まる。
掴めない。
たったそれだけのことが、背中を冷たく這い上がってくる。
額の内側がずきずきと脈を打ち、喉の奥が焼けるみたいに熱い。
吐きそうなのに吐けない。込み上げたものが胸のあたりで引っかかって、呼吸だけが浅くなる。
ミュラーは咄嗟に手を引いた。
顔を伏せたまま、荒くならないように息を整えようとする。
整えようとしているのに、余計に自分の呼吸のずれだけがはっきり分かった。
静かな機内だった。
静かなはずなのに、頭の奥だけが遠くうるさい。
少しして、ミュラーは無理やり背を起こした。
それ以上コクピットに残っているのが、情けないのか、悔しいのか、自分でも分からない。
ただ、いまここで吐くわけにはいかない、その意地だけで体を動かす。
足場へ降りる。
一段、また一段。手すりを握る手に、まだ力が入りきらない。
靴底が金属を踏むたび、硬い音が格納庫に小さく散った。
床に降りたところで、ようやく息を吐く。
吐いたのに、胸のつかえは落ちない。
握った右手に爪が食い込み、遅れて痛みが返ってくる。
掴めなかった。
訓練用の、何でもない操縦桿ひとつ、触れられなかった。
その事実だけが、喉の奥に苦く残った。
ミュラーは視線を上げなかった。
上げた先に機体があるのが分かっていたからだ。
白い装甲も、開いたままのコクピットも、全部、黙ってそこにある。
責めてくるわけじゃないくせに、責められているみたいだった。
少し離れた整備足場の影で、ガナシュがその様子を見ていた。
近づかない。声もかけない。
ミュラーが降りてくるところから、床に立って動けずにいる今まで、ずっと視線だけを置いている。
ガナシュは動かない。助け起こすでも、慰めるでも、諦めた顔をするでもない。
ただ、そこで待っている。まだ終わった人間を見る目ではなかった。
整備灯の白い光が、訓練用SKYの足元を鈍く照らしている。
ミュラーはようやく、奥歯を強く噛んだ。吐き気とは別の熱が、胸の底に遅れて広がってくる。
悔しかった。
誰かに負けたわけでもない。敵がいたわけでもない。
それでも、いま一番許せないのは自分の体だった。
奥歯が鳴るほど、強く噛んでいた。
喉の奥がもう一度ひくりと動く。
ミュラーは何も言わず、拳を握ったまま立っていた。
足場の影から、ガナシュはそれを見ている。
(ミュラー、ーー戻って来い)
整備灯の白い光が、二人のあいだの床だけを静かに照らしていた。




