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SKY  作者: RUI
BASE UNION

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78/125

【特別編:後編】ノーザンクロスの願い

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 

挿絵(By みてみん)



ノーザンクロスの整備区画には、主機の低い振動が絶えず通っていた。

 天井灯の白い明かりが係留中の機体を鈍く照らし、開かれた点検盤の縁に、吊り下げられた工具の細い影を落としている。冷却装置の送風が床近くを這い、油と焼けた金属の匂いを薄く運んでいた。整備士たちの靴音や工具の触れ合う音が、高い天井の下で短く反響しては、艦の振動へ溶けていく。

 機体の脚元で端末を覗き込んでいたケイが、指を止めて顔を上げた。少し離れた点検ラックの前では、ミュラー・エリスが背を丸め、開いた整備記録の上へ顔を寄せている。まだ肩の線は細く、制服の袖は左右で高さも揃わないまま無造作にまくられていた。

「ミュラー! お前、システムチェック、昨日してないだろ」

 声を飛ばされ、ミュラーが肩を跳ねさせて振り向いた。視線が一度だけケイとぶつかり、すぐに逃げる。ばつの悪さをごまかすように、後頭部へ手をやった。

「あ、やべ。今からやります」

 ケイは眉を寄せ、端末を脇に挟んだまま歩み寄った。速くも遅くもない足音が、金属床を一歩ごとに硬く打つ。ミュラーはその音が近づくにつれ、わずかに首をすくめた。

「ったく、急な出撃命令が出たらどうすんだよ。ちゃんと毎日やれって言ったろ」

 ミュラーは肩をすぼめ、視線を落とした。

「……すいません」

 返事を聞いた途端、ケイの手が軽く動く。こつ、と乾いた音がして、ミュラーが頭を押さえた。

「痛っ」

 横で工具箱を整理していた整備士が、苦笑しながら間に入る。

「まあまあ、ケイさん。ミュラーも赴任してまだ一年くらいですし、そういう日もありますって」

「あ? そういう日が何日もあってたまるか」

 吐き捨てるような口調だったが、声に本気の棘はない。放っておけば好きな作業だけに没頭し、肝心の手順を抜かす子どもを、いつもの調子で現実へ引き戻しているだけだった。

「ったく、飛び級なんかしてくるからだろ」

 ミュラーはむっとしたように唇を尖らせた。だが、言い返すときの顔はまだ若い。反抗というより、自分の言い分だけはきちんと胸の内に残っている年頃の顔だった。

「つまんなかったんですよ、あそこは」

 その答えに、ケイは片眉を上げた。呆れたような顔の奥で、笑いかけた気配だけが一瞬動く。

「つまるも何もあるかよ。お前、まだ十七だろ。ガキは青春してりゃいいんだよ」

 ミュラーはきょとんとした。言葉の意味そのものが腑に落ちていない顔で首を傾ける。

「青春?」

 その反応に、整備士が吹き出しそうになって口元を押さえた。ケイは額を押さえ、天井を仰いでから、わざとらしく息を吐く。

「お前、彼女くらい置いてきてんだろ?」

 問われたミュラーは、間を置かずに首を振った。

「……いないですよ、そんなの」

 ケイは大げさに肩を落とす。

「は。これだからケツの青いガキは」

 だが、ミュラーはそこに乗らなかった。端末へ視線を戻したまま、もっと現実的なことを口にする。

「そんなことより、シャトルの時間は? 大丈夫なんですか?」

 ケイの表情が止まった。数秒前までの余裕が消え、脇に挟んでいた端末を乱暴に引き寄せる。表示された時刻を見た瞬間、眉間の皺が深くなった。

「あ、やべ。ちょっと行ってくる。戻ってくるまでにやっとけよ!」

 そう言い捨てると、ケイは踵を返した。整備区画の自動扉が開き、白い通路の灯りが一瞬だけ差し込む。その向こうへ、足早な背中がすぐに消えていった。

 残されたミュラーは、閉じた扉をしばらく見つめていた。やがて小さく息を吐き、こづかれた頭を押さえながら端末へ向き直る。指先で点検項目を呼び出す動きは、さっきより少しだけ慎重だった。

 整備士が笑いを残した声で言う。

「可愛がられてんな、ミュラー」

 ミュラーは返事の代わりに肩をすくめた。それから機体の脚元へしゃがみ込み、今度こそ点検項目を一つずつ追い始める。端末の青白い光が頬に映る。その横顔はまだ若く、これから失うものの形すら知らないまま、目の前の機体だけを見ていた。


