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SKY  作者: 岩佐知秋
SILVER LION

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80/126

Sky80-崩壊の序章-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 




ミュラーは、息を吸う前に目を開けた。

 胸が上下している。喉が乾いている。シャツの首元が少しだけ湿っていた。

 枕元の時計は、まだ早い時間を示している。

「......またかよ」

 声にすると、少しだけ現実に寄る。ミュラーは上体を起こし、ベッドの端に座った。

 手のひらで額を押さえ、汗を拭う。拭っても、指先の感覚に昨夜の映像が残っている気がする。

 違う。今日は、当日だ。そう思ったところで、目の奥が熱くなる。それを無視して立ち上がり、洗面台に向かった。冷たい水で顔を洗う。鏡の中の自分は、眠そうな顔をしているだけだった。

 制服を着る。襟を整える。端末をポケットに入れる。いつもの手順に戻れば、今日は“普通”になる。そういう顔をして、部屋を出た。

 LAAの朝は、通路の足音から始まる。学校寮から校舎へ続く連絡通路に、生徒たちが流れ込んでくる。

 鞄を肩にかけ、朝食のパンを片手に、友達の名前を呼びながら走る。壁面の広告ホロは、今日の授業予定とイベント情報を流していた。制服の袖が擦れる音と、靴底が床を叩く音が混じる。その中を、ミュラーは逆方向に歩いた。

 教官用の腕章が、目立たない程度に光っている。

「走るな。転ぶぞ」

 言い方は雑だが、声は大きくしない。生徒が「すみません!」と返し、少しだけ歩幅を落とす。

  別の生徒が笑って、また小走りになる。朝の雑さは、そういうものだ。

 ミュラーはそれを見送ってから、訓練区画の入り口へ向かった。

 途中、ニュースパネルが視界の端で切り替わる。帝国方面の緊張。境界宙域の小競り合い。未確認の“予告”が一件。

 内容は短く、詳細は伏せられている。

 ミュラーは立ち止まらない。見ても、顔に出さない。


   *


 訓練区画の前は、いつもより人が多かった。

 警備隊が配置を確認している。通路の角に二名、エレベーターホールに二名、訓練場入口に一名。

 視線の配り方が通り過ぎる生徒を識別し、生徒達は好奇心に溢れた目で通り過ぎる。

 腕章の色も、普段とは違う。

 ミュラーが軽く顎を上げると、警備の一人が小さく敬礼して返した。

 会釈だけで済む距離感。ここは前線じゃない。

 その先で、サラが資料端末を片手に立っていた。顔は落ち着いているが、指先が速い。

 周囲の職員に短く指示を飛ばし、配置を確認し、次の段取りへ移る。

「......朝から忙しそうだな」

 ミュラーが近づくと、サラは振り向いた。

 目は鋭いが、声は必要最低限に抑えられている。

「忙しいわよ。今日は“視察”だもの」

「知ってる。だから忙しいって言った」

「もう。ああ言えばこう言うんだから。」

 そう言いながらも、サラはミュラーの顔を一瞬だけ見た。

「訓練場、定刻に回して。警備の動線に合わせるから」

  「了解。普通にしとく」

「そう。あなたは“普通”にしててね」

 普通。その言葉の意味を、ミュラーはわざと考えないことにした。


 警備ブリーフィング室に来ると扉の前に、見慣れないNTO側の係官が二人。

 制服の色も、肩章も、このコロニーの職員とは違う。彼らは表情を動かさずに通すだけで、雑談はしない。

 雑談をしない空気が、今日が“普通じゃない”ことを先に告げていた。

 室内には地図と、時系列表と、警備配置の図が並んでいた。プロジェクターのファンが低く回り、紙の匂いと機械の熱が混ざっている。ミュラーは一番後ろの壁際に立ち、腕を組む。

