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SKY  作者: RUI
SILVER LION

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84/93

Sky84-英雄の代償-

 

 臨時区画の通路は、人の数に対して狭すぎた。

 毛布の山、積み上がった水の箱、簡易ベッドの列。靴底が床を叩く音が重なって、どこを歩いても肩がぶつかる。


 ミュラーは名簿を閉じ、壁際に寄って道を空けた。

 救護班の声、泣き出しそうな子どもの息、金属製の折り畳み椅子を開く音。あらゆる音が通路に溜まっているのに、その中でひとつだけ、妙に整って聞こえる足音があった。


 いま、通路の向こうから別の音が来た。

 救護でも避難でもない、軍の足音。急いでいるけれど、乱れていない。

 ノーザン・クロスの艦内で、その音は目立つ。ミュラーは反射で顔を上げた。


 廊下の端、隔壁の向こうから二人が出てくる。

 先を歩くのはセリだ。腕の振りが大きい。足が止まりそうになる瞬間が一度だけあって、でも止まらない。セリが半歩だけ前に出たまま、その場の空気を切るみたいに立っている。


 その半歩後ろに、あすみがいた。


 制服は整っている。ヘルメットバッグを肩にかけ、姿勢も崩れていない。

 なのに、視線だけが違った。


 目が合うより先に、何を見ているかが分かった。

 人を探す目じゃない。状況を数える目だ。どこに何人いるか、どこが詰まっているか、救護の動線がどこで切れているか――そういうものを先に拾う目。


 ミュラーの胸の奥が、嫌な形で冷えた。


(……古賀)


 小さい頃から見てきた。

 教官として叱ったことも、笑わせたこともある。泣きそうな顔で「大丈夫です」と言って、余計に心配を増やしたことも。


 いま目の前にいるのは、同じ顔なのに――目だけが、違う。


 ミュラーは口を開きかけた。

 いつもの調子で、「よぉ、古賀。生きてたか」と言えば、少しは戻る気がした。


 でも、あすみの目がこちらを捉えた瞬間、言葉が詰まった。


 あすみの足が、一瞬だけ止まる。

 止まって、次に進む。進むのに、呼吸が浅いのが分かる。表情は崩さない。


 セリが、目の前の扉の前で一回だけためらった。


「ミュラー教官、無事でしたか!」


 ぶっきらぼうな声が、通路の空気を割る。


 ミュラーの喉が動く。

 やっと出たのは、いつもより低い声だった。

「……お前ら、ちゃんと生きてたか」

 セリが、わざと軽く返す。軽く返して、重いものを避ける。

「俺らが簡単に死ぬわけないだろ。」

 ミュラーは笑えなかった。

 笑うと、今ここにいる子どもたちの顔が浮かぶ。浮かんだら、戻れない。

 あすみが、そこでようやく口元を少しだけ動かした。

「……教官」

 声が出たのに、続きが詰まる。

 安堵と、ごめんなさいと、まだ言葉にならないありがとうが混じって、喉の奥で引っかかるのが見える。


 あすみは一度だけ息を吸って、言い切った。

 いま言うべき言葉を探した末に、いちばん先に残ったのがそれだった。


「…..北方基地に配属してくれて、ありがとうございました」

 あすみの口から出た瞬間、ミュラーの腹の奥が痛んだ。


 自分が送り出した結果だ。

 目の前の子は、生きている。けれど――この目になった。

 ミュラーは返事が遅れた。遅れて、やっと言葉を探す。

「……お前が希望を出したんだろ。生きてるなら、それでいい」


 綺麗すぎる返事だと、自分でも分かった。

 でも、今はこれしか出せなかった。

 セリが、わざと雑に肩をすくめる。

「俺らに手伝えることありますか?」

 ミュラーは、視線だけで周囲を示した。

「移送するために人数を確認するところだ、点呼してくれるか」

 あすみが小さく頷く。

「……私、手伝います」

 セリが、横から口を挟む。

「おいあすみ。お前、帰艦報告は?」

「…..それは、後ででも大丈夫でしょ。」

 返事が即答すぎて、セリの眉が一瞬だけ動く。それでもセリは突っ込まない。

 ミュラーは、あすみの目をもう一度だけ見た。

 “兵器の目”の奥に、まだ残っているものがあるかどうかを確認するみたいに。


 残っている。――そう信じたかった。


 その時、通路の奥で、急に若い声が弾んだ。

 クリスとアミューが、通路の奥から歩いてきた。二人とも避難対応の腕章を巻いたままで、顔にはまだ疲れが残っている。けれど、ミュラーを見つけた瞬間に足取りが変わり、そのすぐあとで、あすみの姿に気づいて顔が変わった。