   *


 医療区画は、昼でも夜でも同じ色をしていた。白い壁、白い床、白い天井。窓のない区画では時間の移ろいさえ消え、低い機械音だけが均質な空気の中を流れている。VRポッドの循環ポンプが、一定の間隔で静かに脈打っていた。

 透明なカプセルが二基、壁に沿って並んでいた。内部を満たす淡い光が、眠る二人の頬と閉じた瞼を薄く縁取っている。表示盤には安定した数値が並び、その規則正しさだけが、眠りの長さをかえって際立たせていた。

 ノエルは、その前に立っていた。

 肩から落ちた金髪を払うこともなく、ノエルは視線だけをカプセルの内側へ落としていた。細い指先が透明な縁へ触れる直前で止まる。隔てているのは薄い素材一枚のはずなのに、その距離を越えられないように、指は触れないまま宙に留まった。

「……アスミ。カイト」

 祈るような、小さな声だった。

 応えるものはない。眠る二人の睫毛さえ動かない。返ってくるのは、循環ポンプの呼吸と、壁の奥で回る換気装置の低いうなりだけだった。

 背後で、靴底が床を軽く打つ音がした。迷いのない歩き方。疲労と焦りが混じっても、足音の癖だけは変わらない。

 ケイが入ってきた。入口で一度足を止め、並んだVRポッドへ視線を向ける。いつもの乱暴な笑みはなかった。眉間には薄い皺が残り、寝顔を見つめる目だけが、何かを警戒するように静かに鋭い。

「ノエル」

 短く名前を呼び、隣に並ぶ。伸ばしかけた手を途中で止め、拳を握って開き、そのままポケットへ押し込んだ。

 ノエルは振り向かない。カプセル越しの寝顔を見つめたまま、口元だけをわずかに持ち上げる。

「……見てから行こうと思って」

 掠れた声で言う。

「今日、戻ってきたら……また、報告しなきゃでしょ」

「律儀だな」

 ケイは苦く笑い、視線を横へ逃がした。

「……俺は苦手だ。眠ってる相手に言葉を投げるのは」

「ふふ。貴方はね。信じられる? 二人とも、もう五歳になるのよ」

 ノエルは少し微笑んだあと、目を伏せ、カプセルの上で軽く指を握る。

「……言葉が返ってこなくても、残るわ。残るの。意外と強いのよ」

 ケイはそこでようやく、ノエルの横顔を見た。

 怖いときほど、言葉が綺麗になる。その声が穏やかであるほど、内側で押し殺しているものが大きい。昔から変わらないその癖が、ケイの胸の奥をじわりと締めつけた。

「……今日は、コロニーの調査だけだ」

 小さく息を吐き、顎を指先で掻く。

「すぐ帰れる」

 ノエルは、困ったような笑みを浮かべた。

「大丈夫よ。宇宙の外が全部地獄みたいに思えたら、私、連邦研究員なんてやってられないもの」

 その言い方が、ケイの胸に小さく刺さった。宇宙の外側を、世界そのものを、すべて地獄だと思いかけた瞬間が、ケイにも確かにあった。ノエルはそれを知らないふりで笑い、ケイも知られたくないふりで黙った。

