Sky8-心の揺れ-
夜の北方第七基地は、静かすぎた。
消灯時間を過ぎた女子寮の一室で、あすみはベッドの上で仰向けになったまま、天井を見つめていた。
…眠れない。
目を閉じれば——雪と土と、何かが一緒くたになって宙に舞い上がる光景が、すぐそこまで迫ってくる。
(……一人、死亡)
管制官が読み上げた、あの乾いた声。
小さな肩の高さ。
母親の手を握っていた、あのちいさな手。
(間に合わなかった)
あの瞬間、自分のスラスター出力がいくつだったか。
距離が何メートルあって、あと何秒あれば届いたか。
シーツを握る指先に、力が入る。
(……やだな)
このまま天井を見ていたら、本当に一晩で壊れる気がした。
あすみは、布団を跳ね上げるように起き上がると、上着を掴んで部屋を出た。
*
廊下は、冷たい。
足音を忍ばせながら、誰もいない寮棟を抜ける。
夜勤の兵士がたまに通る以外、灯りは最小限だ。
窓の外に目をやると、雪原が淡く月に照らされている。
(……屋上)
あすみの足は、自然と基地本棟の方へ向かっていた。
寮棟と本棟をつなぐ渡り廊下は、夜間照明だけが点いている。
窓の外には、さっき部屋から見たのと同じ雪原が、少しだけ角度を変えて広がっていた。
端末を手に持ったまま、あすみはなんとなく親指で画面の端をなぞる。
電源は落ちているのに、検索欄に打ち込んだ文字の感触だけが、まだ指に残っている気がした。
「——おーい、あすみ」
前方から、気の抜けた声が飛んでくる。
顔を上げると、本棟寄りの角のところに、セリ・アンダーソンが背中を壁に預けて立っていた。
つなぎの上半身は腰まで脱いで巻きつけ、Tシャツ姿で片手に紙コップ。
洗いざらしの薄茶色の髪は、まだ少し濡れていた
「……セリ」
「なにしてんだよ、こんな時間に。
夜の徘徊は不良のすることだぞ、不良」
「…うるさい」
セリは口の端だけを上げて笑い、それからあすみの手元に視線を落とす。
「で、その端末は?」
「……べつに」
とっさに画面を握り込みながら言うと、セリはふぅん、とわざとらしく相槌を打った。
「あすみ」
紙コップを指先でくるくる回しながら、彼はいつもより少しだけ真面目な声になる。
「…お前また休みの日に空飛んでるだろ」
足が、止まった。
「……偵察だよ」
言い訳にもならない言葉だと分かっていて、それでも口が勝手に動く。
「この辺の地理、よく分からないから。
地図だけ見てても、イメージ掴めないし」
「“偵察”ねぇ」
セリは、ため息とも笑いともつかない息を吐いた。
「クロスのみんなだって心配してんだぞ。」
紙コップが、わずかに音を立てて握り締められる。
あすみは、端末を持つ手にぎゅっと力をこめた。
「……何の話」
セリの目が、まっすぐこちらを射抜く。
「カイトだよ」
胸の奥が、ぐっと押し込まれたみたいに苦しくなった。
行方不明者リスト。
ニュース。
検索欄に打ち込んでは消した「Kaito」の綴り。
全部、誰にも見せていないはずなのに——丸見えだったみたいに言われる。
あすみはゆっくりと息を吸うと、端末の電源ボタンを親指で押した。
真っ暗な画面を、ぱちん、と閉じるみたいに握り込む。
「……それ以上言ったら怒るよ」
顔は上げないまま、低くそう告げた。
廊下の空気が、ほんの一瞬だけ張りつめる。
セリはその様子を見て、視線をそらし、小さく舌打ちを飲み込んだ。
セリはほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、肩をすくめて——紙コップの中身を一口で飲み干す。
「……はいはい。」
「屋上行くなら、長居すんなよ。明日も訓練あるんだからな」
「……分かってる」
「ほんとかよ。」
それだけ言うと、セリはあすみの横をすり抜けて歩き出した。
そのまま背中だけを残して、本棟の方へ消えていった。
足音が遠ざかって、また静かになる。
あすみは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(…分かってる。けど)