 前に立った警備主任が、淡々と口を開く。

「本日の視察警備について、最終確認を行う。NTOより共有事項」

  隣に立つ係官が、端末を操作した。ホロが点灯し、文字列が浮かぶ。

  “予告”。断片。発信元不明。真偽未確定。

 しかし、“未確定”の横に、いくつかの一致が並ぶ。帝国側過激派の呼称。

  過去に起きた小規模爆破の手口。脅迫文の言い回しの癖。どれも、数字と記号に整えられている。

 係官の声は乾いていた。

「帝国側の過激派が、視察に合わせて行動する可能性。直接の侵入が難しい場合、通信妨害、施設内での攪乱、あるいは......施設外縁からの干渉が想定されます」


  “想定”。その言葉の中に、手遅れの匂いが混ざっている。警備主任がすぐに続ける。

「LAA内部は、通常警備に加え増員。動線は三重。生徒区画と視察動線は切り離す。問題は、外縁だ」

 ホロが切り替わり、コロニー外壁とドック側の図が映る。点がいくつか瞬き、角度が示された。遠隔からの“何か”を想定した図だ。ミュラーは、喉の奥が少し苦くなるのを感じた。

 視察は政治の行事で、警備は手順で、危険は数字に落ちる。だが、そこにいるのは数字じゃない。

 係官が言う。

「現時点では具体的な攻撃計画を掴めていません。ただし、予告が複数確認されている以上――」

 警備主任が遮るように頷いた。

「以上を踏まえ、最大限の警戒を敷く。――なお」

 警備主任の言葉が、一段だけ硬くなる。

「視察は予定通り実施」

 室内が、ほんの少しだけ静かになる。誰も驚かない。驚けない。

 驚いた顔をした瞬間、ここまで積んできた“手順”が嘘みたいになるからだ。

 係官が、感情のない声で補足した。

「中止は現実的ではありません。国内向けにも、帝国向けにも影響が大きい。中止すれば“屈した”印象が残る」

 印象のために、学校が危険の上に置かれる。

 ミュラーの指先が、わずかに動いた。握ったままの拳が、知らないうちに固くなっている。

 前方の席に、サラがいた。秘書として、資料を開き警備配置を追っている。表情は落ち着いていて、仕事の顔だ。けれど、ペン先が一度だけ止まったのが見えた。

 サラは父の隣にはいない。この会議で、娘でいる場所はない。それでも、父の決定がここで出ることを、サラは黙って聞いている。

  扉が開いて、ブライトン大統領が入ってきた。場の空気が変わる。背筋が揃う。敬礼が連鎖する。

 大統領は穏やかに頷き、手を軽く上げて礼を返した。

「ありがとう。ご苦労さま」

 大統領はホロを一瞥し、警備主任を見る。その瞬間、政治家の目になった。

「状況は理解した。警備は最大化。生徒の動線は遮断。外縁の監視を強化。その上で、予定通り行こう」

 その瞬間、大統領の視線が一度だけ揺れる。ほんの一瞬、サラの方へ、行くか行かないかの迷いみたいに。

 視線はすぐに戻り、笑顔が乗る。政治家の笑顔が、決定を確定させる。

  「このコロニーはNTOの象徴だ。守られている姿を見せる必要がある」

  守られている姿。ミュラーは、胸の奥でその言葉を反芻した。それが理屈として通る世界に、自分は立っている。会議は手順の確認に戻った。配置。連絡系統。緊急時の封鎖。医務室の待機。訓練区画の閉鎖手順。

 全部が整っていくほど、ミュラーは逆に落ち着かなくなる。

 子どもがいる場所は、手順だけで守れるほど単純じゃない。会議が終わると、椅子の脚が擦れ、紙が揃えられ、端末が閉じられる音が重なる。サラも資料を抱え直し、立ち上がった。誰かに短く指示を出しながら歩き出す。