「え。ミュラー教官と一緒にいるのって、もしかして…」

「REDROSEだ!絶対そうだよ!」

 二人は興奮しながらあすみとセリに近づく。

「あ!あの!REDROSEさんですか!」

 セリがすぐに口を挟んだ。

「それはコードネーム。こいつは古賀あすみ一等兵。まず敬礼。ミュラー教官から教わってんだろ?」

 クリスたちが姿勢を正して敬礼をする。

「すみません!クリス・バーネットです!」

「アミュー・フリンツです!サインください!」

 あすみが微笑みながら敬礼を返す。

「古賀あすみ一等兵です」

「セリ・アンダーソン一等兵、よろしく」


 二人は目を輝かせながらあすみを見ている。

「すげえ!本物の英雄だ!」

「俺、戦闘ログ見てからファンです!」

 あすみは笑顔を崩さずに「ありがとう」と返した。

 ミュラーは、変わらないあすみの笑顔に視線を向けながら、その目の奥の変化を見つめていた。

 その騒ぎから半拍遅れて、もう一つ足音が入ってきた。


 スザンナが遅れて入ってくる。

 ミュラーの方に近づいてくると、あすみたちに敬礼と自己紹介をした。

「スザンナ・リードです。よろしくお願いいたします」

 あすみを見ても、他の二人とは違い静かにミュラーに向き直った。

「教官、普通科の生徒は、明日の午前中にセレスタの分校に移送されるそうです。ラナ艦長が伝言をと。」

 ミュラーはスザンナに顔を向け、短く答える。

「分かった。そっちの様子も見に行く」


 それから、セリとあすみに顔を向け直し、声をかける。

「ここは任せた。点呼が終わったら、人数をラナ艦長に伝えてくれ」

 セリとあすみは、「了解しました」と言って臨時区画の中央に移動していった。

 クリスとアミューがスザンナに近づいてきて、小声で言う。

「おい、REDROSEだぞ!」

 スザンナは表情を変えずに、あすみに一瞬だけ視線を送った。

「私、二人みたいに英雄とか興味ない。ただの卒業生の先輩でしょ?」

 アミューがスザンナに興奮した声で言った。

「ただの。じゃないって、コードネームがつくパイロットなんてほぼいないってミュラー教官が言ってたろ!」


 ミュラーは、三人の声を耳に残したまま、部屋の中央にいるあすみたちへ視線を移した。

 本当に、いつも通りに笑っているように見える。

 二人とも変わっていないように。でも、確かに何かが変わっていた。


 これ以上あの場に立っていると、顔に出る気がした。


 ミュラーはあすみから視線を外し、通路を別の部屋へ向かって歩いていく。

 灯りが白く、音が遠い。

 喉が一度だけ動いて、言葉が口から落ちた。

「英雄って称号と引き換えに、何を失うんだ」

 自分に向けたわけでも、誰かに投げたわけでもない。

 ただ、昔からそこにあった疑問が、今になって形を持っただけだった。

「……そんなに大事なもんかよ」


 乾いた声だった。吐き捨てるでも、怒るでもない。

 あすみの目が、――昔の自分と同じだった。


 ミュラーは息を吐いた。ほんの少し遅れて、続ける。

(あの目のまま、名前だけ削れていく)