 そのとき、廊下の向こうから、少し騒がしい足音が近づいてきた。軽い口笛交じりの呼吸。扉が開く直前に、ひょいと声が飛ぶ。

「ノエルー! シャトルの時間!」

 ロイは扉を開けると同時に片手を上げた。その笑顔と明るさが、真っ白な部屋の空気へすっと入り込んでくる。

「ケイもいた」

 ロイは肩を軽く揺らしながら言った。

「相変わらず、ここ好きだね。医療区画の空気って、眠くならない?」

「うるせえ声だな」

 ケイが渋い顔で片眉を上げると、ノエルがようやくロイの方を向き、こくりと頷いた。制服の上に羽織った上着の襟を整え、仕事の顔へ戻っていく。

「行くわ」

 ノエルはバッグの紐を握り直し、凛とした表情になる。

「……ロイ、今日は早めに戻るって言ってたわよね?」

「もちろん」

 ロイは軽く敬礼し、片手をひらひらと振った。

「奥さんに電話しないと怒られちゃうし」

 その言い方が可笑しくて、ノエルは小さく吹き出した。白い部屋へ、ごく短い笑い声が落ちる。ケイも、その間だけ口元を緩めた。

 医療区画を出ると、圧力扉の向こうには基地の空気があった。

 消毒液の匂いから、金属とオイルと冷えた空気の匂いへ。圧力扉一枚を隔てるだけで、空気の重さまで変わる。北方基地は区画ごとに呼吸を変える、大きな生き物のようだった。

 ケイは、二人の背中に向けて声を投げた。

「二人とも、気をつけろよ」

 ノエルは振り返り、柔らかく笑って手を振る。

「大丈夫よ。いってきます」

 ロイも振り返り、にやっと笑って親指を立てた。

「任せて。あ、そうだ、ケイ。昨日さ、奥さんから写真が来て」

 歩きながら、ロイは端末を取り出した。画面には、笑っている小さなジョンの写真が映っている。まだ幼く、目だけは真っ直ぐだった。

「ほら、ジョン」

 ロイは嬉しそうに目を細め、ノエルに端末を見せた。

「僕に似なくて良かったよって、奥さんがさ。ひどくない?」

「ひどいけど……分かるかも」

 ノエルは口元を手で押さえ、肩を震わせる。

「ロイ、子どもの頃の写真、顔がうるさかったもの」

「うるさいって何」

 ロイは大げさに胸を押さえ、よろける真似をした。

「ねえ、ケイ。今の聞いた? ノエルが僕を侮辱した!」

 ケイは返さなかった。口を開きかけたまま、声にならなかった。すぐそばにいる二人の笑い声が、なぜか先に遠ざかっていくように聞こえたからだ。

 遠くで、シャトル用ハンガーの扉が開閉する音がした。金属が擦れる低い軋み。基地の鼓動。

 その音に紛れ、ノエルとロイの足音は角を曲がり、視界から消えた。

 廊下には、消毒液と冷たい金属の匂いだけが残った。

 ケイはしばらく動かず、二人が消えた角を見つめていた。背後の医療区画から、VRポッドの機械音が耳の奥へぶり返してくる。

 この日が境目になることを、その時点でケイはまだ、言葉にできなかった。


   *


 連邦軍保護下の宇宙コロニー。外縁部居住区。

 狭い通路の頭上を剥き出しの配管が走り、継ぎ目から断続的な振動が伝わっていた。人工重力のわずかな揺れに合わせ、壁際へ吊られた生活用品がかすかに触れ合う。小さな窓の向こうには、青白い惑星が遠く浮かんでいた。

 食器の触れ合う音や子どもの声、古い空調の唸りが入り混じる区画に、突然、異質な音が割り込んだ。

 乾いた破裂音。息を呑んだ直後に漏れる悲鳴。通路を揺らす重いブーツ。金属扉を蹴り開ける鈍い衝撃。日常の音が、一つずつ暴力の音に塗り潰されていく。

 BATOR。オルディア狩りを目的として発足したばかりの実働部隊が、帝国兵と共にコロニー内部を制圧していた。黒い軍装の列が通路を塞ぎ、扉を開け、人々の顔と端末の名簿を無機質に照合していく。

