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SKY  作者: RUI
SILVER LION

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85/93

Sky85-折れた牙-

 



 医務区画へ続く通路は白く、磨かれた床に照明の光が冷たく落ちていた。艦の奥を走る機械の振動が、壁の内側で低く鳴っている。

 避難民の移送が一段落したとはいえ、まだ人の出入りは絶えていない。看護師が早足で角を曲がり、担架の車輪が遠くで短く軋む。

 その合間の、ほんの少しだけ空いた静けさの中に、セリは立っていた。


 壁にもたれたまま、片手で首の後ろを押さえている。顔色は悪くない。

 けれど、肩の力の入り方だけがいつもと違っていた。疲れているのを隠すのは昔から上手い。

 隠し方まで、LAAの頃から変わらない。


 ミュラーは少し離れたところで足を止めた。セリも気配に気づき、顔を上げる。

「よお、どうだ。現場には慣れたか。」


 軽い調子の問いだった。

 けれど、声の底に探る響きがあることくらい、セリにも分かっている。

「…入隊何年目だと思ってんですか。慣れましたよ。」

 返事はすぐだった。少しだけ口元を動かして、いつもの調子を作る。ミュラーは鼻で笑う。

「まぁ、お前はな。」

 短い間が落ちた。

 通路の向こうで、誰かが扉を閉める音がした。セリはその音を聞き流したまま、先に本題へ切り込む。

「ーーーあすみの事、聞きたいんですか?」

 ミュラーは否定しない。視線だけを少し動かし、セリの顔を見た。

「…それもある。お前のことも心配してる。昔っから飛び方にでんだよ、お前は。」

 その言い方に、セリの喉がわずかに動く。図星を刺された時の、黙って飲み込む癖だった。

「俺は大丈夫です。あいつだって…」


 言い切る前に、ミュラーは軽くため息を吐く。

 “あいつだって”の先に何を置こうとしたのか、聞かなくても分かった。

 守りたいのか、庇いたいのか、それともまだ認めたくないのか。


 たぶん全部だ。


 ミュラーは壁から身体を起こし、セリの正面までは行かず、その少し横に立つ。

 追い詰めない距離だった。

「お前らが、LAAの頃から踏ん張って立ってんのは、俺も知ってる。事情もな。でも、今とあの頃じゃ、何か違う。西方でなにがあった?」

 その問いに、セリはすぐには答えなかった。目線が一度だけ逸れて、床の白い光を踏む。靴先の向きがわずかに変わる。

 逃げたいわけじゃない。ただ、ここで口を開けば何かが決定的になると分かっている顔だった。

「それを答えるのは…命令ですか?」

 ミュラーは即答する。「違う。」

 そこでセリは、ほんの短く息を吐いた。逃げ道がなくなったというより、逆だった。

 命令ではないなら、自分で選ばなければならない。その選択の方が、いまはずっと重い。

「じゃあ、言いたくありません。」


 通路の空気が一瞬だけ止まる。ミュラーは表情を変えなかった。

「……言わなきゃ何もできねえけど。」


 それでもセリは首を振らない。視線を上げたまま、言葉だけを置く。

「それでも、答えたくありません。」


 声は大きくない。強くもない。

 なのに、そこにある拒絶ははっきりしていた。感情的に突っぱねているんじゃない。

 言えば立っていられなくなると知っていて、ぎりぎりのところで押し留めている。


 ミュラーは黙った。セリの顔を見る。目の下には薄い影が落ちている。

 いつものように立ってはいるが、踏ん張っている足場が見える顔だった。


(……言ったら立ってられないって顔だな)


