Sky75-届かない声-
ブリーフィング室は、朝の光がまだ薄いまま白く冷えていた。
壁際の空調が低く唸り、並んだ端末の画面だけが机の上を青白く照らしている。
扉が開き、ヘイル大尉が入ってくる。
軍靴の音は一定で、机の前に立つまで一度も乱れない。
端末を置き、画面を開くと、出席者を見回すこともなくそのまま口を開いた。
「第0小隊。本日の任務は北西外縁の哨戒および掃討。対象は帝国機。第三勢力との接触は避けろ」
平坦な声だった。
空調の音に重なるように落ちたその一言で、室内の空気が少しだけ締まる。
ヘイルは視線を画面に落としたまま続ける。
「港湾側の補給路沿いに敵影が散っている。追撃は不要だ。戦線から外れた機体を深追いするな。
民間施設側へ寄せるな。以上だ」
説明はそれだけだった。
追撃は不要。深追いするな。言葉だけ見れば単純な命令なのに、セリの中ではそこだけが重く残る。
昨日のことが、頭の奥にまだこびりついていた。
ヘイルが最後に短く言う。
「質問は」
誰もすぐには口を開かない。
端末の光が机の縁で揺れる。
「ありません」
最初に答えたのは、あすみだった。
表情は変わらない。声にも迷いがない。いつも通りの返答なのに、セリにはその滑らかさが落ち着かなかった。
ヘイルはそれ以上気にも留めず、端末を閉じる。
「十分後に発進準備へ入れ」
それだけ言って、踵を返す。
扉が閉まる音が、やけに乾いて聞こえた。
椅子を引く音が重なり、隊員たちが立ち上がる。
リオが端末を抱えたまま軽く肩を回し、ユイは無言で通路側へ歩き出す。あすみも席を立ち、ヘルメットを取り上げて扉へ向かった。
セリは一歩遅れて、その背中を呼び止める。
「あすみ」
あすみが振り返る。
顔はいつも通りだった。少し不思議そうに目を向けるだけで、構える気配はない。
セリは数歩だけ距離を詰めた。
怒鳴るつもりはなかった。だが、自分でも思った以上に声は低くなった。
「深追いするなよ」
あすみは一度だけ瞬きをした。それから、ヘルメットを脇に抱え直し、普通の調子で返す。
「必要が無ければしない」
短い答えだった。拗ねてもいないし、棘もない。セリはそのまま何も言えなくなる。
だが、それをどう言えばいいのか、自分でもまだ分からない。
*
《アルファ2より各機、発進。今日は掃討が主だ。深追いはするな》
セリが言うと、返答はすぐに返ってきた。
《了解》
《了解》
《了解》
最後のあすみの声も、普段と変わらなかった。
静かで、短くて、任務の時の声だ。さっきブリーフィング室で交わした言葉の続きが、
まだ喉の奥に残っているのに、その声だけは何も引きずっていないみたいだった。
隔壁が左右へ開き、外の光が格納庫の奥まで流れ込む。
先頭の白い機体が滑走路へ踏み出し、脚部で重さを受けながら加速した。
続けてセリ、リオ、ユイの順に飛び立ち、四機の白い機体が西方本部の防壁を越えて空へ出る。
朝の空は高く晴れていた。
遠くに補給路、低い倉庫群、防壁の残骸。
都市戦ほど密集してはいないが、身を隠す場所も、射線を切る場所も十分にある。
海から吹き上がる風は冷たいのに、機体の中だけは出撃直後の熱がまだ残っていた。
《前方、帝国機二。少し遅れてもう一》
上空のユイが先に敵影を拾う。デルタ4が少しだけ高度を上げ、その視界を第0小隊全体へ流してくる。
《右、倉庫列の外を低く来る》
リオが続ける。
ブラボー3の白い機体が右外へ滑り、建物列の外側から敵の進路を測る。
あすみは何も言わずに前を取っていた。
白い機体の姿勢は安定していて、無駄な揺れもない。
セリはその背中を見ながら、さっきの返事を思い出していた。
必要が無ければしない。
本当にそうならいい。
そうであってほしいと思いながら、セリは前方の敵影へ意識を戻す。
《アルファ2より各機、左右へ開きすぎるな。前で受ける》
指示に合わせて、第0小隊の隊列がわずかに形を変える。
あすみの機体がほんの少し高度を下げ、先頭で敵へ正対した。赤い光は遠目には細い線にしか見えない。
それでも白い機体の関節で揺れるその色だけは、セリの目に妙に残った。
