Sky75-届かない声-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
「第〇小隊。本日の任務は北西外縁の哨戒および掃討。対象は帝国機。第三勢力との接触は避けろ」
ヘイルの声は、変わらず平坦だった。空調の音に重なるように落ちたその一言で、室内の空気が締まる。
ヘイルは視線を画面に落としたまま続ける。
「港湾側の補給路沿いに敵影が散っている。追撃は不要だ。戦線から外れた機体を深追いするな。民間施設側へ寄せるな。以上だ」
説明はそれだけだった。追撃は不要。深追いするな。言葉だけ見れば単純な命令なのに、セリの中ではそこだけが重く残る。昨日のことが、頭の奥にまだこびりついていた。
ヘイルが最後に短く言う。
「質問は」
誰もすぐには口を開かない。端末の光が机の縁で揺れる。
「ありません」
最初に答えたのは、アスミだった。
表情は変わらない。声にも迷いがない。いつも通りの返答なのに、セリにはその滑らかさが落ち着かなかった。
ヘイルはそれ以上気にも留めず、端末を閉じる。
「十分後に発進準備へ入れ」
それだけ言って、踵を返す。扉が閉まる音が、やけに乾いて聞こえた。
椅子を引く音が重なり、隊員たちが立ち上がる。リオが端末を抱えたまま軽く肩を回し、ユイは無言で通路側へ歩き出す。アスミも席を立ち、ヘルメットを取り上げて扉へ向かった。
セリは一歩遅れて、その背中を呼び止める。
「アスミ」
アスミが振り返る。顔はいつも通りだった。不思議そうに目を向けるだけで、構える気配はない。
セリは数歩だけ距離を詰めた。怒鳴るつもりはなかった。だが、自分でも思った以上に声は低くなった。
「深追いするなよ」
アスミは一度だけ瞬きをした。それから、ヘルメットを脇に抱え直し、普通の調子で返す。
「必要が無ければしない」
短い答えだった。拗ねてもいないし、棘もない。セリはそのまま何も言えなくなる。
言いたいのはそこじゃない。だが、それをどう言えばいいのか、自分でもまだ分からなかった。
*
小さな執務室の空気は、外の廊下とは別の重さをしていた。
壁には基地の配置図と、本部への連絡経路図。机の上には端末と書類の束。部屋の主は席に座り、腕を組んでいる。
「……レイナー一等兵?」
ヘイルが、端末から目を上げた。
「はい」
シュタイナーは、正面の椅子に腰を下ろさず、立ったまま報告書を差し出した。
「本日の港湾任務を含めた最近の運用ログから、レイナー一等兵について〝要観察〟を推奨します」
「要観察?」
ヘイルは書類を受け取り、ざっと目を走らせる。
「根拠は?」
「感情の抑制傾向が見られます」
シュタイナーは、一つ一つの語を選ぶように言った。
「任務の成績は高水準です。識別から射撃までの時間も短く、被害も抑えています。――ただ」
そこで言葉を切る。
「ただ?」
「本人の返答に、揺れがありません」
シュタイナーは、廊下ですれ違った時のアスミの顔を思い出していた。
ヘイルは、軽く肩をすくめた。
「優秀な兵士だな」
「揺れないことと、感じないことは違います」
シュタイナーは声を荒げずに言った。
「このまま赤域運用を続ければ、彼女の消耗は機体より先に来ます。感情を抑え続ければ、判断のどこかが必ず遅れる日が来る」
ヘイルが端末を机に置いて、シュタイナーの顔を見る。
「……シュタイナー少佐。過酷な状況で戦っている兵士は他にもいる」
一度だけ目を下げて、今度はシュタイナーの目を見た。
「REDROSE一人に固執しすぎのように、私には見えるが?」
ヘイルは画面を指で叩く。
「それに、ゼルンハイトからの出向士官には、配置変更の申告権限はありませんよ」
「権限がないのは承知しています」
シュタイナーは、片手を握ったまま、爪が掌に食い込むのを感じていた。
「……私は、彼女一人に負荷がかかりすぎだと感じているだけです」
「記録は残す。だが、運用方針は変わらない。使えるうちは飛ばす」