 それ以上、追い込むのは違うと分かった。

 ここで無理にこじ開けても、出てくるのは答えじゃなく、壊れた音だけだ。


 セリの方が先に視線を外した。話はもう終わりだと、自分に言い聞かせるみたいに背筋を伸ばす。

「じゃあ、検診に行くんで、失礼します。」

 言い終わると同時に、壁から身体を離す。ミュラーの横を通り過ぎる時も、歩幅は乱れなかった。


 すれ違いざま、ミュラーは何も言わない。止めることも、呼び止めることもしなかった。

 セリの足音が通路の先へ遠ざかっていく。白い照明の下に、その背中だけがしばらく残って見えた。


 やがて通路の角を曲がり、医務室の扉が開く。


 医務室の照明は白く、機械の低い駆動音が床に薄く響いていた。消毒液の匂いに混じって、金属と薬品の乾いた気配がある。

 採血用のトレイに並んだ器具が、灯りを受けて鈍く光っていた。


 セリは診察用の椅子に浅く腰を掛け、袖を肘までまくっていた。壁際のモニターには心拍と生体値が淡く流れ、細い数値だけが静かに変わっていく。


 向かいでは、エリンが端末を操作しながら、採血チューブのラベルを一つずつ確かめていた。

 手つきに迷いがない。長い時間を医務室で過ごしてきた人の動きだった。


 エリンはラベルを確認し終えると、採血管を光に透かし、セリの方へ視線を向けた。

「DNA自体には問題なさそうね。髪の毛と目の色は、少し薄くなったみたいだけど。問題なく乗れてる?」


 セリは椅子の背にもたれず、まっすぐ前を見たまま答える。

「……まあ。なんとか、乗れてます」


「あなたもしっかり眠りなさいね。西方はハードだったでしょう」

 西方。

 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥に沈めていたものが浮いた。

(西方……言った方がいい。カイトのこと)

(でも、ここで口にしたら。誰かに漏れるかもしれない)

 喉の奥が、かすかに乾く。

 セリは舌先で唇の内側を押し、少しだけ呼吸を整えた。けれど、鼓動だけが妙に近い。

「……おばさん」

 エリンは端末から目を離し、静かに返す。

「なに?」

「俺……西方で――」

 言葉はそこまでだった。喉の奥から先へ出ない。

 目の前にいるのは、ずっとカイトを探し続けてきた母親だ。

 見つけてほしいと思っていた時間より、言わないままでいた時間の方が、もう長い。

 “言わない”が優しさになることもあると、分かってしまっている。分かっているのに、胸の奥だけがきしむ。

「……アルクトリで……」

 その瞬間だった。

 エリンの手が伸びて、セリの手を握った。

 指先は温かいのに、力は思っていたより強い。逃がさないためじゃない。止めるための強さだった。


 セリははっとして顔を上げる。まっすぐな眼が、すぐ近くにあった。

 カイトと同じ種類の、揺れない眼。

「……言わなくていい。分かるから」

 その言葉に、胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩む。


 いつから?

 どうして?