心の中でだけ、セリの言葉を反芻する。
心配されてるのは分かってる——
でも、まだ、あの教室で笑っていた横顔が、簡単には背中側に回ってくれない。
それでも。
端末を胸元に抱え直し、あすみは顔を上げる。
(……今は、空を見に行こう)
自分にそう言い聞かせて、基地本棟の階段へと足を向けた。
*
北方第七基地・本棟屋上。
扉を開けた瞬間、刺すような冷気が頬を撫でた。
「……っ、寒」
吐く息が、白いどころか、すぐに凍って落ちてきそうな気がする。
それでも、屋上に一歩踏み出すと——視界が一気に開けた。
薄い雲の切れ間から、星が見える。
昼間は鉛色だった空が、今は澄んだ群青になっている。
街の灯りは少ない。
そのぶん、星の光がまっすぐに落ちてくる。
あすみは、風よけの低い壁にもたれ、首を仰いだ。
(……静か)
爆発の音も、銃声も、泣き声もない。
昼間、雪の上に残った黒い跡も、ここからは見えない。
(見えないから、無かったことにはできないけど)
それでも、今は——少しだけ呼吸がしやすかった。
空を見ていると、自然と昨日の宇宙が重なる。
黒に近い藍色の空。
散っていく破片。
白い光の花。
(あの時は、“綺麗だと思ったらだめだ”って、自分を殴ったくせに)
それでも——
「……空、綺麗だな」
ぽつりと、口から零れる。
誰に聞かせるつもりもない、小さな声だった。
*
「——おいおい。感傷タイムか?」
背中の方から、ゆるい声が飛んできた。
振り向くと、コートの前も閉めていない男が一人、扉のところに立っていた。
「……司令」
ハイルトン・グレイ大佐。
昼間と変わらない、少し伸びた無精髭と、崩れた軍服。
片手には、湯気の出ていないマグカップを提げている。
「こんな時間に屋上徘徊か。風邪ひいたら医務班に怒られるぞ」
「……司令が言います?」
「俺はいいの。慣れてるから」
どこまでも適当な返し。
そう言いながらも、ハイルトンはあすみから少し距離を空けて、同じように風よけの壁にもたれかかった。
視線は、空に向いている。
「眠れないのか?」
「……はい」
嘘はつかなかった。
「そうか。」
あすみは、群青の空だけを見続けている
自分の足音で、誰かが死んだわけじゃない。
理屈では、分かっている。
でも——
「……地上にいると」
言葉が、自然とこぼれた。
途中で飲み込みかけて、それでも止まらなかった。
「地上にいると、何が飛んでくるか分からなくて……」
雪。爆風。流れ弾。
避難集落の、あの一瞬。
「……何が落ちてくるかも分からなくて。どこから誰が消えるかも分からなくて」
あすみは、ぎゅっと壁の縁を掴んだ。
「足元が——信用できないんです」
言ってから、自分でも笑いそうになった。
軍人としては、致命的な本音かもしれない。
地上で戦う兵士たちは、まさにその「足元」で戦っているのに。
ハイルトンは、しばらく何も言わなかった。
ただ、横顔だけはちゃんとこちらを向いている。
「……空にいる方が、まだ落ち着くんです」
あすみは、正面の夜空を見たまま続けた。
「宇宙に出ると、全部見えるから。
何が飛んできて、どこから来てるのか。どこまでが自分の届く範囲で、どこからが届かない場所なのか」
輸送船。
敵機。
破片。
全部、画面とHUDの中で、位置がはっきりする。
「……怖くないわけじゃないです。でも、空の方が、まだ……安心できる」
言ってしまってから、口を噤んだ。
(何言ってるんだろ)
地上で血を流している兵士が聞いたら、殴られてもおかしくない。
そう思って横目で司令を見ると——
ハイルトンは、相変わらずの気の抜けた顔で空を見ていた。
(……守られていた子どもが、自分で守ろうとしてる顔だ)
心の中だけで、ゆっくりと呟く。
(あの野郎……やっぱり、厄介なのを寄越してきやがったな)
午前四時の極秘回線。