 叫んだ夜の声が、喉の奥にまだ残っている気がした。



 一般生の部屋に行き移送についての詳細を確認した後、ミュラーはブリーフィングルームへ向かった。


 会議室に使われている艦内の小ブリーフィングルームは、仮設灯の白さがやけに硬かった。

 壁面の表示板には、学園コロニー周辺の軌道図と宇宙エレベーターの接続予定時刻が並んでいる。

 換気音の低い唸りの奥で、どこか遠くの格納庫から金属を打つ乾いた音が、一定の間隔で届いていた。


 長机の上には、紙の報告書と端末が重なっている。席についているのは、ノーザンクロス艦内の各部署責任者だけだった。


 正面に立つラナ艦長は、相変わらず背筋がまっすぐだった。表情は静かで、けれど迷いはない。


 ラナの右隣には、副艦長のガナシュが腕を組んで立っている。

 大柄な体を壁際に預けるでもなく、少しだけ斜めに立つ姿勢が、艦橋ではないこの部屋にも現場の空気を持ち込んでいた。


 医療責任者のエリンは、机の端で端末を指先だけで操作していた。

 白衣ではなく艦内勤務用の濃紺の上着を羽織っているのに、周囲の誰よりも医務室の匂いが似合う人だった。


 輸送主任のハドリー少佐は、細い銀縁眼鏡の奥で航路表を追っている。言葉少なで、数字を崩さない男だ。


 補給主任のマルタ軍曹長は、腕まくりをしたまま紙束を押さえていた。

 四十代半ば、現場上がりの女で、物資が一つ足りないだけで声の温度が下がる。


 警備主任のルーク中尉は若い。若いが、避難区画の騒ぎを半日で抑えた目をしている。


 通信解析主任のユノ技官は、椅子に深く座る癖のある痩せた男で、画面に映る資金流入経路の断片を、まばたきも少なく見つめていた。


 そしてミュラーは、机のいちばん端に立っていた。座る気にはなれなかった。

 椅子を引く音ひとつで、さっき通路で見た子どもたちの顔がまた浮かびそうだった。


 ラナが端末を伏せ、室内を一度だけ見渡す。


「始めるわ」


 それだけで、紙をめくる音まで止まった。


「襲撃事件後の、ノーザンクロスの臨時運用について確認します」


 ラナの声は大きくない。けれど、部屋の端まで綺麗に届く。艦長としての声だった。


「まず前提。学園コロニーは、隔壁閉鎖と区画制御が間に合ったおかげで、被害は学校近辺に集中している。

 居住区と一般区画の大半は無事。被害は小さくないけれど、壊滅ではない」


 ラナが表示板を切り替える。学園コロニー全図のうち、赤く表示されているのはLAA周辺だけだった。


 ハドリー少佐が眼鏡の位置を指で直し、短く頷く。


「避難対象は学園関係者が中心です。一般区画まで広げる必要は現時点ではありません」


 ラナは頷き返し、そのまま続けた。


「ノーザンクロスは、避難民を地球まで運ばない」


 そこで机の向こうの空気がわずかに動いた。誰も驚いた顔はしない。ただ、確認する姿勢に変わる。


「宇宙エレベーターでの受け渡しのみ。第一次輸送、第二次輸送ともに、エレベーター基部で連合受け入れ班へ引き継ぐ。以後の地上輸送は本部側の管轄よ」


 輸送主任のハドリー少佐が、手元の航路表に視線を落としたまま口を開く。


「エレベーター接続時間は、一便ごとに三十八分確保できます。格納庫側からの移送導線が混まなければ、

 第一次で普通科の大半、第二次で残りと軽傷者の移送が可能です」


 補給主任のマルタ軍曹長が、紙束を机に打ち付けるように置いた。


「“混まなければ”ね。水も簡易食も足りてはいるけど、今のまま通路に人を溜めたら絶対に詰まるよ。

 避難区画の毛布だって、積み方ひとつで動線が死ぬ」


「だから第一次輸送を早めるのよ」


 ラナは即座に返した。


「普通科の生徒を先に出す。判断基準は年齢と医療優先度、それから艦内混在の危険度。

 ミュラー中尉の指導しているパイロット候補生三名はノーザンクロスにて待機」


 その一言で、ミュラーの視線が初めてラナに上がった。


「……戦闘員として使うつもりですか」


 部屋の空気が一段だけ静まる。

 誰もすぐには動かなかった。


 ラナはミュラーを見た。逃げない目だった。


「…分からない。可能性はある。」


 短い沈黙が落ちる。

 その沈黙を、ガナシュが崩した。


「ミュラー、まだ待機ってだけだ」


 副艦長の声は低く、抑えられていた。なだめるでも、押し返すでもなく、その場で言える線だけを引く声だった。


 ミュラーは何も返さない。

 だが、机の縁に置いた指先にだけ力が入る。


 警備主任のルーク中尉が、報告書から顔を上げる。


「艦内警備上は助かります。候補生を全員ばらけさせるより、艦内でまとめて把握した方が事故は少ない」


 ミュラーは、その言葉を聞いても表情を変えなかった。

 分かっている。分かっているから余計に、待機という二文字が黒く見える。