使える。その言葉が、空気の中に残った。
シュタイナーは、口の中で何かを飲み込むようにしながら、短く息を吐いた。
「……了解しました」
それ以上、ここで言える言葉はなかった。軽く敬礼し、執務室を出る。
*
シュタイナーはその足で通信室へ向かった。
中は静かだった。ホロ画面を開くと、呼び出し音が数回鳴って途切れる。
通信が繋がった瞬間、電話口の男は呆れたように声を落とした。
「なんで秘匿回線なんだ、シュタイナー」
シュタイナーはホロ画面に敬礼をしてから話し始める。
「申し訳ございません。急いでいたので、こちらの方が早いと思いました」
ホロ画面の向こうには、ゼルンハイト評議会の議長執務室が映っている。画面の前に立っているのは、議長のローウェン・アドウェルだった。四十代半ばには見えない整った顔を少し傾けながら、シュタイナーに話しかける。
「なんだ、ホームシックか?」
シュタイナーは笑わない。感情を出さないまま、そのまま伝える。
「REDROSEがもしも配置換えで移動した場合、私も同じ場所へ行かせてください」
ローウェンは穏やかな表情を崩さない。
「随分と気にかけているようだが、彼女について行って、ゼルンハイトに何か利があるのか?」
西陽が通信室の小窓から、シュタイナーの背中を照らす。
「REDROSEは今や戦争の中心にいます。このまま戦況が進めば、必ず帝国は接触してきます」
ローウェンは、少しの間黙っていた。そして、頬杖をついていた手を前で組み直す。
「……それは、確かな情報があるのか?」
シュタイナーはローウェンから視線を逸らさずに言った。
「……今はまだ。私のただの予感でしかありません」
どんな手を使っても、落とすわけにはいかない。それが任務ではなく私情だと、第七艦隊から戻ってきたアスミを見た瞬間から、シュタイナーにはもう分かっていた。
ローウェンは軽くため息をつくと、組んでいた腕を解いた。
「死ぬ前には帰還しろ。条件はそれだけだ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。お前のそういう予感は、大体当たる」
ローウェンはそう言うと、片手を挙げてから通信を切った。
窓から差し込む西陽の中で、暗くなったホロ画面の前を埃が舞っている。シュタイナーは、それが光る様子を黙って見ていた。
*
港湾外縁の空へ入った瞬間、セリは今日の任務内容を頭の中でなぞり直した。
北西外縁の哨戒と掃討。対象は帝国機。敵影は港湾側の補給路沿いに散っている。深追いは不要、戦線を外れた機体は追うな、民間施設側へ寄せるな――ヘイルの平坦な声で落とされた指示は短かったのに、最後の言葉だけが喉の奥に残っていた。
海から吹き上がる湿った風が視界の奥を白く曇らせ、倉庫群の屋根と、補給路沿いに積まれた資材の角だけを鈍く光らせている。
そのさらに外、民間の避難導線として開けられた道路が細く伸びていた。上から見ればただの白い帯に見えるのに、実際の距離は嫌に近い。
防壁の残骸も、低い建物列も、身を隠すには足りても射線を切るには中途半端で、敵機が逃げ込むには都合がいい地形だった。
第〇小隊は、その上空へ四機で入る。
先頭を飛ぶアスミの機体は、今日も乱れがない。白い装甲の継ぎ目を走る赤い反応光が、姿勢制御のたびに細く脈を打ち、湿った空気を裂くように前を取っていく。少し後ろにセリ、右外にリオ、さらに上をユイが押さえる。
並びだけを見ればいつも通りで、だからこそセリは、胸の奥でずっと噛み合わないまま残っている違和感を、うまく言葉にできずにいた。
《前方、帝国機三》
上から落ちてきたユイの声に、セリは視線を前へ引き戻した。
倉庫列の向こうから黒い帝国機が抜ける。低く一機、少し上を二機目が取り、最後の一機が防壁の陰から遅れて滑り出した。青い反応光が白い空を裂き、その直後には火線が走る。
《Alpha2より各機、前で受ける。左右へ開きすぎるな》
自分の声を先に飛ばしながら、セリは機体の向きをわずかに落とした。
