Sky80-崩壊の序章-
ミュラーは、 息を吸う前に目を開けた。
胸が上下している。 喉が乾いている。 シャツの首元が少しだけ湿っていた。
枕元の時計は、 まだ早い時間を示している。
「......またかよ」
声にすると、 少しだけ現実に寄る。ミュラーは上体を起こし、 ベッドの端に座った。
手のひらで額を押さえ、 汗を拭う。
拭 っても、 指先の感覚に昨夜の映像が残っている気がする。
――違う。 今日は、 当日だ。
そう思ったところで、 目の奥が熱くなる。ミュラーはそれを無視して立ち上がり、 洗面台に向かった。
冷たい水で顔を洗う。 鏡の 中の自分は、 眠そうな顔をしているだけだった。
制服を着る。 襟を整える。 端末をポケットに入れる。いつもの手順に戻れば、 今日は“普通”になる。 そういう顔をして、 部屋を出た。
LAAの朝は、 通路の足音から始まる。学校寮から校舎へ続く連絡通路に、 生徒たちが流れ込んでくる。
鞄を肩にかけ、 朝食の パンを片手に、 友達の名前を呼びながら走る。
壁面の広告ホロは、 今日の授業予定とイベント情報を流していた。
制服の袖が擦れる音 と、 靴底が床を叩く音が混じる。その中を、 ミュラーは逆方向に歩いた。
教官用の腕章が、 目立たない程度に光っている。
「走るな。 転ぶぞ」
言い方は雑だが、 声は大きくしない。
生徒が 「すみません!」 と返し、 少しだけ歩幅を落とす。
別の生徒が笑って、 また小走り になる。 朝の雑さは、 そういうものだ。
ミュラーはそれを見送ってから、 訓練区画の入り口へ向かった。
途中、 ニュースパネルが視界の端で切り替わる。帝国方面の緊張。 境界宙域の小競り合い。 未確認の“予告”が一件。
内容は短く、 詳細 は伏せられている。
ミュラーは立ち止まらない。 見ても、 顔に出さない。
⸻
訓練区画の前は、 いつもより人が多かった。
警備隊が配置を確認している。 通路の角に二名、 エレベーターホールに二名、 訓練場入 口に一名。
視線の配り方が通り過ぎる生徒を識別し、生徒達は好奇心に溢れた目で通り過ぎる。
腕章の色も、 普段とは違う。
ミュラーが軽く顎を上げると、 警備の一人が小さく敬礼して返した。
会釈だけで済む距 離感。 ここは前線じゃない。
その先で、 サラが資料端末を片手に立っていた。 顔は落ち着いているが、 指先が速い。
周囲の職員に短く指示を飛ばし、 配置を確認し、 次の段取りへ移る。
「......朝から忙しそうだな」
ミュラーが近づくと、 サラは振り向いた。
目は鋭いが、 声は必要最低限に抑えられている。
「忙しいわよ。 今日は“視察”だもの」
「知ってる。 だから忙しいって言った」
「もう。 ああ言えばこう言うんだから。」
そう言いながらも、 サラはミュラーの顔を一瞬だけ見た。
「訓練場、 定刻に回して。 警備の動線に合わせるから」
「了解。 普通にしとく」
「そう。 あなたは“普通”にしててね」
普通。
その言葉の意味を、 ミュラーはわざと考えないことにした。
⸻
警備ブリーフィング室に来ると扉の前に、 見慣れない連邦側の係官が二人。
制服の色も、 肩章も、 このコロニーの職員 とは違う。
彼らは表情を動かさずに通すだけで、 雑談はしない。
雑談をしない空気が、今日が“普通じゃない” ことを先に告げていた。
室内には地図と、 時系列表と、 警備配置の図が並んでいた。
プロジェクターのファンが 低く回り、 紙の匂いと機械の熱が混ざっている。
ミュラーは一番後ろの壁際に立ち、 腕を組む。
前に立った警備主任が、 淡々と口を開く。
「本日の視察警備について、 最終確認を行う。 連邦側より共有事項」
隣に立つ係官が、 端末を操作した。 ホロが点灯し、 文字列が浮かぶ。