 浮かんでは消える言葉より先に、安堵だけが先に広がっていく。

 セリは小さく息を吐いた。吐いた息が、思っていたより熱かった。

「あなたは昔から、ずっと優しいのね」

「……俺は」続きが出ない。

 何を言えばいいのか、自分でも分からない。

「行きなさい。言わなくていいから」エリンは手を離さなかった。

 ただ、ほんの少しだけ握る力を緩めた。

 それが「大丈夫」の合図に見えた。

 その眼に、もう探す色はなかった。

 探し続けた人間だけが持つ、諦めない代わりに決めてしまった静けさがあった。

 セリはゆっくり立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、短い音を立てた。

 何か言おうとして、結局何も言えないまま、視線だけを一度落とす。

 端末も、採血管も、そのまま机の上に置いたまま、ただセリを見ていた。

 セリは黙って医務室を出ていく。

 扉が閉まる音が、艦の低い振動に吸い込まれていった。消毒液の匂いが薄く残る。

 採血用のトレイに並んだ器具が、白い照明に鈍く反射していた。

 エリンは手袋を外し、端末の画面を一度閉じる。ほんの短い間。息を整えるみたいに、肩を落とした。


 ブリーフィングルームの照明は半分だけ落とされていた。

 壁際のモニターは黒いままで、机の上には飲みかけの紙コップと端末が散らばっている。

 避難民の移送と検診の合間に押し込まれた短い休憩時間だった。


 艦の低い振動が床の下で鳴り続け、換気の音が一定のまま天井を流れていく。

 誰も大きな声は出していないのに、部屋の空気は完全には緩まなかった。


 ジョンは椅子を少し後ろに倒し、片肘を机についたままあすみを見ていた。

 向かいに座るあすみは、紙コップを両手で包むでもなく、いつも通りの姿勢で持っている。


「あすみ、西方行ってから戦果の上げ方やばくない?」


 あすみは紙コップを口元から少し離し、何気ない顔で首を傾けた。

「そう?」


「早い・正確・迷いなし」


「やめてよ。叩き売りみたい。」


 その返しにジョンが笑う。

 つられて部屋の空気も少しだけ動いた。笑っているあすみの指先の、ほんの少しの震えにジョンは気づかない。


 アンはその震えに気づいていた。ほんの少しだけ、あすみの様子を伺う。笑い方も、声の高さも、受け答えの速さもおかしくない。

 なのに、何かだけが噛み合っていない。

「……ねえ、西方で乗る時、どんな感じ?」」


 あすみはカップを持ち替えて、笑った。

「終わったら何食べようかな。とかかな?」


「お前食いしん坊かよ」ジョンが吹き出すみたいに笑う。

 あすみも笑う。

 でも、アンだけは、あすみの目の奥に動かない光があることに不安を覚えていた。


 その時、ブリーフィングルームの扉が開いた。音は大きくなかったのに、室内の空気が少しだけ締まる。

 セリが入ってきたのだと、振り向く前に分かった。


 セリは扉のところで足を止め、そのままあすみを呼ぶ。

「……あすみ。検査。お前の番だぞ。医務室行け」


「うん、わかった」

 あすみは椅子から立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。

 歩幅に迷いはない。背中はまっすぐで、いつも通りに見える。それが余計に、アンの胸に引っかかった。


 セリが持っていたコーヒーをテーブルに置き、ジョンの隣に座る。

 椅子を引く音が、やけに硬く聞こえた。


 アンが、セリに向かって声を落とす。

「……ちょっと。どういうことよ」


 ジョンはアンのその声に一瞬で真顔になり、黙った。

 セリは目線だけをアンに向ける。

「何が」


 机に置いたアンの手に力が入る。指先が、紙コップの影のすぐ横でぴたりと止まっていた。

「あすみ」

「なんなの、あの目。あんた、西方でなにやってたの」


 セリのアンを見る目の温度が変わる。

 さっきまで医務室からここまで歩いてきた疲労とも違う、もっと深いところの硬さだった。

「……うるせえな。関係ねえだろ」


 アンは唇を固く結び、席を立つ。

 言い返さないまま、そのまま無言で部屋を出ていった。


「……おい、言い方……」ジョンがセリを見て、そこでまた黙る。


 セリは返さない。カップを持ったまま、親指の腹だけがゆっくり沈んでいく。

 陶器が鳴る寸前で、力を抜いた。



 それから少しして、医務室の扉がノックされた。


 ノックは控えめだった。返事を待たずに扉が開き、細い影が滑るように入ってくる。

 あすみだった。

 歩き方が、前と少し違う。急いでいないのに、迷いもない。

 目線がまっすぐで、どこにも引っかからない。

 艦内の音も匂いも、全部“情報”として拾って、感情がそこに混ざらない歩き方だった。


「……座って」

 エリンが椅子を示すと、あすみは無言で従った。背筋は伸びている。

 膝の上に手を置き、指先だけがわずかに動く。止まろうとして止まらない、細い震え。


 エリンは準備を手早く整え、あすみの腕に駆血帯を巻く。