 エリンがそこで口を開く。声は柔らかいのに、内容は容赦がない。


「医療側から言うなら、候補生を“まだ飛ばせるかどうか”で見るのはやめて。少なくとも今はね。

 眠れてない子、過呼吸を起こしかけてる子、反応が遅れてる子もいる。制服を着てるからって、中まで整ってるわけじゃない」


 マルタ軍曹長が小さく鼻を鳴らした。

「まともな意見だね」

「まともじゃなきゃ困るわ」

 エリンは視線も上げずに返す。

 その横顔を見て、誰も続けなかった。


 ラナは机の上の資料を閉じる。

「候補生は“戦力”ではなく、“艦内待機中の要保護人員”として扱う。少なくとも、ノーザンクロスにいる間はそう定義する」


 ガナシュがそこで一度だけ頷いた。

 副艦長として、その言い方なら通ると判断した顔だった。

 通信解析主任のユノ技官が、沈んだ声で報告を挟む。

「襲撃犯について。現時点で拘束された実行犯グループは少人数。

 組織犯罪であることはほぼ確定ですが、国や企業がどこまで介入しているかは未確定です」

 表示板に資金流入経路の断片が映る。企業名も国家名もまだ出ていない。ただ、個人犯では終わらない形だけが見える。

「雇われた側と、計画した側が切れてる可能性が高いです。実行犯だけ押さえても終わりません」


 ユノ技官の言葉に、部屋の中の誰も驚かなかった。

 むしろ、その方が自然だった。

 ラナが頷く。

「調査は本部と連携して継続。ノーザンクロスは直接の追跡には回らない」

 そこでガナシュが口元を少しだけ歪めた。

「追うより、抱えてるもんが多すぎる」

「そういうことよ」

 ラナは短く返し、表示板を再び航路図へ戻した。

「この艦の次の役割は、追撃じゃない。受け渡しまで生かして運ぶこと」


 その言い方に、会議室の温度がやっと一つに揃った。

 数字でも、脅威でもなく、役割の言葉だったからだ。


 ハドリー少佐が、指で航路をなぞる。

「第一次輸送は明朝零六〇〇。普通科生徒を優先、軽傷者を含めて九十六名。第二次輸送は正午予定。候補生は艦内待機」

 ルーク中尉が続ける。

「避難区画は二分割に再編します。普通科と軍高候補生を混在させない。夜間巡回を増やし、出入り管理を強化」

 マルタ軍曹長が資料をめくる。

「食糧と水は二十四時間分を再計算する。候補生連中にも配膳補助くらいはやらせるよ。手が余ってるわけじゃない」

 エリンがそこで、初めてミュラーを見る。

「その前に寝かせる子は寝かせるわ。検診はこっちで選ぶ。反論は受け付けない」


 ミュラーは小さく息を吐いた。

 反論する気など最初からなかった。


 ラナが最後に、室内全員を見渡す。


「確認するわ。ノーザンクロスは一時避難と宇宙エレベーターでの受け渡しに専念する。

 候補生は艦内待機。医療優先。調査情報は追うけど、うちは抱えた人間をまず落とさない」


 誰も異を唱えなかった。

 それがこの艦の答えだった。


 会議が終わり、椅子が引かれる音が重なる。

 資料をまとめる者、端末を閉じる者、次の持ち場へ急ぐ者。部屋の空気がまた現場に戻っていく。


 ミュラーだけは少し遅れて動いた。

 机の上に残った通達文を、もう一度だけ見下ろす。


 候補生、待機。


 それは保護の言葉でもあり、いつでも別の意味に変わる言葉でもある。

 ミュラーは紙を裏返し、そのまま手で押さえた。


 ラナが席を立つ気配がする。

 ガナシュは何も言わない。だが、隣を通る時だけ、ほんの一瞬だけ歩幅を緩めた。


 それだけで十分だった。


 ノーザンクロスは、地球まで送らない。

 宇宙エレベーターまでだ。そこまで生かして渡す。


 簡単な任務のはずがなかった。

 ミュラーはゆっくり顔を上げ、会議室の扉へ向かった。


 その足は、そのままサラのいる医務室へと向かっていた。


 ミュラーは医務室の前まで来ると、ドアに手を伸ばした。

 けれど、触れる寸前で止まる。


 廊下の向こうから歩いてきたエリンが、その顔を見た。

「起きてるわよ。入らないの?」

「……いや、やっぱり後にする」

「ミュラー、大丈夫よ」

 エリンはそう言って、ミュラーに小さく微笑みかけた。

「サラさんは、大丈夫。会いたくなったら、いつでも顔見せてあげて」

「……分かってるよ」

「本当に、あなたって子は昔から同じ返事しかしないんだから」

 エリンはドアを開けながら、ミュラーを見る。

「そんなんじゃ、そのうち愛想尽かされちゃうわよ」

 そう言って医務室の中へ入っていった。

 ミュラーは軽く舌打ちをした。

 閉まったドアに向かって、「うるせえな」と小さく呟く。


 それから、その場を離れた。

 格納庫の扉に近づくと、候補生とセリたちが訓練機の前で話していた。

 クリスやスザンナのまだ子供らしさが残った顔を見てから

 あすみの顔に視線を移す。

(あの目の意味を、何人が理解できる)