黒い帝国機が二機、倉庫群の向こうから姿を見せる。
一機が低く、もう一機が少し上を取り、その後ろから三機目が遅れて入ってくる。
黒い装甲の継ぎ目を走る青い反応光が朝の光を切り裂き、銃口がこちらへ向いた。
《来るぞ》
リオの声が落ちる。
その瞬間、あすみの機体がためらいなく前へ出た。
黒い一機が先に火線を伸ばす。白い閃光が倉庫の屋根をかすめ、破片が遅れて跳ねる。
あすみの機体は上体をひねって射線を外し、そのまま半身の姿勢で右腕の銃口を通した。
脚部姿勢制御が短く入り、腰の向きが切り替わる。
発砲。
黒い機体の肩口が弾ける。
姿勢が崩れたところへ二射目が入った。胸部中央。装甲が裂け、そのまま一機目が倉庫群の向こうへ落ちていく。
《撃墜一》
管制の確認が入る。セリは歯を食いしばったまま、残る二機の動きを追った。
二機目が高度を落とし、補給路の外側へ切れる。
三機目はそれを援護するように少し遅れて火線を送ってくる。
ユイが上から射線の重なりを読み、リオが右外から押し返す。
その中央で、あすみは迷わず二機目を追っていた。
《あすみ、行きすぎるな》
セリが先に声を飛ばす。
あすみの機体は補給路の外側へ半身で滑り、逃げる敵機との距離を一気に詰めていく。
黒い機体は明らかに戦線から離れる向きへ入っていた。銃口もこちらから外れ始めている。
《まだ撃てる》
あすみの返答は短かった。
感情は乗っていない。ただ、事実を確認しているだけみたいな声だった。
《追うな》
今度のセリの声は少し強くなる。
その直後、黒い帝国機がさらに高度を落とし、補給路の外へ抜ける長い軌道へ入った。
撤退軌道だ。ここから追えば、第〇小隊の受け持ち空域から外れる。
あすみの機体が、なお前へ出ようとする。セリの喉が焼けつく。
《あすみ!》
短く、鋭く呼ぶ。赤い光を灯した白い機体が、そこでようやく上体の向きを少し戻した。
脚部姿勢制御が入り、追いすぎかけた機体が空中で踏みとどまる。
黒い帝国機はその間に距離を取り、補給路の外へ消えていった。
引いた。
だが、あすみの機体はすぐには戻らない。ほんのわずかな間、逃げた敵の消えた先を見ている。
撃てる理由を、まだ探しているみたいだった。セリはその背中を見たまま、奥歯を強く噛んだ。
(お前……守る理由じゃなく、撃つ理由を探してないか?)
その間にも、残る黒い帝国機が火線を通してくる。
ユイが上から短く位置を流し、リオが右外から押し返す。ようやく、あすみの機体が中央へ戻った。
《前、戻れ》
セリが言う。
今度はあすみもすぐに返した。
《了解》
声は普通だった。
さっきまでの追い方が、何かおかしいことだったとは思っていないみたいな、いつもの任務の声だった。
格納庫に戻ると、白い作業灯が機体の装甲をむき出しに照らした。
着艦したばかりの熱がまだ脚部に残っていて、床へ降りた整備員たちの足音が金属の上で乾いて響く。
工具箱を引く音、補助電源の低い唸り、整備班の短い報告。
いつもの光景のはずなのに、セリには全部が遠く聞こえた。
先に停止したのはあすみの機体だった。コクピットのハッチが開き、白い装甲の胸元から人影が現れる。
あすみはヘルメットを外しながらタラップを下り、
そのまま整備員が差し出した端末へ目を落とした。表情は変わらない。
息も乱れていない。たった今、抑止を無視しかけた人間の顔には見えなかった。
セリは遅れて地面へ降りる。
ヘルメットを外したまま、数歩だけあすみの方へ寄った。
「なんで、聞かなかった」
声は低かった。怒鳴ってはいないのに、周囲の整備音より硬く響く。
あすみは端末から目を上げる。少しだけ不思議そうに見返してから、素直に答えた。
「…撤退軌道に乗ってからは追ってない」
セリの喉が詰まる。そうじゃない。そういう理屈の話をしたいわけじゃない。
「そういう事を言ってるんじゃないだろ」
言葉の端だけがわずかに荒れた。整備灯の白い光が、あすみのバイザーの縁で揺れる。
あすみは眉を寄せない。本当に分からない、という顔のまま首を少しだけ傾けた。