 ミュラーは、室内に残る気配が消えるのを待ってから廊下へ出た。廊下の窓の外に、いつもと同じ速度で回っているインシオンが見える。

 ミュラーは立ち止まり、手のひらを見た。わずかに震えている。深く息を吸って、吐いた。

 制服の襟を整え、腕章を確かめる。いつもの手順を、わざと丁寧にやり直す。

 今は教師だ。教師として、生徒を守る。その一点だけを、頭の中心に置く。

 置かないと、余計なものが全部入ってくる。


 予鈴が鳴って、LAAの通路が一段だけ速くなる。生徒たちは講堂へ向かう流れに乗り、鞄を抱え直し、制服の襟を直しながら歩いた。ミュラーは訓練区画の前で、生徒の列を見送っていた。

「押すな。走るな。」声は大きくない。けれど、返事が返る。

「はい!」

 その返事が、今日はやけに綺麗に揃った。揃いすぎて、ミュラーの胸の奥が少しだけ硬くなる。

 大統領の視察は、学校の“行事”として進む。講堂前のホールにはホロカメラが並び、職員が小声で段取りを確認し合っていた。壁面の掲示板は「歓迎」の文字を流し、床のワックスが照明を薄く反射している。

 サラは秘書の顔で、講堂入口の動線を確かめていた。端末に視線を落とし、指先が止まらない。顔だけが落ち着いている。ブライトン大統領は、講堂の裏手に入る直前、周囲に短く頷いてみせた。

 笑顔を崩さずに職員の声が耳に届く。

「まもなく開始です」

「生徒の誘導、問題ありません」

「警備配置、予定通りです」

 予定通り。ミュラーはその言葉を聞かないふりをして、ホールの反対側、生徒の列の末尾へ視線を戻した。列が乱れないか、それだけを見る。


 学園コロニーの式典ホールは、天井が高かった。

 白い梁が幾何学模様のように走り、照明の光は柔らかく拡散して、制服の肩章の縫い目だけをきれいに浮かび上がらせている。椅子の脚が整然と並ぶ音が、最後の列まで等しく届く。空調の風は乾いていて、紙の配布資料の匂いがほんのり混じった。式典が始まり、控えていた大統領の名が呼ばれると、生徒達は一斉に拍手で出迎えた。

 壇上に立ったブライトン大統領は、軍服ではなかった。飾りの少ない濃紺のスーツに、胸元はすっきりとしている。背筋は伸びているのに、威圧はない。視線が一段低い。

 どこか「偉い人が来た」というより「大人が来た」という空気だった。マイクが一度だけ、小さく息を漏らすようなノイズを出した。ブライトンはそれを気に留めるでもなく、静かに演説は始まった。

 演説中、窓の外から恒星光のような光が式典ホールへ差し込んだ。ミュラーは少しだけ窓の方に視線を送る。外の反射板が光っていた。

(反射板か…)

 演説の声を聞きながら、再び、ホール内の生徒へ視線を戻した。ブライトンも、壇上から視線を会場全体にゆっくり流した。誰か一人を見るのではなく、全体を確かめるように。

「……戦争は、撃つ人だけで成り立っていません。直す人がいる。運ぶ人がいる。治す人がいる。繋ぐ人がいる。記録する人がいる。止めるために、交渉の席に座る人もいる」

 声は淡々としているのに、その列挙だけで、椅子に座る学生たちの肩に重みが乗った。自分の進路が、初めて“現実の形”を持つ。

「皆さんは、これからそれぞれ違う仕事に就くでしょう。けれど、ひとつだけ共通していることがあります」

 ブライトンは言葉を選ぶように、ほんの少しだけ速度を落とした。

「皆さんの仕事は、いつか“誰かの命”に触れます。直接か、間接かは違っても」

 会場の空気が静かになる。通路のどこかで、制服の布が擦れる音だけがやけに大きい。

「だから、ここで一つだけ、覚えておいてほしいことがあります」

 ブライトンは手元の原稿に目を落とさなかった。暗記した言葉でもないのだと分かる。

「偉い人間ほど、偉くないふりをしろ。……これは私が、娘にいつも言っていることです」

 一瞬、会場のどこかに小さな笑いが生まれた。すぐに消える。

「勘違いしないでください。『へりくだれ』と言っているわけではありません」

 ブライトンは首を横に振った。穏やかな否定だ。

「肩書きや階級や役職が、自分を正しい人間にするわけではない。そういう話です。偉くないふりができる人は、自分が間違える可能性を知っている。間違える可能性を知っている人は、確認をします。話を聞きます。止まります」