 ノエルは人の流れに逆らって走っていた。子どもを抱えた母親の腕を引き、足のもつれた老人の背を押し、狭い通路から避難ハッチへ誘導する。

 表情だけは冷静に保っていた。だが、吸い込んだ空気は喉の奥で引っかかり、声を出すたびに胸が硬く縮んだ。

「こっち!」

 声を張り上げ、非常灯の赤い光の下で人々を一人ずつハッチの向こうへ押し出す。警報灯が回るたび、白い研究衣と逃げ惑う顔が赤く染まり、また暗く沈んだ。

 ロイが、その少し前を走っていた。データパッドを片手に、反対の腕を広げ、盾になるように立ちふさがる。

「ノエル、下がって!」

 歯を食いしばった声と同時に、帝国兵の弾丸が飛び込んでくる。

 金属壁を叩く火花。次の一発がロイの胸元を掠め、身体が横へ弾かれた。

 ロイの背が壁へ叩きつけられ、鈍い音が通路に響いた。肺から空気が押し出される、短く掠れた音。

 ノエルの視界が白く跳ねた。

「ロイ!」

 伸ばした手が空を掴む。駆け寄ろうとしたその前に、黒い軍服の影が滑り込んだ。

 帝国兵が通路を塞いだ。

 ヘルメットの奥にある顔は動かない。銃口だけがノエルの胸元を正確に捉えている。背後からは、拘束具を手にした別班が足並みを揃えて近づいてきた。

「標的確認。オルディア系研究員」

 短い帝国語の通信が、ヘルメット越しに漏れた。

 次の瞬間、ノエルの腕を、冷たい手袋の手が掴む。

「離して――!」

 叫びは金属通路を何度も跳ね返った。だが、警報と銃声と泣き声の中で、その声を拾う者はいなかった。

 ロイは意識を失ったまま、その場に倒れている。ノエルは逆方向へ、強引に引きずられていった。

 非常灯の赤が、白い研究衣を染める。

 逃げる人々と進入する兵士が交錯する混乱の中で、ノエルの姿は、通路の奥へ呑み込まれるように消えた。

 床には、肩から滑り落ちたバッグが残された。非常灯が明滅するたび、その脇に張りついた一本の金髪だけが、かすかに光った。


   *


 北方基地。作戦本部。

 壁一面のモニターに、コロニー各所の監視映像が断片的に並んでいた。映像は何度も乱れ、音声は銃声とノイズの間で途切れる。

 ある画面では、人影が通路の角へ消える。別の画面へ切り替わったときには、もうどこにもいない。さっきまでそこにいたはずの人間が、記録の欠落に呑まれていた。

 通信卓のランプが明滅する中、ハイルトンが静かに口を開いた。

「……ロイは連合側の救出部隊に引き上げられた。医療チームが対応しているが、重体だそうだ」

 ケイは椅子の背を握りしめていた。金属の角が掌へ食い込んでいるはずなのに、力は緩まない。白くなった指の節だけが、抑え込んだ呼吸に合わせてわずかに震えていた。

「……どこだ」

 低い声が漏れる。

「どこに連れて行かれた」

 机の向こう側で、イルは端末から目を離さなかった。画面に走る航路図の光が、伏せた瞳へ青く反射している。

「コロニーからの撤退ルートは三つ」

 淡々と整理する。

「一つは帝国側艦艇による直接回収。二つ目は、民間船を装ったシャトル経由で帝国域内へ。三つ目は――」

 端末に新しいウィンドウが重なった。通信士が顔色を変えて振り向く。

「司令、帝国軍暗号回線の断片を解読しました!」

 作戦室の空気が動いた。椅子が軋み、何人もの視線が通信卓へ集まる。

 スピーカーから、雑音に削られた短い音声が流れた。

『対象ノエル=オルディア、捕獲完了。インシオン本土、帝国施設コロニー第七研究区画へ移送――』

 激しいノイズが走る。

『――その後、証拠隠滅作戦に統合。発令者、ロナルド=オルディア二世――』

 そこで音声は途切れ、砂嵐のような雑音だけが作戦室へ残った。

 ケイの中で、何かが軋んだ。

「……インシオン本土、だと」

 喉の奥から、笑いにも悲鳴にもならない息が漏れた。

 インシオン本土。その短い言葉だけで、北方の雪も、NTOの境界線も、救出までに必要な時間も、すべてが遠くへ押しやられた。

 インシオン本土。帝国の心臓部。そこへ、ノエル一人だけが運ばれていく。

「出る」

 ケイは椅子から立ち上がった。勢いで、椅子の脚が床を鳴らす。

「俺が出る。許可を出せ」

「本部許可が降りない」

 イルは顔を上げないまま、冷静に言う。

「帝国本土への無許可侵入は開戦行為だ。スクランブル枠もない。今出れば、ノーザンクロスごと切り捨てられる」

「枠?」

 ケイは机越しにイルを睨んだ。唇を噛み、拳を握りしめる。

「ふざけんな。枠の話をしてる間に、人が一人、インシオン本土まで攫われてんだぞ」

 イルの表情は変わらなかった。変えられないのか、変えるつもりがないのかも分からない。その無表情さが、ケイの苛立ちに油を注いだ。