「じゃあ、何?」
セリはそこで言葉を失った。何が危ないのか。何が違うのか。
自分の中では分かっている。分かっているのに、それをそのまま口にしたところで、
目の前のあすみに届く形になる気がしなかった。
「…お前、本当にわからないのか?」
絞り出したのは、それだけだった。
あすみは一度だけ瞬きをする。
「何が?」
その返し方まで普通だった。開き直りでも、反抗でもない。
ただ本当に、何を言われているのか分かっていないような声だった。
セリは視線を落とす。
自分の手が、いつの間にか強く握られているのが見えた。
「…もういい」
投げたかったわけじゃない。
それ以上言っても、いまは届かない。そう分かっただけだった。
あすみはしばらくその横顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった」
そうじゃない。その返し方で、セリには分かった。
整備員が機体の脚元へ足場を寄せる。
金属のぶつかる音が二人のあいだへ割って入り、格納庫の空気がまた動き出した。
セリは喉の奥に残った熱を飲み込めないまま、あすみから目を逸らした。
(俺の声が届かないのか)
白い灯りの下で、あすみはいつも通りに立っている。
笑って、食って、寝て、飛ぶことのできる顔のままで、そこにいる。
(あすみ)
胸の奥で名前だけが重く沈む。
(お前、もう――)
言葉の続きは出てこなかった。
出した瞬間、本当にそこまで行ってしまう気がして、セリは唇を噛んだまま立ち尽くした。
*
小さな執務室の空気は、外の廊下とは別の重さをしていた。
壁には基地の配置図と、本部への連絡経路図。机の上には端末と書類の束。
部屋の主は席に座り、腕を組んでいる。
「……古賀一等兵?」
ヘイル大尉が、端末から目を上げた。
「はい。」
シュタイナーは、正面の椅子に腰を下ろさず、立ったまま報告書を差し出した。
「本日の港湾任務を含めた最近の運用ログから、古賀一等兵について“要観察”を推奨します」
「要観察?」
ヘイルは書類を受け取り、ざっと目を走らせる。
「根拠は?」
「感情の抑制傾向が見られます」
シュタイナーは、一つ一つの語を選ぶように言った。
「任務の成績は高水準です。識別から射撃までの時間も短く、被害も抑えています。——ただ」
そこで言葉を切る。
「ただ?」
「本人の返答に、揺れがありません」
シュタイナーは、さっきの廊下の光景を思い出す。
ヘイルは、軽く肩をすくめた。
「優秀な兵士だな」
「揺れないことと、感じないことは違います」
シュタイナーは声を荒げずに言った。
「このまま赤域運用を続ければ、彼女の消耗は機体より先に来ます。
感情を抑え続ければ、判断のどこかが必ず遅れる日が来る」
ヘイルが端末を机に置いてシュタイナーの顔を見る。
「……シュタイナー中佐、過酷な状況で戦っている兵士は他にもいる」
一瞬、目を下げて、今度はシュタイナーの目を見る。
「REDROSE一人に、固執しすぎのように、私には見えるが?」
ヘイルは画面を指で叩く。
「それに、ゼルンハイトからの出向士官には、配置変更の申告権限はありませんよ」
「権限がないのは承知しています」
シュタイナーは、片手を握ったまま、爪が掌に食い込むのを感じていた。
「……私は、彼女一人に負荷がかかりすぎだと感じているだけです」
「…記録は残す。だが、運用方針は変わらない。使えるうちは飛ばす。」
「使える」という言葉が、空気の中に残った。
シュタイナーは、口の中で何かを飲み込むようにしながら、短く息を吐いた。
「……了解しました」
それ以上、ここで言える言葉はなかった。
軽く敬礼し、執務室を出る。
シュタイナーはその足で通信室へ向かった。通信室の中は静かだった、ホロ画面を開くと呼び出し音が鳴った。
電話口の男は、通信が始まった瞬間に呆れたように声を落とした
「なんで、秘匿回線なんだシュタイナー」
シュタイナーはホロ画面に敬礼をしてから話し始める。
「申し訳ございません。急いでいたので、こちらの方が早いと思いました」