“予告”。 断片。 発信元不明。 真偽未確定。
しかし、 “未確定” の横に、 いくつかの一致が並ぶ。 帝国側過激派の呼称。
過去に起きた 小規模爆破の手口。 脅迫文の言い回しの癖。
どれも、 数字と記号に整えられている。
係官の声は乾いていた。
「帝国側の過激派が、 視察に合わせて行動する可能性。 直接の侵入が難しい場合、 通信妨
害、 施設内での攪乱、 あるいは......施設外縁からの干渉が想定されます」
“想定”。
その言葉の中に、 手遅れの匂いが混ざっている。
警備主任がすぐに続ける。
「LAA内部は、 通常警備に加え増員。 動線は三重。 生徒区画と視察動線は切り離す。 ―― 問題は、 外縁だ」
ホロが切り替わり、 コロニー外壁とドック側の図が映る。
点がいくつか瞬き、 角度が示 された。 遠隔からの“何か”を想定した図だ。
ミュラーは、 喉の奥が少し苦くなるのを感じた。
視察は政治の行事で、 警備は手順で、 危険は数字に落ちる。
だが、 そこにいるのは数字 じゃない。
係官が言う。
「現時点では具体的な攻撃計画を掴めていません。 ただし、 予告が複数確認されている以上 ――」
警備主任が遮るように頷いた。
「以上を踏まえ、 最大限の警戒を敷く。 ――なお」
警備主任の言葉が、 一段だけ硬くなる。
「視察は予定通り実施」
室内が、 ほんの少しだけ静かになる。
誰も驚かない。 驚けない。
驚いた顔をした瞬間、 ここまで積んできた“手順”が嘘みたい になるからだ。
係官が、 感情のない声で補足した。「中止は現実的ではありません。 国内向けにも、 帝国向けにも影響が大きい。 中止すれば “屈した” 印象が残る」
印象のために、 学校が危険の上に置かれる。
ミュラーの指先が、 わずかに動いた。 握ったままの拳が、 知らないうちに固くなってい る。
前方の席に、 サラがいた。 秘書として、 資料を開き、 警備配置を追っている。
表情は落ち着いていて、 仕事の顔だ。
けれど、 ペン先が一度だけ止まったのが見えた。
サラは父の隣にはいない。 この会議で、 娘でいる場所はない。
それでも、 父の決定がここで出ることを、 サラは黙って聞いている。
扉が開いて、 ブライトン大統領が入ってきた。
場の空気が変わる。 背筋が揃う。 敬礼が連鎖する。
大統領は穏やかに頷き、 手を軽く上 げて礼を返した。
「ありがとう。 ご苦労さま」
大統領はホロを一瞥し、 警備主任を見る。 その瞬間、政治家の目になった。
「状況は理解した。 警備は最大化。 生徒の動線は遮断。 外縁の監視を強化。 ――その上 で、 予定通り行こう」
その瞬間、 大統領の視線が一度だけ揺れる。 ほんの一瞬。サラの方へ、 行くか行かないかの迷いみたいに。
視線はすぐに戻り、 笑顔が乗る。 政治家の笑顔が、 決定を確定させる。
「このコロニーは連邦の象徴だ。 守られている姿を見せる必要がある」
守られている姿。
ミュラーは、 胸の奥でその言葉を反芻した。
守るために、 守られている“姿”を優先する。
それが理屈として通る世界に、 自分は立っている。会議は手順の確認に戻った。
配置。 連絡系統。 緊急時の封鎖。 医務室の待機。 訓練区画 の閉鎖手順。
全部が整っていくほど、 ミュラーは逆に落ち着かなくなる。
子どもがいる場所は、 手順だけで守れるほど単純じゃない。 会議が終わる。
椅子の脚が擦れ、 紙が揃えられ、 端末が閉じられる音が重なる。
サラも資料を抱え直し、立ち上がった。 誰かに短く指示を出しながら歩き出す。
ミュラーは、 室内に残る気配が消えるのを待ってから廊下へ出た。廊下の窓の外に、 いつもと同じ速度で回っている地球が見える。