《了解》
最後の返答も、アスミは短く、静かで、余計な熱を一切含まない声で返してくる。
先に撃ってきたのは敵だった。白い閃光が倉庫屋根をかすめ、遅れて破片が跳ねる。
その間を、アスミの機体がわずかに身をひねるだけで抜ける。脚部スラスターが短く噴き、半身になった機体がそのまま敵へ正対する前に、右腕の銃口だけがひと足先に敵影を噛んだ。
発砲と同時に、一射目が黒い機体の肩口を弾き、崩れた姿勢へ追い込むように二射目が胸部中央へ入る。黒い装甲が裂け、火花を散らしながら敵機は倉庫群の向こうへ沈んだ。
《撃墜一》
管制の確認が重なり、右外からリオが低く笑う。
《今日も速ぇな》
《先に落ちただけ》
アスミの返答は軽い。その軽さが、セリには引っかかった。
速いのは前からだ。狙いがいいのも、姿勢制御が綺麗なのも知っている。いまの一機だけなら、ただ上手いで済む。問題は、その次の入り方だった。
残る二機が散る。一機は正面から火線を送り、もう一機は高度を落として補給路沿いへ切れた。低い建物列を盾にして位置をずらす、ごくありふれた逃げ方だ。ありふれているからこそ、その先に何があるかをセリは瞬時に思い出す。
《右、補給路沿いを行く》
リオの声が少し硬くなる。その言葉が終わるより先に、アスミの機体はもう前へ出ていた。
白い機体の関節光がきらりと揺れ、補給路の縁へ沿うように半身で滑り込む。まだ受け持ち空域の内側だ。まだ越えていない。けれど、入り方が深い。止まるべき位置より半歩先へ、ためらいなく体を入れている。
《アスミ、行きすぎるな》
セリが声を飛ばすが、返事はない。白い機体はなお前へ出る。
《下に民間搬送車両》
ユイの警告が落ちた瞬間、セリの視界が下へ引かれた。
補給路の外、建物の切れ目の向こうに、白い搬送車列が細く連なっている。避難誘導の旗が風に流れ、その真上を黒い帝国機がかすめるように抜けていく。
近い。地図の上で見ていた距離より、ずっと近い。
《追うな》
命令として飛ばした声は、自分でも分かるほど強くなっていた。
アスミの機体は止まらない。補給路の端をなぞるように白い機体が滑り、逃げる黒い機体との距離をさらに詰める。
その動きは、敵を追っているというより、届く位置を取りに行っているように見えた。
《まだ撃てる》
返ってきた声は短い。怒ってもいないし、焦ってもいない。ただ、条件だけを見ている声だった。
《撃つな!》
セリの喉から声が裂け、ほとんど同時にリオが外側から噛みつく。
《REDROSE、そこで撃つなよ! 下、見えてんだろ!》
黒い帝国機はさらに低く入る。民間搬送車列の真上すれすれだ。逃げるためにそこを選んだのか、追わせるためにそこへ流れたのかは分からない。
ただ、アスミの白い機体がなお前へ出ることだけは、はっきり見えた。
白い装甲の上体が沈み、右腕の銃口がまっすぐ伸びる。ここで撃てば届く。
敵を撃ち抜いたその火線がどこへ抜けるか、崩れた機体がどこへ流れるか、セリの目には先に見えていた。
《アスミ!》
叫んだ瞬間、白い機体がわずかに揺れた。照準は生きたまま、銃口だけが下がりきらない。
引き金に乗っていた意識が、そこでようやく止まる。下では、避難車両の白い屋根が朝の光を返していた。
その隙を逃さず、黒い帝国機が機体をひねる。搬送路の外へ抜ける長い軌道へ入り、完全な撤退へ移った。ここから追えば、受け持ち空域も、守る線も越える。
《……戻れ》
セリの声はもう怒鳴っていなかった。熱を通り越して、命令だけが硬く残っている。
それでもアスミの機体は前を向いたままだった。逃げた敵の消える先を見ている。その視線が、敵そのものではなく、そこにまだ残っている「届くかどうか」だけを測っているみたいで、セリは奥歯を噛んだ。
《前、戻れ!》
二度目の命令で、ようやく白い機体が動く。脚部姿勢制御が入り、追いすぎかけた機体が空中で踏みとどまる。上体の向きが戻り、銃口が中央へ引き返した。そのあいだに、黒い帝国機は補給路の外へ消えた。