「いずれ、交換要員になる可能性も――」

「数字の話しかできねえのかよ」

 ケイの声が低く沈む。

「『オルディア系研究員一名、将来的資産として確保』ってか。……ノエルは資産じゃねえ」

 背後で椅子が軋む音がした。

 ハイルトンは背もたれへ体重を預けたまま、目だけでケイを追っていた。

 いつものだらしなさは影を潜めている。組んだ腕は動かない。瞳の奥だけが、眠気を失った獣のように冴えていた。

「落ち着け、ケイ」

 短く、刺すような声だった。

「今、暴れても誰も助けられない」

「今黙ってたら、確実に殺されるだろ」

 ケイは振り返り、ハイルトンを睨む。

「あいつは今、名札だけつけられた実験室の中で、数字待ちしてんだ」

 それを聞きながら、ハイルトンも奥歯を噛みしめた。

 証拠隠滅。その四文字の下では、施設も記録も人間も、同じ消去対象になる。上にいる誰かが、紙の上を綺麗にするために、現場のすべてを燃やすと決めたのだ。

 血の温度と、机の上に落ちるインクの冷たさは、いつだって別物だった。

 ハイルトンは、それを嫌というほど知っていた。


   *


 数時間後。北方基地、作戦本部。

 窓の外では雪が横殴りに流れ、基地灯の光を細かく切っていた。そのさらに上、雲の向こうでは、低軌道を回るノーザンクロスが見えない航路を進んでいる。

 作戦卓の端末に、新しい指示が届いた。着信音はあまりにも平坦だった。

 本部からの通達。開戦回避。外交カード。数字。

『現状、救出作戦は見送り。対象は捕虜待遇として扱われるものと期待する』

 画面の文言を最後まで読んだ瞬間、ケイの中で、張りつめていた何かが音もなく折れた。期待というほど綺麗なものではない。NTOが最後には人間を選ぶかもしれないという、捨てきれずにいた僅かな残りだった。

 椅子が床を擦る音が、鋭く響く。ケイは立ち上がり、荒い息のままイルを睨んだ。

「俺は行く」

「ケイ、待て」

 イルは声を強め、手を伸ばす。

「命令を――」

「命令?」

 ケイはその手を振り払った。目が怒りで光る。

「お前、俺を誰だと思ってる。大人しくNTOにいてやったのは、ノエルを見殺しにするためじゃねえ」

 作戦室の空気が張り詰めた。誰も端末へ触れず、空調の低い送風音だけが、沈黙の中でやけに大きく聞こえた。

 ハイルトンはしばらく黙っていたが、次の瞬間、背後の椅子を足で蹴り飛ばした。

 金属製の椅子が床を滑り、作戦卓の脚へぶつかって派手な音を立てた。

 イルが、言葉を失う。周囲の士官たちも息を止め、ハイルトンへ目を向けた。

「司令」

 ハイルトンは苛立ちを隠さず、イルを睨み返した。

「ケイはもう十分、失った。これ以上、何を失わせるつもりだ」

 イルの指が端末の上で止まった。命令を維持すべき司令官の顔と、その命令を嫌悪する一人の人間の顔が、ほんの一瞬だけ重なる。

 その僅かな揺れを、ハイルトンは見逃さなかった。

「……ケイ」

 低い声で呼ぶ。

「行け」

 ハイルトンはケイに向き直った。

「飛べるな。あとは何とかする。お前が戻る場所くらいは、どうにか残してやる」

 ケイの表情が、一瞬だけ揺れた。

 ハイルトンは、それ以上何も言わない。ケイも問い返さなかった。

 歯を食いしばり、短く頷く。

「飛べる」


   *


 ノーザンクロス艦内、格納庫。

 天井の高い格納庫に、整備ライトが白い島のように点々と浮かんでいた。オイルと冷却剤の匂い。工具がぶつかる乾いた音。遠くで始動試験中のエンジンが唸り、床面の細かな埃を震わせている。

 ケイはシャトルから降りるや否や、一直線に自機のヴィーラへ向かった。

 整備士が慌てて前に飛び出す。両手を広げ、必死に声を張った。

「待ってください! 出撃許可が――」

「てめえ、そこをどけ!」

 怒鳴り声が格納庫中に響いた。整備士の肩を押しのけ、そのまま梯子を駆け上がる。

 コクピットへ身体を滑り込ませ、ハーネスを乱暴に引き寄せる。金具が胸元へ食い込み、呼吸が浅くなる。手は震えていた。それでも、起動スイッチへ伸びる指だけは迷わない。長く繰り返してきた手順が、感情とは無関係に身体の中へ残っていた。

 起動音が連鎖し、計器の灯りが次々と点る。

 ヴィーラが眠りから叩き起こされる。

「レイナー中尉!」

 誰かが叫ぶ声を無視し、ケイはキャノピーを閉じた。

 そのとき、別の足音がこちらへ向かって走ってくる。

 ミュラー・エリスだった。

 同僚に腕を掴まれながら、それを振りほどいて駆けてくる。顔色は血の気を失っていたが、瞳だけは逸れなかった。怖れていないのではない。怖れたまま、もう決めてしまった目だった。