ミュラーは立ち止まり、 手のひらを見た。わずかに震えている。ミュラーは深く息を吸って、 吐いた。
制服の襟を整える。 腕章を確かめる。 いつもの“教官”の手順を、 わざと丁寧にやり直 す。
今は教師だ。教師として、 生徒を守る。その一点だけを、 頭の中心に置く。
置かないと、 余計なものが全部入ってくる。
ーーー
予鈴が鳴って、 LAAの通路が一段だけ速くなる。
生徒たちは講堂へ向かう流れに乗り、 鞄を抱え直し、 制服の襟を直しながら歩いた。
ミュラーは訓練区画の前で、 生徒の列を見送っていた。
「押すな。 走るな。 ――転ぶな」声は大きくない。 けれど、 返事が返る。
「はい!」
その返事が、今日はやけに綺麗に揃った。揃いすぎて、ミュラーの胸の奥が少しだけ硬くなる。
大統領の視察は、 学校の“行事”として進む。講堂前のホールにはホロカメラが並び、 職員が小声で段取りを確認し合っていた。 壁面の掲示板は 「歓迎」 の文字を流し、 床のワックスが照明を薄く反射している。
サラは秘書の顔で、 講堂入口の動線を確かめていた。
端末に視線を落とし、 指先が止ま らない。 顔だけが落ち着いている。
ブライトン大統領は、 講堂の裏手に入る直前、 周囲に短く頷いてみせた。
笑顔を崩さずに、職員の声が耳に届く。
「まもなく開始です」
「生徒の誘導、 問題ありません」
「警備配置、 予定通りです」
予定通り。
ミュラーはその言葉を聞かないふりをして、 ホールの反対側
――生徒の列の末尾へ視線 を戻した。 列が乱れないか、 それだけを見る。
ーーー
学園コロニーの式典ホールは、天井が高かった。
白い梁が幾何学模様のように走り、照明の光は柔らかく拡散して、制服の肩章の縫い目だけをきれいに浮かび上がらせている。
椅子の脚が整然と並ぶ音が、最後の列まで等しく届く。
空調の風は乾いていて、紙の配布資料の匂いがほんのり混じった。
式典が始まり、控えていた大統領の名が呼ばれると、生徒達は一斉に拍手で出迎えた。
壇上に立ったブライトン大統領は、軍服ではなかった。飾りの少ない濃紺のスーツに、胸元はすっきりとしている。背筋は伸びているのに、威圧はない。視線が一段低い。
どこか「偉い人が来た」というより、「大人が来た」という空気だった。
マイクが一度だけ、小さく息を漏らすようなノイズを出した。
ブライトンはそれを気に留めるでもなく、静かに演説は始まった。
演説中、窓の外から太陽光のような光が式典ホールの窓から差し込んだ。
ミュラーは少しだけ窓の方に視線を送る。外の反射板が光っていた。
(反射板か…)
演説の声を聞きながら、再び、ホール内の生徒へ視線を戻した。
ブライトンも、壇上から視線を会場全体にゆっくり流した。誰か一人を見るのではなく、全体を確かめるように。
「……戦争は、撃つ人だけで成り立っていません。直す人がいる。運ぶ人がいる。
治す人がいる。繋ぐ人がいる。記録する人がいる。止めるために、交渉の席に座る人もいる」
声は淡々としているのに、その列挙だけで、椅子に座る学生たちの肩に重みが乗った。自分の進路が、初めて“現実の形”を持つ。
「皆さんは、これからそれぞれ違う仕事に就くでしょう。けれど、ひとつだけ共通していることがあります」
ブライトンは言葉を選ぶように、ほんの少しだけ速度を落とした。
「皆さんの仕事は、いつか“誰かの命”に触れます。直接か、間接かは違っても」
会場の空気が静かになる。通路のどこかで、制服の布が擦れる音だけがやけに大きい。
「だから、ここで一つだけ、覚えておいてほしいことがあります」
ブライトンは手元の原稿に目を落とさなかった。暗記した言葉でもないのだと分かる。
「偉い人間ほど、偉くないふりをしろ。……これは私が、娘にいつも言っていることです」