搬送車列はまだ動いている。白い車体は途切れず、旗も倒れない。被害は出ていない。
にもかかわらず、セリの胸の内側には、助かったという安堵より、掴み損ねたものだけが重く残った。
《右、まだ一機残ってる》
ユイの声が短く位置を流す。
《押さえる!》
リオが応じる。セリは息を吐かず、そのまま機体を正面へ戻した。
《前を切る。リオ、右を押せ。ユイ、下を見失うな》
指示に合わせて隊列が立て直される。リオが右外から回り込み、ユイが上から位置を固定し、その中央へようやくアスミの機体も戻ってきた。
《了解》
アスミの返答は、何も起きていないみたいな、いつもの任務の声だった。その平たさが、今度はセリの喉ではなく、もっと奥の方をざらつかせた。
三方向から詰められた黒い機体が防壁の残骸側へ逃げ、火線が消える。
熱源が全て消失したあと、朝の白さだけが、また港の上へ戻った。
セリは息を吐かなかった。吐いたら、そのまま何かが外れそうだった。
下の搬送車列は動いている。白い車体が細く連なり、何事もなかったみたいに道路を進んでいく。被害は出ていない。
助かった、とは思えなかった。いま見たものが、ぎりぎりで止まっただけの何かだったことを、体のほうが先に分かっている。
補給路の端へ沈み込んでいった白い機体の角度も、伸びきった銃口も、呼びかけるまで戻らなかった視線も、まだ目の裏に残っていた。
違う、と舌の裏で思う。速いとか、上手いとか、そういう話じゃない。
前から兆しはあったはずだ。見えていなかったわけじゃない。
黒い機体を追っていたはずが、照準がいつの間にか別のものへ向いていた。いまのように。
それでも、まだ飛んでいる。それなら、きっと、まだ戻れるはずだ――。
白い機体が隊列へ戻ってくる。何事もなかったみたいな返答が回線に落ちるたび、胸の奥で鈍い音がした。
*
格納庫に戻り、コクピットから降りる。
タラップを降りて床に足をつけた瞬間、セリはヘルメットを脱ぎ捨てた。落ちた音が、周りの整備音よりも大きく響く。
そして、まっすぐアスミの機体へと歩いていく。いつものセリとは違うことに気づいた整備班が、機体の側で動きを止めた。
タラップから降りて、ヘルメットを右手で抱えながら整備班と話しているアスミの前に、逃げ道を塞ぐように立つ。目を捉えたまま、セリは言った。
「……アスミ。お前、ヴィーラから降りろ」
アスミがセリの顔を見る。目が、わずかに細くなった。
「何言ってるの? 任務はこなせてるでしょ」
「こなせてるわけないだろ!」
声が格納庫に響いた。近くにいた整備員がはっとして振り返り、リオとユイが自分の機体の前で動きを止める。
アスミは一度周囲を見渡してから、顔をセリに近づけて言った。
「ちょっと、声が大きいってば」
冷静だった。責めもしない。咎めるだけの言い方。
「でかくしなきゃ聞こえねえだろ!」
セリは自分でも分かるくらい、声を抑えきれていなかった。
アスミはその声に驚いたように、一度だけ肩を上げる。それから、ゆっくりと息を吐いて、ヘルメットを両腕で前に抱え直した。
「……聞こえてるよ」
「聞いてねえよ、お前は!」
セリの喉が、言葉の勢いで熱くなる。周囲の視線が集まり始めていた。格納庫の奥で、誰かが小さくため息をつく音がする。
しばらく、互いに何も言わなかった。
台車が通り過ぎる音。遠くのホイストが動く音。機体の冷却ファンが風を吐く音。その全部の上に、二人の呼吸だけが乗っている。
先に口を開いたのは、セリだった。
「もう一度言う。降りろ。今すぐ」
アスミは瞬きを一度だけした。
「……降りない」
「なんで」
「任務がある」
アスミの声には迷いがなかった。
「任務じゃなくて、お前自身の話だよ!」
セリが一歩詰め寄る。ヘルメットと胸の間の距離が縮まった。
アスミは、その距離を測るように一瞬視線を落とし、すぐに戻す。
「……私は任務をこなすために、ここにいる」
セリの表情が崩れた。