ホロ画面の向こうには、ゼルンハイト評議会の議長執務室が映っている。
画面の前に立って話している男は、議長のローウェン・アドウェルだった。
40代中旬には見えない整った顔を少し傾けながら、シュタイナーに話しかける
「なんだ、ホームシックか?」
シュタイナーは笑わない。そのまま、感情を出さないようにローウェンに伝える。
「REDROSEがもしも配置換えで移動した場合、私も同じ場所へ行かせてください」
ローウェンは穏やかな表情を崩さない。
「随分と気にかけているようだが、彼女について行ってゼルンハイトに何か利があるのか?」
西陽が通信室の小窓からシュタイナーの背中を照らす。
「REDROSEは今や戦争の中心にいます。このまま戦況が進めば、必ず帝国は接触してきます」
ローウェンは、少しの間黙っていた。そして、頬杖していた手を前で組み直した。
「……それは、確かな情報があるのか?」
シュタイナーはローウェンから視線を逸らさずに言った。
「……今はまだ。私のただの予感でしかありません」
どんな手を使っても、落とすわけにはいかない。
それが任務ではなく私情だと、第七艦隊から戻ってきたあすみを見た瞬間から、シュタイナーにはもうわかっていた。
ローウェンは、軽くため息をつくと、組んでいた腕を解いた。
「死ぬ前には帰還しろ。条件はそれだけだ。」
「ありがとうございます」
「礼はいい、お前のそういう予感は大体当たる。」
ローウェンはそう言うと、片手を挙げてから通信を切った。
窓から差し込む西陽に当たって、暗いホロ画面の前の埃が光っているのだけを、シュタイナーは黙って見ていた。
*
港湾外縁の空へ入った瞬間、セリは今日の任務内容を頭の中でなぞり直した。北西外縁の哨戒と掃討。
対象は帝国機。敵影は港湾側の補給路沿いに散っている。
深追いは不要、戦線を外れた機体は追うな、民間施設側へ寄せるな――ヘイル大尉の平坦な声で落とされた指示は短かったのに、最後の言葉だけが喉の奥に残っていた。
海から吹き上がる湿った風が視界の奥を白く曇らせ、倉庫群の屋根と、補給路沿いに積まれた資材の角だけを鈍く光らせている。
そのさらに外、民間の避難導線として開けられた道路が細く伸びていた。
上から見ればただの白い帯に見えるのに、実際の距離は嫌に近い。
防壁の残骸も、低い建物列も、身を隠すには足りても、射線を切るには中途半端で、敵機が逃げ込むには都合がいい地形だった。
第0小隊は、その上空へ四機で入った。先頭を飛ぶあすみの機体は、今日も乱れがない。
白い装甲の継ぎ目を走る赤い反応光が、姿勢制御のたびに細く脈を打ち、湿った空気を裂くように前を取っていく。少し後ろにセリ、右外にリオ、さらに上をユイが押さえる。
並びだけを見ればいつも通りで、だからこそセリは、胸の奥でずっと噛み合わないまま残っている小さな違和感を、うまく言葉にできずにいた。
《前方、帝国機三》
上から落ちてきたユイの声に、セリは視線を前へ引き戻した。倉庫列の向こうから黒い帝国機が抜ける。
低く一機、少し上を二機目が取り、最後の一機が防壁の陰から遅れて滑り出した。
青い反応光が白い空を裂き、その直後には火線が走る。
《アルファ2より各機、前で受ける。左右へ開きすぎるな》
自分の声を先に飛ばしながら、セリは機体の向きをわずかに落とした。
《了解》
最後の返答も、あすみは短く、静かで、余計な熱を一切含まない声で返してくる。
先に撃ってきたのは敵だった。白い閃光が倉庫屋根をかすめ、遅れて破片が跳ねる。
その間を、あすみの白い機体がわずかに身をひねるだけで抜ける。
脚部スラスターが短く噴き、半身になった機体がそのまま敵へ正対する前に、右腕の銃口だけがひと足先に敵影を噛んだ。
発砲と同時に、一射目が黒い機体の肩口を弾き、崩れた姿勢へ追い込むように二射目が胸部中央へ入る。
黒い装甲が裂け、火花を散らしながら敵機は倉庫群の向こうへ沈んだ。
《撃墜一》
管制の確認が重なり、右外からリオが低く笑う。
《今日も速ぇな》
《先に落ちただけ》
あすみの返答は軽い。その軽さが、セリには引っかかった。