一瞬、会場のどこかに小さな笑いが生まれた。すぐに消える。
「勘違いしないでください。『へりくだれ』と言っているわけではありません」
ブライトンは首を横に振った。穏やかな否定だ。
「肩書きや階級や役職が、自分を正しい人間にするわけではない。そういう話です」
「偉くないふりができる人は、自分が間違える可能性を知っている。
間違える可能性を知っている人は、確認をします。話を聞きます。止まります」
ここで初めて、言葉が戦場の手触りを帯びた。止まる、という単語が、ただの美徳ではなく、生死の分岐の音になる。
「そして……皆さんが『止まる』ことで救われる命は、前線だけにあるわけではありません」
「整備の確認一つで、飛ぶはずだった機体が戻ってくることがある。通信の繋ぎ直し一つで、誤射が防げることがある。
医療班が一歩早く動けば、名前が消えずに済むことがある。兵站が間に合わせれば、撤退の道が確保できる」
ブライトンはそこで、短く息を吐いた。ため息ではなく、息を整える音。
「私は、皆さんに『国のために死ね』とは言いません。政治家として、そんな言葉を口にする資格はありません」
静かな断言だった。会場のどこかで、誰かが無意識に唇を噛んだ。
「代わりに、こう言います。――皆さんは、生きて仕事をしてください。生きて戻って、次の日もその仕事をしてください」
「それは逃げではありません。責任です」
言葉の最後が、少しだけ硬くなる。硬いのに、冷たくはない。
「皆さんが無事に戻ってきたなら、この国は——軍も、政府も、私も——皆さんに借りを作ったと思っていい」
ここでブライトンは、ほんの少しだけ笑った。笑い方が上手な人のそれじゃない。ただ、自然に口元が緩んだだけの笑い。
「皆さんの人生は、軍のものではありません。国家のものでもありません。……本当は、あなた自身のものです」
「どうか、それを忘れないでください」
拍手が起きるかどうかは、会場次第だった。けれど、ブライトンは拍手を待たなかった。
壇上に留まって余韻を作ることもしない。淡々と、最後の一文を置く。
「それから――」
声が少しだけ低くなる。これは演説ではなく、誰かに言う言葉の音だ。
「仲間を、大事にしなさい」
その一言だけが、会場の乾いた空気に残った。
誰に向けた言葉かは、分からないのに。分かってしまうような言葉だった。
ブライトンは一礼し、壇を降りた。
その瞬間だった。 遠くで、 壁が鳴った。
最初は、 音というより圧だった。 床が一度だけ沈み、 空気が押し返してくる。
遅れて、 低い爆音が腹の底を叩いた。
ホールの照明が一瞬揺れ、 次の瞬間、 天井の端から白い粉塵が落ちてきた。
「......え?」
誰かの声が、 間抜けに漏れる。
次の爆音は近かった。外壁側。 通路の向こう。 金属が裂ける音が混じり、 ガラスが震えて、 悲鳴が上がった。
ホールのホロ画面が乱れ、 警備隊のイヤピースから雑音が走る。
《――通信、 遮断......!》 《外縁、 侵入反応――》 《講堂裏、 火災――》
声が途中で切れる。 ノイズに飲まれる。 言葉が繋がらない。
ミュラーは一瞬だけ、 頭の中が空白になりかけた。
――違う。 今は学校だ。
次の瞬間、 身体が動いた。
「全員、 しゃがめ!」
声が出た。 大きい声で生徒に叫ぶ。生徒たちが反射で腰を落とす。
遅れた子の肩を、 隣の子が引く。 練習の動きが、 ここで 出る。
天井の端がもう一度震え、 粉塵が落ちる。 咳き込む声が混じった。
警備主任が叫ぶ。
「生徒を避難させろ! 講堂側は封鎖! 警備は要人を――」
その言葉の“要人”が耳に刺さった瞬間、 ミュラーは迷わず切った。
「生徒が先だ!」
警備主任が一瞬だけ目を見開く。 だが、 反論する暇はない。