「ミュラー! やめろ、処分されるぞ!」

 背後から同僚が叫ぶ。

「知ってます!」

 振り返りもせず、ミュラーは別機の梯子を一気に登った。コクピットへ飛び込み、キャノピーを叩き閉める。

 二つの機体のHUDに、同じ通信チャンネルが開いた。

 《ノーザンクロス二番機、出る》

 ケイの低い声が響く。

 《三番機、ミュラー・エリス。勝手に付き合います》

 ミュラーの声はかすかに震えていたが、迷いはなかった。

 《お前まで処分を受けるぞ》

 《そんなこと、どうでもいいですよ!》

 その瞬間、ケイはほんの少しだけ救われた気がした。

 正しいかどうかではない。誰かが同じものを許せないと思い、同じ方向へ飛ぼうとしている。それだけで、折れかけた膝に、もう一度力が戻った。

 次の瞬間、格納庫前方の隔壁がゆっくりと開いた。警告灯が赤く回り、減圧を告げる低い音が床を這う。宇宙へ通じるエアロックの青い光が、二機の外装を冷たく照らした。

 固定具が外れる。推進器が白く噴き、ノーザンクロスの腹から、二つの光跡がほとんど同時に飛び出した。


   *


 インシオン本土。帝国研究施設第七研究区画、外縁軌道。

 黒い惑星の縁に、夜明けのような細い光が差し込んでいた。その上空には、帝国の研究衛星が規則正しい間隔で並び、無数の小さな灯火を闇へ浮かべている。

 計器の光だけが、コクピットの中の顔を青く照らす。

 帝国側の迎撃信号がレーダー上に赤い点を打った。数は一つではない。警告音が短く鋭く鳴り、回避噴射に合わせて機体へ細かな振動が走る。

 《左、来ます!》

 ミュラーの声。

 《分かってる》

 ケイが応じる。

 火線が機体の背を掠め、警告表示が一瞬だけ赤く染まった。次の衝撃で座席が軋み、振動が背骨まで突き抜ける。

 二機は散開することなく、火線の隙間を縫うように加速した。

 遠くに、小さな灯りの群れが見えてきた。帝国本土の外縁軌道に浮かぶ実験施設。レーダー上の距離表示が、目に見える速さで減っていく。

 あと少しだった。あと、数十秒。

 ――そのとき。

 光が、惑星の縁を裂いた。

 白熱した閃光が計器の色を消し、キャノピーいっぱいに広がる。遅れて到達した衝撃波が機体を横殴りに叩き、警告音が重なってコクピットを満たした。

 黒かった惑星の縁が、一瞬だけ昼のように白く染まった。

「……ノエル」

 ケイの喉から、勝手に声が溢れる。

「やめろ……やめろ!」

 握りしめた操縦桿に、骨が軋む痛みが走る。爆風が二機を押し戻し、姿勢制御警告が一斉に点滅した。

 通信が一度途切れ、砂嵐のようなノイズだけが残った。

 ミュラーは、視界を覆う光を見たまま言葉を失っていた。操縦桿を握る指が硬く固まり、スピーカーからは、短く乱れた呼吸だけが漏れている。

 《……目の前に、いたのに……》

 震えた声が、どうにかそれだけを絞り出した。

 届かなかった。ほんの少しの差だった。

 距離にすれば、数値で表示できる。時間にすれば、数十秒でしかない。

 それでも人の命は、その僅かな差で平然と消えた。

 燃え上がる施設の上を、証拠隠滅という文字だけが、何事もなかったように通り過ぎていく。


   *


 軍からの処分は、驚くほど淡々としていた。

 窓のない審査室の机上に、青白いホロパネルが浮かび、三人分の処分項目を同じ大きさの文字で並べていた。誰かが頁を送るたび、乾いた操作音だけが鳴った。

 《被処分者:ケイ・レイナー

 現階級:中尉 → 少尉(一階級降格)

 所属:ノーザンクロス搭載ヴィーラ部隊 → 艦隊本部付技術要員

 処分内容:

 ・無許可出撃による軍規違反

 ・オルタイト搭載機の無断運用

 ・ノーザンクロス艦長判断に同調した責任

 以上をもって、当人の艦載パイロット資格を無期限停止とし、

 オルタイト関連実戦任務から完全に外す。

 インシオン本部(NTO軍第〇技術局)への配置転換を命ずる》

 《被処分者:ハイルトン・グレイ

 現階級:中尉 → 少尉(一階級降格)