 皮膚に触れた瞬間、あすみの表情がほんの一拍だけ遅れて反応した。

 痛みに鈍いのではない。痛みを“感じないふり”が上手くなっているだけだ。

 針が入る。採血管に赤が満ちていく。


「やっと戻ってきたわね。どう? 久しぶりのノーザンクロスは」

 エリンが軽く声をかけると、あすみは視線を落としたまま答えた。


「……部屋が、元のままでした」

「そうなの。ラナがね、いつ里帰りしてもいいように、そのままにしておくって」

 その言い方は、冗談みたいで優しい。

 でもあすみは笑わなかった。笑うタイミングを測る必要がない顔だった。


 採血を終え、エリンはコットンを押さえてテープで留める。

 そのまま正面に座り直す。


 あすみの眼を見る。


 濁っていない。焦点も合っている。けれど、奥に薄い翳りがある。

 光が届かない場所を、一度見てきた人の翳りだった。


 エリンはそれを見逃さない。

「……あすみちゃん。眠れてないでしょう?」


 あすみのまぶたが、ほんの少しだけ動いた。

 反射で否定する前に、一度“考えた”痕が出る。

「……寝てます」


「必要なら、薬出すわよ」


「いえ。大丈夫です」あすみの声は丁寧で、硬い。

 丁寧すぎる硬さは、心の距離を作る。


(……西方で、何かあったのね)


 エリンは内心で息を吐き、端末に視線を落とした。

 検査項目を確認しながら、あすみを横目で追う。


 あすみがふいに顔を上げる。エリンの眼を見る。


 ――見ているようで、見ていない。

 その奥に、誰かを重ねている。

 それが分かった瞬間、エリンの胸の奥が冷えた。


「……おばさんの眼、カイトにそっくり」

 ぽろりと落ちた言葉だった。

 言った本人が一番驚いたみたいに、あすみの口元が一瞬だけ固まる。


 すぐに、あすみは唇を結んで、視線を逸らした。

 自分の中に出てきたものを、急いでしまい込む仕草。


 エリンは笑わない。否定もしない。ただ、あすみの呼吸の浅さだけを数える。


(……危ないわ。たぶん、すごく)


 端末に結果が表示される。

 エリンは淡々と診断書へ記入した。ペン先が紙の上を滑り、乾いた音がする。


 最後に一度だけ、あすみに向き直る。

「問題なさそうね。でも、無理はしないで。約束よ」


 あすみは小さく頷いた。頷き方も、もう“兵士”だった。

「……はい。分かりました」


 椅子が引かれる音。

 あすみは立ち上がり、医務室の出口へ向かう。振り返らない。

 扉が閉まる直前、艦の振動が一段だけ大きく感じられた。


 エリンはしばらく、閉まった扉を見つめたまま動かなかった。

 消毒液の匂いの中で、さっきの言葉だけが、いつまでも残っていた。



 隣室の病室のカーテンが、わずかに揺れた。

 消毒液の匂いがまだ薄く残る中で、サラはベッドの背を少し起こしたまま、その音の方へ顔を向けていた。

 医務室の白い灯りがカーテン越しに淡くにじみ、機械の低い駆動音が絶えず床を伝ってくる。


 起き上がれるようにはなっても、病室の空気はまだ完全に日常へ戻ってはいなかった。


 戻ってきたエリンがカーテンを軽く押さえ、サラの様子を確かめる。

 サラはすぐにはエリンを見ず、さっき閉じた扉の方へ視線を残したまま、小さく息を動かした。


「起きてたのね」


「……今の子……」


 エリンはサラの視線の先を一度だけ振り返る。

 あすみが出ていった扉はもう閉じていて、その向こうに残っているのは足音の気配だけだった。

「ああ、パイロットの子よ。検診だったの」


 サラはそこでようやくエリンへ目を向けた。

 眠っていた時間は長かったはずなのに、目の奥にはまだ疲れが沈んでいる。

 けれど、さっきまでの“何も見えていない”顔ではなかった。見ようとしている顔だった。


「今の子が、REDROSEですね」

「資料は父の仕事で拝見してます」


 言葉は整っているのに、声はどこか遠かった。

 知識として知っていた名と、いま目の前を歩いていった一人の少女が、やっと重なったような言い方だった。


 エリンはベッド脇に立ったまま、静かに頷く。

「そう。REDROSEって呼ばれてる子」

「古賀あすみ一等兵よ」」


 サラは少しだけ黙った。

 その名を心の中でなぞるみたいに、唇がほんのわずかに動く。

 それから、また扉の方へ視線を戻した。

「あの子も、あの時のミュラーと同じくらいの年齢ですね」


 その一言に、エリンは返事を急がなかった。医務室の白い光の下で、サラの顔を見る。

 父を亡くした娘の顔でありながら、もうそこには自分の痛みだけを抱えている目ではなく、

 別の誰かを見てしまった人の目があった。


「――そうね」エリンは短い肯定だけを置く。

 余計な言葉を足せば、かえって浅くなる気がした。


 サラはそれ以上何も言わなかった。

 シーツの上に置いた指先が、わずかに握られてまた緩む。

 白いカーテンの向こうで、艦の振動が途切れず続いていた。


(……あの子も、戦場に立ってる)