布団から半分も出てこなかった金髪の教官の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
——ちゃんと“こっち側”で生かして返して下さいよ。
(こっち側、ね)
この空の下で、“地上”と“宇宙”を行き来しながら、何度も「一」を数える側。
そこから目を逸らさないでいる子どもは、もうとっくに「ただ守られている側」ではいられない。
「……いいんじゃないか」
「え?」
間の抜けた声が出た。
「空にいる方が安心、か。パイロットとしては、悪くない感覚だ」
ハイルトンは、そう言って肩をすくめた。
「地上が怖くない奴の方が、たまに危ないからな。
何が飛んでくるか分からない場所を“怖い”って思えるなら、まだ大丈夫だ」
「……“まだ”、ですか」
「“もう”かもしれないな」
どちらとも取れる言い方で、軽く笑う。
「お前が空にいると安心するなら、空にいる時間を増やせばいい。
それが結果的に、今日みたいに地上で守れる範囲を増やすことになるなら——軍としても文句はない」
そこで、ほんの少しだけ真面目な声に変わる。
「ただ、一個だけ言っとく」
あすみは、横顔に意識を向けた。
「空にいる方が安心だからって、“地上の怖さ”をごまかすな」
ハイルトンの視線は、夜空ではなく、遠くの医務棟の灯りに向いている。
「今日の“死亡一”は、空から見えなかっただろ」
雪煙の向こう。
爆発の中心。
「見えなかったからって、なかったことにはできない。
空が居場所になったとしても、“地上で何が起きてるか”から目を逸らしたら——パイロットとしては、そっちの方が致命的だ」
淡々とした口調のまま、釘を刺す。
「……大丈夫そうか?」
問いというほど強くない問い。
あすみは、ゆっくりと息を吐いた。
「……多分」
空にいる方が安心だと、自分で言葉にしたことで——
逆に、地上の怖さも少しだけ輪郭を持った気がする。
全部を一度に抱えるのは無理でも。
(“届いたところ”には、ちゃんと手を伸ばす)
昼間、司令に言われた言葉が、胸の中でもう一度反芻される。
もう一度、夜空を見上げて言った。
「空、好きです。」
それは、多分——十五歳のあの日。
コロニーの教室で、窓越しの地球を見上げていた時から、変わっていない感覚だった。
ハイルトンは、ふっと口元だけ笑った。
(……やっぱり、もう戻れねぇな)
読者にしか聞こえないところで、そう思う。
(あの日、“こっち側”に連れてこられた子どもは、だいたい同じ顔をする)
空を見上げながら、守りたいと思う顔。
全部を抱え込もうとして、足元から折れかける顔。
そして——それでも、目を逸らさないと決めた顔。
「じゃあ——」
ハイルトンは、わざとらしく大きく伸びをした。
「空にいる時間を増やしてやるから、明日からもちゃんと訓練出ろ。寝坊したら、俺が直々に叩き起こしに行く」
「……それ、脅しですか?」
「褒美だよ。基地司令に叩き起こしてもらえるなんて、なかなかないぞ」
「遠慮します」
短いやりとりに、夜風が混じる。
ハイルトンはマグカップを片手でぶらぶらさせながら、屋上の扉に向かって歩き出した。
「風邪ひく前に戻れよー。医務班に怒られるのは俺だからなー」
「怒られる理由が違うと思いますけど」
扉が閉まる。
足音が、階段の方へ遠ざかっていく。
残された屋上で、再び静寂が戻った。
あすみは、もう一度だけ空を見上げた。
星は、さっきと同じ位置にある。
地上では、またいつか何かが吹き飛ぶかもしれない。
何人も、何十人も、あっさり数字になる日が来るかもしれない。
それでも——
(空にいると安心するって、自分で言っちゃったな)
その事実が、なぜか少しだけ心強かった。
守られていた子どもではなく、
空から守ろうとする誰かとして、この基地に立っている。
そこまで自覚してしまった以上——
「……ちゃんと、飛ばなきゃ」
誰にも聞こえない声で呟き、あすみは屋上を後にした。
北方の夜空には、相変わらず、冷たくて綺麗な星が瞬いているだけだった。