「お前……本気でそう思ってんのか」
「思ってるよ」
笑ってはいなかった。ただ、迷いがなかった。その迷いのなさが、セリを一番黙らせた。
長い沈黙が落ちる。格納庫の上のほうで、照明が一つ、カチ、と音を立てて切り替わった。
「……もういい」
セリが先に背を向けた。歩き出しながら、吐き捨てるように言う。
「俺じゃ無理だ。お前、もう……」
続く言葉は喉の奥で潰れた。
「セリ?」
アスミが呼ぶ。声はいつも通りだった。
セリは足を止めない。その背中に、アスミは静かに言った。
「……無理なら、配置を変えてもらえばいい」
セリの足が、止まった。ゆっくり振り返る。
「お前、今なんて言った」
アスミのヘルメットを握る指先だけが強くなる。
「もう無理なら、セリが配置を変えてもらえばいいって言った」
視線はぶれない。
「セリがいなくても……私一人でも、任務はこなせる」
その一言に、周囲の空気が冷えた。整備員が、工具を持ったまま固まる。誰も口を挟まない。音だけが、遠くのほうで続いている。
セリは、しばらく何も言えなかった。ようやく出てきた声は、低かった。
「……分かった」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。歩き去る背中を、アスミは追わなかった。
ヘルメットを抱え直し、整備士に向かって小さく頭を下げる。
「ログ、確認したら教えてください」
「……はい」
整備士は短く返し、視線を端末に落とした。
*
通信用の小部屋は、廊下の一番奥にあった。
扉を閉めると、外の音はほとんど入ってこない。壁には簡単な連絡用端末と、軍の紋章だけが掛かっている。
セリは椅子に座らずに、立ったまま回線を開いた。
「ノーザンクロス艦長室、ラナです」
少し遅れて、聞き慣れた声が返ってきた。
「アンダーソン一等兵?」
「はい。アンダーソンです」
言いながら、指先に力が入る。
「上層部に、アスミ・レイナーの配置転換を打診してください」
数秒の沈黙のあと、ラナは静かに言った。
「……何があったの」
その声が、いつもより低くなる。
「あいつを、これ以上〝兵器〟にしたくない」
セリは言葉を選べなかった。喉に引っかかるものを、そのまま出す。
「……遅いかもしれないけど……なんとかしたいんです」
回線の向こうで、小さく息を吸う気配がした。
「……分かった。上に確認する」
ラナは短く答える。
「ありがとうござい……すいません」
セリは目を閉じ、壁に額を軽く押しつけた。受話器を持つ手に力が入り、指先から色が消える。
「バディなのに、俺じゃ、手が届かなかった……」
言ってから、自分でその言い方に歯噛みする。
ラナの声が返ってきた。
「……いいのよ。よくやってるわ、あなたは」
言葉は柔らかくなかったが、責める響きもなかった。
「後はこちらで」
通信端末のランプが消え、部屋の中の音が自分の息だけになる。
受話器を置いた手で拳を作り、額を当てていた壁を一度だけ強く叩いた。そのまま、拳の上に額を乗せる。
「……っくそ……」
セリはしばらく、その小部屋から動かなかった。
*
ノーザンクロスの艦長室は、夜でも完全には静まらなかった。
壁の向こうで機関部の低い振動が続き、卓上端末の表示灯だけが青く小さく揺れている。
ラナは椅子に深く腰掛けることなく、机の端に片手を置いたまま回線を開いた。
数秒の無音のあと、連合本部側の映像が立ち上がる。副司令執務室は、ノーザンクロスの艦長室よりずっと広く、灯りも白かった。壁際の書架、整然と積まれた書類、そして中央の机。
イル・チャンティ副司令は椅子に座ったまま、端末越しにラナを見た。
「夜分に申し訳ありません、副司令」
ラナが先に口を開く。イルは書類から目を上げ、口元だけをわずかに緩めた。
「君が夜更けに回線を入れてくる時は、大抵ろくでもない話だな、ラナ艦長」
「ええ。今回は特に」
ラナは表情を変えない。その一言で、イルの目の色が少しだけ変わった。冗談の温度が引き、仕事の顔になる。