 ここで初めて、言葉が戦場の手触りを帯びた。止まる、という単語が、ただの美徳ではなく、生死の分岐の音になる。

「そして……皆さんが『止まる』ことで救われる命は、前線だけにあるわけではありません」

「整備の確認一つで、飛ぶはずだった機体が戻ってくることがある。通信の繋ぎ直し一つで、誤射が防げることがある。医療班が一歩早く動けば、名前が消えずに済むことがある。兵站が間に合わせれば、撤退の道が確保できる」

 ブライトンはそこで、短く息を吐いた。

「私は、皆さんに『国のために死ね』とは言いません。政治家として、そんな言葉を口にする資格はありません」

 静かな断言だった。会場のどこかで、誰かが無意識に唇を噛んだ。

「代わりに、こう言います。――皆さんは、生きて仕事をしてください。生きて戻って、次の日もその仕事をしてください。それは逃げではありません。責任です」

 言葉の最後が、少しだけ硬くなる。硬いのに、冷たくはない。

「皆さんが無事に戻ってきたなら、この国は、軍も、政府も、私も、皆さんに借りを作ったと思っていい」

 ここでブライトンは、ほんの少しだけ笑った。笑い方が上手な人のそれじゃない。ただ、自然に口元が緩んだだけの笑い。

「皆さんの人生は、軍のものではありません。国家のものでもありません。……本当は、あなた自身のものです」

「どうか、それを忘れないでください」

 拍手が起きるかどうかは、会場次第だった。けれど、ブライトンは拍手を待たなかった。

 壇上に留まって余韻を作ることもしない。淡々と、最後の一文を置く。

「それから――」

 声が少しだけ低くなる。これは演説ではなく、誰かに言う言葉の音だ。

「仲間を、大事にしなさい」

 その一言だけが、会場の乾いた空気に残った。誰に向けた言葉かは、分からないのに。分かってしまうような言葉だった。ブライトンは一礼し、壇を降りた。

 その瞬間だった。遠くで、壁が鳴った。

 最初は、音というより圧だった。床が一度だけ沈み、空気が押し返してくる。遅れて、低い爆音が腹の底を叩いた。ホールの照明が一瞬揺れ、次の瞬間、天井の端から白い粉塵が落ちてきた。

「......え?」

 誰かの声が、間抜けに漏れる。次の爆音は近かった。外壁側。通路の向こう。金属が裂ける音が混じり、ガラスが震えて、悲鳴が上がった。ホールのホロ画面が乱れ、警備隊のイヤピースから雑音が走る。

 《――通信、遮断......!》《外縁、侵入反応――》《講堂裏、火災――》

 声が途中で切れる。ノイズに飲まれる。言葉が繋がらない。

 ミュラーは一瞬だけ、頭の中が空白になりかけた。

 違う。ここは学校だ。次の瞬間、身体が動いた。

「全員、しゃがめ!」

 声が出た。大きい声で生徒に叫ぶ。生徒たちが反射で腰を落とす。遅れた子の肩を、隣の子が引く。練習の動きが、ここで出る。天井の端がもう一度震え、粉塵が落ちる。咳き込む声が混じった。警備主任が叫ぶ。