 所属:NTO宇宙艦隊ノーザンクロス艦長 → 艦隊予備役

 処分内容:

 ・指揮官としての統制義務違反

 ・部下による無許可出撃を黙認した責任

 以上をもって、艦長職を解任し、

 一定期間の停職ののち、辺境警備任務への異動を命ずる》

 《被処分者:ミュラー・エリス

 現階級:二等兵(最下級のため階級据え置き、懲罰任務)

 所属:ノーザンクロス搭載ヴィーラ部隊

 処分内容:

 ・上官への無断追随による無許可出撃

 ・作戦行動規定違反

 以上をもって、六ヶ月の飛行任務停止および謹慎処分とする。

 復帰には医療局による心理評価、適性検査を要する》

 紙の代わりに浮かぶ文字は、触れられないほど冷たく見えた。

 そこには、ノエルの名前も、あの爆光の色も、ミュラーの途切れた声も、何一つ記されていない。

 誰を何階級落とし、どこへ移し、どの権限を奪ったか。

 本部にとって必要なのは、それだけだった。

 ケイ・レイナー。一階級降格。ノーザンクロスから外され、インシオン本部行き。

 ハイルトン・グレイ。艦長職を剥がされ、辺境送り。

 ミュラー・エリス。パイロットバッジを取り上げられ、半年の謹慎。

 現場で燃えたものも、奪われたものも、報告書の中では処分履歴へ置き換えられ、同じ書式の中に整然と収められていく。

 分かっていたはずだった。忘れたことなど、一度もなかったはずだった。

 NTOは、人を守るために存在する場所ではない。

 それでも、ノエルだけは人として扱われるかもしれないと、どこかで思っていた。

 その思い違いが、遅れて火のように胸を焦がした。


   *


 滑走路には雪が薄く積もり、横風がその表面を削って白い筋を走らせていた。待機中の輸送機から低い始動音が響き、地面を通して腹の底を震わせる。吸い込むたび、凍った空気が肺の奥を刺した。

 ケイは肩に掛けた荷物の紐を握り直し、足を止めた。

 背後にはハイルトンが立っていた。コートの襟を立て、火の点いていない煙草を咥えている。風に煽られても、手を添えようとはしない。煙草を点ける余裕も、いつもの軽口を挟む余裕もない顔だった。