「言ってみろ」
ラナは間を置かなかった。
「アスミ・レイナー一等兵と、アンダーソン一等兵をノーザンクロスに配属させてください」
執務室の空気が、端末越しにもわずかに止まった。
イルはすぐには返さず、机の上の端末へ視線を落とす。もう関連記録は開いてあるらしかった。
「レイナー一等兵と、アンダーソン一等兵をセットで、か」
「はい」
「西方本部の成績は優秀だ。港湾線も首都近郊も、二人とも数字は文句ない」
イルの声は低い。感情を抑えているが、惜しんでいるのは分かった。
「……前線から退けろと?」
ラナはそこで初めて、机の上の指先を軽く動かした。
「前線から退けるつもりはありません」
声は静かだった。だが、そこで一度区切ったことで、言葉がはっきり立つ。
「このまま戦況が進めば、最後は宇宙空域であるノーザンクロスが前線になります」
イルは何も言わない。ラナはその沈黙ごと押し切るように続けた。
「そこでREDROSEと、その相棒を運用したいだけです。何か支障でも?」
イルの眉が、ほんの少しだけ上がる。執務室の白い灯りの下で、その顔は苦笑とも呆れともつかないものに見えた。
「言い方が相変わらずだな」
「遠回しに言っても、必要なものは変わりません」
イルは椅子の背にもたれ、短く息を吐く。指先で端末の縁を一度だけ叩いた。
「ログは見ている」
その一言で、ラナは何も足さなかった。
セリの回線から上がった訴えも、西方基地側の運用記録も、もうイルの机の上にあるのだろう。
「分かった。二人まとめてノーザンクロスへ配置を換える」
ラナはすぐには礼を言わない。条件が続くと分かっているからだ。案の定、イルはそのまま続けた。
「但し、運用方針は軍に従え。レイナー一等兵〝だけ〟を特別扱いは出来ない」
ラナはそこでようやく、わずかに顎を引いた。
「承知しています」
「本当にか?」
「私は艦長です、副司令」
その返答に、イルは小さく笑った。久しぶりに聞いた、仕事の中の笑い方だった。
「そうだったな」
執務室の向こうで、誰かが廊下を横切る気配がする。イルは一度だけそちらへ目をやり、また画面へ戻った。
「正式な通達は私から回す。ノーザンクロス側でも受け入れ準備をしておけ」
「了解しました。ありがとうございます」
回線が落ちる。艦長室に、また機関部の低い振動だけが戻った。
ラナは端末を閉じず、しばらく暗くなった画面を見ていた。その向こうには、もう副司令室は映っていない。それでも彼女は、机の端に置いた手を動かさなかった。
やがて小さく息を吐くと、今度こそ端末を閉じる。
ノーザンクロスの艦長室に落ちる灯りは静かだった。だが、その静けさの下で、もう配置は動き始めていた。
*
アスミの部屋の、壁に掛けられた時計の針が、静かに進む。
制服はロッカーに掛けっぱなしで、パイロットスーツだけが椅子の背にかけてある。
ベッドの上には、アスミが仰向けになっていた。片手には端末を持っている。画面には、何も映っていない。通知のアイコンだけが、小さく光っていた。
指を動かせば、任務ログも、整備記録も、全部見られる。そうしないまま、端末を胸の上に置く。
天井の白い板が、視界いっぱいに広がっていた。
セリに酷いことを言った。一人でもできるなんて。でも、どうやって戻ればいいか、もう分からない。
頭の中に浮かぶ言葉は、声にならない。
だって。ヴィーラに乗っていないと。
思考がそこで一度止まる。
個室の天井の向こう側には、格納庫がある。その向こうには、今も整備されているヴィーラがいる。
煙の向こうに見えた、大人になった灰色の瞳を思い浮かべる。
ヴィーラに乗っていないと……カイトと繋がっていられない気がする。
唇が、かすかに動いた。誰も聞いていない部屋で、アスミは目を閉じる。
端末の画面は暗いまま、胸の上で重さだけを伝えていた。
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