(どれくらいのやつが、あいつの今の状態を見抜ける……)

 ミュラーの息が浅くなる。

(……また同じもんを作るつもりか)

 ミュラーは、あすみから視線を外したあとも、すぐには動けなかった。


 臨時区画の中央では、点呼の声が重なっている。候補生たちの返事、毛布を引く音、水の箱を運ぶ音。

 そこに混じって、さっきまで自分の前にいた二人の声も確かにあるのに、ミュラーにはうまく聞き取れなかった。

 喉の奥だけが、妙に熱い。

 通路の奥へ歩き出す。灯りは白く、足音だけが乾いて響く。

 避難区画のざわめきが少しずつ遠のき、代わりに艦の低い振動だけが耳の奥に残った。


 角を曲がった先、格納庫寄りの小さな観測窓の前に、ガナシュが立っていた。

 背中を向けたままでも分かる。肩の力の抜き方も、足の開き方も、一緒に飛んでいた頃から変わらない。

 ミュラーが近づくと、ガナシュは窓の外を見たまま口を開いた。

「古賀一等兵とアンダーソン一等兵、お前の教え子だってな。

 しっかり教官やれてたみたいで安心したよ。」

 ミュラーは壁に肩を預けるでもなく、その少し手前で足を止めた。返ってきた言葉に、鼻先で息を鳴らす。

「なんだよ、安心って。当たり前だろ。」

 そのぶっきらぼうな返しに、ガナシュの口元がわずかに動く。

「一緒に飛んでた時は、お前は現場の人間だと思ってた。育てるのにも実は向いてたとはな。」

 ミュラーが鼻で笑う。

 けれど、その笑いは長く続かなかった。

 窓の向こうには、艦外作業灯に照らされた船体の縁と、その向こうに滲む星の光がある。

 静かな景色だった。静かなはずなのに、さっき見たあすみの目だけが、まだ離れない。


 ミュラーは視線を窓の外へ投げたまま、低く言った。


「古賀あすみをいつまで飛ばすつもりだ。お前も分かってんだろ、あの眼。」


 ガナシュはすぐには答えなかった。

 数秒だけ沈黙が落ちて、そのあとで、静かな声が返る。


「…戦場での英雄は、光だ。光は誰かの道を照らす。お前もだ。ミュラー」


 ミュラーの顎がわずかに強張る。

 その言葉を、綺麗事として切り捨てられるほど、子どもではなかった。


「…俺は違う。」


「俺はいつも間に合わない。目の前にいたはずなのに、助けられない。」


 言い終わったあと、窓に映る自分の輪郭がかすかに揺れた。

 ガナシュはその横顔を見ない。ただ、同じように窓の外を見つめたまま言う。


「俺だって、あの頃お前を助けられなかった。同じだろう。」


 ミュラーは何も返さない。

 返せる言葉があるなら、とっくに見つかっていた。


「戦場に立つには、お前は若過ぎた。それだけだ。」


 その一言に、ミュラーの喉が小さく動いた。


 若すぎた。


 その言葉で済むのなら、どれだけ楽かと思う。

 けれど、その言葉でしか届かないことも、ミュラーは知っている。


「……。」


 窓の向こうで、地球の青がゆっくり縁を描いていた。

 ミュラーは視線を落とさないまま、奥歯を噛む。


「あいつはこれ以上、壊れないと思ってんのか?」


 ガナシュは短く息を吐いた。


「彼女は軍人だ。止められはしない」

「けどな、お前にしか出来ないことはある」


 その言葉で、ミュラーはようやくガナシュの方を向いた。

 真正面ではなく、少し斜めから。昔から、何かを真正面で受けるのが下手だった。


「俺にしか?」


 ガナシュはそこで初めて、ほんの少しだけミュラーへ顔を向ける。


「彼女が壊れたら、お前が連れ戻せ。」


 短い言葉だった。

 命令でも、慰めでもない。

 託されたのだと分かるからこそ、胸の奥が鈍く痛んだ。


 ミュラーは、口角を下げ切らないまま、窓の外に目を向ける。

 返事はしなかった。できなかったとも言えるし、する必要がないとも思った。


 ガナシュはミュラーに返事を求めない。

 彼はずっと、窓の外を見つめている。


 星の光と、地球の青が二人の目の前に広がっていた。

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