通路の先から、 火災警報が遅 れて鳴り始めた。 赤い灯が点滅し、 スプリンクラーの準備音がする。
ホールが、 ざわつきではなく恐怖に変わる。
「先生、 なにが――」
「爆発......?」
ミュラーは答えない。 答えると、 列が崩れる。
「喋るな。 息を整えろ。 ――俺の声だけ聞け」
短い号令だけで、 子どもを動かす。
「立て。 二列。 手を繋げ。 名前を呼ぶな、 押すな」
生徒が立ち上がる。 泣きそうな顔が混じる。 けれど、 動く。ミュラーは前に出て、 通路の角を見た。
外壁側から煙が流れ込んでいる。 目が痛い。 喉 が乾く。
その煙の向こうで、 警備隊が誰かを守るように固まっているのが見えた。
大統領の警護だ。大統領がホール裏へ下がる気配。サラがそちらへ走る背中が見えた。
ミュラーの胸の奥に、 細い針が刺さる。けれど、 優先順位は変えない。
守るべき順番を、 今ここで間違えたら、 あとで何を言っても嘘になる。
「クリス、 スザンナ、 アミュー!」
三人の名前を呼ぶと、 訓練生が反射で前に出た。
顔が硬い。 口が動かない。 けれど目が こちらを見る。
「クリス、スザンナ、SKYを出せ。乗れる生徒から拾え。アミュー、脱出ポッドを回せ。怪我人を先だ。」
「いいか、戦うな。敵に遭遇したら逃げろ」
三人の目が揺れる。
「 ――一番近い避難戦艦、 ノーザン・クロスへ運ぶ。急げ。」
ミュラーは地図を思い浮かべる。
ドック側、 訓練格納庫、 短距離で出られるルート。
爆 心から離れた通路。 火の回り。 避難導線。
クリスが喉を鳴らす。「......教官は?」
ミュラーは一拍も置かずに言った。「俺は残る。他の生徒を動かす」
その言い方で、 三人は理解した。 理解して、 飲み込む。
「はい!」
三人が走り出す。 訓練区画へ向かう足音が、 粉塵の中でもはっきり聞こえた。
ミュラーは生徒の列へ戻り、 腕を伸ばして先頭を押し出した。
「移動する。 顔を上げるな。 手を離すな」
通路の角を曲がる。 床に落ちた破片を踏まないよう、 生徒の肩を抱えて誘導する。
泣いて動けない子がいる。ミュラーはその子を抱え上げる。重い。けれど、抱えられる重さだ。
この重さが、戦場の重さに変わる前に外へ出す。
その時、耳元のイヤピースに、やっと“繋がった”音がした。
ノイズが薄くなり、短い通信が滑り込む。
《――こちらノーザン・クロス。 受信、 断続。 LAA、 状況を言え》
落ち着いた女の声。
ミュラーは喉の奥を一度だけ鳴らして、必要なことだけを投げた。
「LAAが襲撃を受けた。外縁から爆撃と侵入。 生徒を避難させる。
訓練生を使って輸送に 回す。受け皿を――ノーザン・クロスを避難ラインにしたい」
返事は短い。《了解。 避難機を受け入れる。 着艦優先。 医務と整備を開ける。 ――誰が指揮だ》
「ミュラー・エリス中尉だ」
《......分かった。 生徒を優先しろ》
その言葉だけで、 ミュラーは少しだけ呼吸が戻る。
背後で、 また爆音が鳴った。 今度は講堂側。 悲鳴が重なる。 煙が濃くなる。
サラが遠くの通路を走る背中が、 一瞬だけ見えた。
火災区画の手前で立ち止まり、 負傷 者を避けるように身体をひねり、 また走る。
人をかき分けながら、大統領のいる方へ必死に向かっている。
ミュラーは胸の奥で、 別の数字が増えるのを感じた。
自分は今、 大統領の元へ行っていない。
行けない。生徒がいる。生徒が優先だ。それが正しい。
ミュラーはそれを理解したまま、 今やることだけを選ぶ。
「走るな。 押すな。 ――俺の背中を見ろ」 生徒たちの列が動く。
咳き込み、 泣き声、 足音、 警報。 学校の音が、 戦場の音に塗り替わっていく。
一度も振り返らず、 出口へ向かって歩き続けた。