「子どもはどうするんだ」

 渋い表情のまま、低く問う。

「……コロニーにいる限りは、安全だろ」

 ケイは視線を逸らし、短く息を吐いた。

 コロニーの医療区画が脳裏に浮かんだ。VRポッドの淡い光。閉じたままの瞼。五年分、積み重なったまま動かない時間。

 守るべきものを残し、ケイだけがインシオン本土へ送られる。

「コロニーの監視はノーザンクロスがしてくれるんだろ。何かあったら頼んだ」

 低い声で、それだけを預ける。

「……面倒くせえことを言いやがる。俺はもう艦長じゃねえぞ」

 ハイルトンは舌打ちし、わずかに口角を歪めた。

「繋ぎ止めて、悪いとは思ってないからな」

 そう言ったハイルトンに、ケイは答えなかった。そのまま輸送機の方へ歩いていく。

 輸送機の回転灯が雪を赤く照らす。その明滅の中に、三人の姿があった。

 ミュラーは正面に立ち、軍帽の影からケイを見上げていた。唇を固く結んでいるのに、目だけがどうしても子どもっぽさを捨てきれず、頼るように揺れている。

 ラナは唇を噛みしめ、胸元の制服を握っていた。風が髪を乱しても、直そうともしない。

 エリンは背筋を伸ばし、感情を外へ出さずに立っている。ただ、その視線だけが、ケイの曖昧な言葉も、背を向けて逃げることも許さなかった。

「……戻ってくるんですよね」

 ミュラーが、必死に平静を装った声で言う。握りしめた拳が、小刻みに震えていた。

 ケイは、すぐには答えなかった。

 輸送機のエンジン音が、返事を急かすように低く唸っている。

 ここで戻ると約束してしまえば、この先、自分がどれほど軍に失望しても、その言葉に縛られる。

 それが自分にも、目の前の十七歳にも、嘘になる気がした。

 代わりに一歩近づき、ミュラーの目の前に立つ。

「……お前には、もっと教えたいことがあったんだけどな」

 ケイは乱暴に笑い、ミュラーの額へ自分の拳を軽く当てた。

「育てきれなくて、悪いな」

 少しだけ間を置き、言葉を変える。

「……お前は、こうなるなよ」

 ミュラーの顔が、そこで初めて十七歳の少年のものになった。

 心細さを隠す術もなく、それでも泣きたくないと必死に堪えている。何かを言おうと唇が動いたが、喉が震えるだけで、声にはならなかった。

 ケイはミュラーの軍帽を取り、髪が四方へ乱れるほど乱暴に撫で、もう一度帽子を被せた。

 慰めるためではない。これ以上、自分を追わせないための、置いていく手つきだった。

 横へ視線を流す。

「エリン」

 短く呼ぶ。

「娘を頼む」

 エリンは目を細め、胸に手を当てて静かに頷いた。

「……分かったわ」

 それだけで十分だった。

 ラナが、張りつめていたものに耐えきれなくなったように一歩踏み出した。靴底が雪を踏み、薄い氷を砕く。

「……ケイ」

 潤んだ瞳で、言葉を探す。

「必ず……」

 そこまで言って、声が掠れた。

 ケイは、いつもの乱暴さを無理やり顔に戻し、軽く手を上げた。

「――うるせえ。寒いんだよ、ここ」

 わざと雑に言い、三人へ背を向けた。

 タラップの金属段へ足を掛ける。手すりは氷のように冷たかった。

 上りきる直前、ケイは一度だけ振り返った。

 雪混じりの風の向こうに、ミュラーが立っている。

 親に置いていかれる子どものような顔で、必死に泣かないようにしていた。

 ――ああ。壊したのは、俺だけじゃねえな。

 NTOも、戦争も、数字も。全部まとめて、この子の子ども時代を奪った。

 ケイは、その表情を目に焼きつけ、二度と取り出さないつもりで胸の奥へしまい込んだ。


   *


 輸送の途中で、ケイは行方不明になった。

 同じ頃、北方基地の作戦室では、夜を跨いだ照明が白々と点いたまま、イルとハイルトンが紙の上の処理を終えようとしていた。

 《輸送機×号、帝国側残存勢力との小規模交戦により消息不明。乗員、搭乗員は全員行方不明(MIA)》

 司令官の署名。副署。時刻。証言者。

 必要な欄が一つずつ埋まり、最後に記録が閉じられる。

 その瞬間、ケイの存在は、軍の中で「いない人間」になった。

「……MIA。紙の上では行方不明扱いだ。これで、上は満足か」

 ハイルトンが、ぼそりと呟く。

「実験記録も、違反出撃も、全部『処理済み』だ」

 イルは何も言わなかった。

 机上の端末が放つ青白い光だけが、疲労の刻まれた横顔を照らしている。ハイルトンも、それ以上は問わなかった。答えを聞けば、誰かが責任を引き受けなければならなくなる。

 ケイは消えた。

 だが、ノーザンクロスのどこかには、彼の怒鳴り声の残響だけが、しつこく壁へ染みついたままだった。

 NTOへの怒りと失望だけが、消えずに残った。


   *


 ――現在。

 ARCLINEの格納庫の片隅。

 屋根を叩く雨音が、強くなったり遠のいたりしながら断続的に響いていた。整備灯の下には、白銀の機体が濡れた闇を背負うように静かに並んでいる。半分開いたシャッターの向こうでは、雲の切れ間から覗く星が、雨の筋の向こうにぼやけていた。

 その明かりの下で、カイトがサジと話している。

 灰色がかった髪の青年。目の色は灰色になったが、エリンによく似た目をしていた。

 二人は何かを話していた。雨音と整備機器の低い作動音に遮られ、内容までは聞き取れない。ただ、時折混じる短い笑いと、互いを警戒していない声の温度だけが伝わってくる。

 ケイは少し離れた暗がりに立ち、柱へ片方の肩を預けながら、その背中を見ていた。

 整備灯が揺れるたび、カイトの横顔が明るみに出て、また影へ沈む。

 胸の奥へしまい込んだ十七歳の表情が、その横顔へ不意に重なった。

 ……ミュラー。お前も、あのとき、あれくらいだったな。

 心の中で、苦く笑う。

 屋根を叩く雨音がひときわ強くなった。

 格納庫の灯りがわずかに揺れ、カイトの横顔から、一瞬だけミュラーの面影が消えた。

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