  「生徒を避難させろ!講堂側は封鎖!警備は要人を――」

  その言葉の“要人”が耳に刺さった瞬間、ミュラーは迷わず切った。

「生徒が先だ!」

 警備主任が一瞬だけ目を見開く。だが、反論する暇はない。

  通路の先から、火災警報が遅れて鳴り始めた。赤い灯が点滅し、スプリンクラーの準備音がする。

 ホールが、ざわつきではなく恐怖に変わる。

「先生、なにが――」

「爆発......?」

 ミュラーは答えない。答えると、列が崩れる。

「喋るな。息を整えろ。俺の声だけ聞け」

 短い号令だけで、子どもを動かす。

「立て。二列。名前を呼ぶな、押すな」

 生徒が立ち上がる。泣きそうな顔が混じる。けれど、動く。ミュラーは前に出て、通路の角を見た。

  外壁側から煙が流れ込んでいる。目が痛い。喉が乾く。その煙の向こうで、警備隊が誰かを守るように固まっているのが見えた。大統領の警護だ。大統領がホール裏へ下がる気配。サラがそちらへ走る背中が見えた。

 ミュラーの胸の奥に、細い針が刺さる。けれど、優先順位は変えない。守るべき順番を、今ここで間違えたら、あとで何を言っても嘘になる。

  「クリス、スザンナ、アミュー!」

 三人の名前を呼ぶと、訓練生が反射で前に出た。顔が硬い。口が動かない。けれど目がこちらを見る。

「クリス、スザンナ、ヴィーラを出せ。乗れる生徒から拾え。アミュー、脱出ポッドを回せ。怪我人を先だ。」

「いいか、戦うな。敵に遭遇したら逃げろ」

 三人の目が揺れる。

「一番近い避難戦艦、ノーザンクロスへ運ぶ。急げ。」

 ミュラーは地図を思い浮かべる。ドック側、訓練格納庫、短距離で出られるルート。

  爆心から離れた通路。火の回り。避難導線。

 クリスが喉を鳴らす。

「......教官は?」

 ミュラーは即座に言った。

「俺は残る。他の生徒を動かす」

 その言い方で、三人は理解した。理解して、飲み込む。

「はい」

 三人が走り出す。訓練区画へ向かう足音が、粉塵の中でもはっきり聞こえた。

  ミュラーは生徒の列へ戻り、腕を伸ばして先頭を押し出した。

「移動する。顔を上げるな。手を離すな」

 通路の角を曲がる。床に落ちた破片を踏まないよう、生徒の肩を抱えて誘導する。泣いて動けない子がいる。ミュラーはその子を抱え上げる。重い。けれど、抱えられる重さだ。

 この重さが、戦場の重さに変わる前に外へ出す。その時、耳元のイヤピースに、やっと“繋がった”音がした。

  ノイズが薄くなり、短い通信が滑り込む。

 《――こちらノーザンクロス。受信、断続。LAA、状況を言え》

 落ち着いた女の声。ミュラーは喉の奥を一度だけ鳴らして、必要なことだけを投げた。

「LAAが襲撃を受けた。外縁から爆撃と侵入。生徒を避難させる。

  訓練生を使って輸送に回す。受け皿を、ノーザンクロスを避難ラインにしたい」

 返事は短い。

 《了解。避難機を受け入れる。着艦優先。医務と整備を開ける。誰が指揮だ》

「ミュラー・エリス中尉だ」

 《......分かった。生徒を優先しろ》

 その言葉だけで、ミュラーは少しだけ呼吸が戻る。

 背後で、また爆音が鳴った。今度は講堂側。悲鳴が重なる。煙が濃くなる。

 サラが遠くの通路を走る背中が、一瞬だけ見えた。火災区画の手前で立ち止まり、負傷者を避けるように身体をひねり、また走る。人をかき分けながら、大統領のいる方へ必死に向かっている。

 ミュラーは胸の奥で、別の数字が増えるのを感じた。自分は今、大統領の元へ行っていない。

 行けない。生徒がいる。生徒が優先だ。それが正しい。ミュラーはそれを理解したまま、今やることだけを選ぶ。

「走るな。俺の背中を見ろ」生徒たちの列が動く。

  咳き込み、泣き声、足音、警報。学校の音が、戦場の音に塗り替わっていく。


 一度も振り返らず、出口へ向かって歩き続けた。



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