 同じ夜、ミュラーは格納庫へと足を向けていた。


 深夜の格納庫は静かだった。

 整備灯だけが薄く機体を照らし、訓練用のSKYの白い装甲を夜の底から浮かび上がらせている。

 工具の音も、整備員の声も、もう遠い。艦の低い振動だけが、鉄骨の内側を絶えず流れていた。


 ミュラーは整備足場を上がり、訓練用のSKYのコクピットに体を沈めた。

 実戦機より軽い。計器も簡易だ。出力も抑えられている。


 訓練用――その言葉だけなら、怖がる理由なんてどこにもないはずだった。


 背中がシートに触れる。視界の端で、薄い計器灯が点いたまま揺れない。

 ミュラーは右手を持ち上げた。操縦桿へ伸ばす。指先が、届く距離までいく。


 その瞬間だった。


 喉が急に狭くなる。

 息を吸おうとしても、空気がうまく入ってこない。

 胃の奥がひっくり返るみたいに持ち上がって、遅れて吐き気が一気に込み上げた。


「……っ、くそっ!」


 指先が止まる。

 掴めない。


 たったそれだけのことが、背中を冷たく這い上がってくる。

 額の内側がずきずきと脈を打ち、喉の奥が焼けるみたいに熱い。


 吐きそうなのに吐けない。込み上げたものが胸のあたりで引っかかって、呼吸だけが浅くなる。


 ミュラーは咄嗟に手を引いた。

 顔を伏せたまま、荒くならないように息を整えようとする。

 整えようとしているのに、余計に自分の呼吸のずれだけがはっきり分かった。


 静かな機内だった。

 静かなはずなのに、頭の奥だけが遠くうるさい。


 少しして、ミュラーは無理やり背を起こした。

 それ以上コクピットに残っているのが、情けないのか、悔しいのか、自分でも分からない。

 ただ、いまここで吐くわけにはいかない、その意地だけで体を動かす。


 足場へ降りる。

 一段、また一段。手すりを握る手に、まだ力が入りきらない。

 靴底が金属を踏むたび、硬い音が格納庫に小さく散った。


 床に降りたところで、ようやく息を吐く。

 吐いたのに、胸のつかえは落ちない。

 握った右手に爪が食い込み、遅れて痛みが返ってくる。

 掴めなかった。

 訓練用の、何でもない操縦桿ひとつ、触れられなかった。

 その事実だけが、喉の奥に苦く残った。


 ミュラーは視線を上げなかった。

 上げた先に機体があるのが分かっていたからだ。

 白い装甲も、開いたままのコクピットも、全部、黙ってそこにある。

 責めてくるわけじゃないくせに、責められているみたいだった。


 少し離れた整備足場の影で、ガナシュがその様子を見ていた。


 近づかない。声もかけない。

 ミュラーが降りてくるところから、床に立って動けずにいる今まで、ずっと視線だけを置いている。

 ガナシュは動かない。助け起こすでも、慰めるでも、諦めた顔をするでもない。

 ただ、そこで待っている。まだ終わった人間を見る目ではなかった。


 整備灯の白い光が、訓練用SKYの足元を鈍く照らしている。

 ミュラーはようやく、奥歯を強く噛んだ。吐き気とは別の熱が、胸の底に遅れて広がってくる。


 悔しかった。

 誰かに負けたわけでもない。敵がいたわけでもない。

 それでも、いま一番許せないのは自分の体だった。


 奥歯が鳴るほど、強く噛んでいた。


 喉の奥がもう一度ひくりと動く。

 ミュラーは何も言わず、拳を握ったまま立っていた。


 足場の影から、ガナシュはそれを見ている。


(ミュラー、ーー戻って来い)


 整備灯の白い光が、二人のあいだの床だけを静かに照らしていた。



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