速いのは前からだ。狙いがいいのも、姿勢制御が綺麗なのも知っている。
いまの一機だけなら、ただ上手いで済む。問題は、その次の入り方だ。
残る二機が散る。一機は正面から火線を送り、もう一機は高度を落として補給路沿いへ切れた。
低い建物列を盾にして位置をずらす、ごくありふれた逃げ方だ。
ありふれているからこそ、その先に何があるかをセリは瞬時に思い出す。
《右、補給路沿いを行く》
リオの声が少し硬くなる。その言葉が終わるより先に、あすみの機体はもう前へ出ていた。
白い機体の関節光がきらりと揺れ、補給路の縁へ沿うように半身で滑り込む。
まだ受け持ち空域の内側だ。まだ越えていない。けれど、入り方が深い。
止まるべき位置より半歩先へ、ためらいなく体を入れている。
《あすみ、行きすぎるな》
セリが声を飛ばすが、返事はない。あすみの白い機体はなお前へ出る。
《下に民間搬送車両》
ユイの警告が落ちた瞬間、セリの視界が下へ引かれた。
補給路の外、建物の切れ目の向こうに、白い搬送車列が細く連なっている。
避難誘導の旗が風に流れ、その真上を黒い帝国機がかすめるように抜けていく。近い。
地図の上で見ていた距離より、ずっと近い。
《追うな》
命令として飛ばした声は、自分でも分かるほど強くなっていた。あすみの機体は止まらない。
補給路の端をなぞるように白い機体が滑り、逃げる黒い機体との距離をさらに詰める。
その動きは、敵を追っているというより、届く位置を取りに行っているように見えた。
《まだ撃てる》
返ってきた声は短い。怒ってもいないし、焦ってもいない。ただ、条件だけを見ている声だった。
《撃つな!》
セリの喉から声が裂け、ほとんど同時にリオが外側から噛みつく。
《REDROSE、そこで撃つなよ!下見えてんだろ!》
黒い帝国機はさらに低く入る。民間搬送車列の真上すれすれだ。
逃げるためにそこを選んだのか、追わせるためにそこへ流れたのかは分からない。
ただ、あすみの白い機体がなお前へ出ることだけは、はっきり見えた。
白い装甲の上体が沈み、右腕の銃口がまっすぐ伸びる。ここで撃てば届く。
敵を撃ち抜いたその火線がどこへ抜けるか、崩れた機体がどこへ流れるか、セリの目には先に見えていた。
《あすみ!》
叫んだ瞬間、白い機体がほんのわずかに揺れた。照準は生きたまま、銃口だけが下がりきらない。
引き金に乗っていた意識が、そこでようやく止まる。
下では、避難車両の白い屋根が朝の光を返していた。
その一瞬を逃さず、黒い帝国機が機体をひねる。搬送路の外へ抜ける長い軌道へ入り、完全な撤退へ移る。
ここから追えば、受け持ち空域も、守る線も越える。
《…戻れ》
セリの声はもう怒鳴っていなかった。熱を通り越して、命令だけが硬く残っている。
それでもあすみの機体はまだ前を向いたままだった。逃げた敵の消える先を見ている。
その視線が、敵そのものではなく、そこにまだ残っている「届くかどうか」だけを測っているみたいで、セリは奥歯を噛んだ。
《前、戻れ!》
二度目の命令で、ようやく白い機体が動く。脚部姿勢制御が入り、追いすぎかけた機体が空中で踏みとどまり、
上体の向きが戻って銃口が中央へ引き返す。そのあいだに黒い帝国機は補給路の外へ消えた。
搬送車列はまだ動いている。白い車体は途切れず、旗も倒れない。被害は出ていない。
にもかかわらず、セリの胸の内側には、助かったという安堵より、掴み損ねたものだけが重く残った。
《右、まだ一機残ってる》
ユイの声が短く位置を流す。
《押さえる!》
リオが応じる。セリは息を吐かず、そのまま機体を正面へ戻した。
《前を切る。リオ、右を押せ。ユイ、下を見失うな》
指示に合わせて隊列が立て直される。リオが右外から回り込み、
ユイが上から位置を固定し、その中央へようやくあすみの機体も戻ってきた。
《了解》
あすみの返答は、何も起きていないみたいな、いつもの任務の声だった。
その平たさが、今度はセリの喉ではなく、もっと奥の方をざらつかせた。
もう一機の処理に入るため、セリは前を切る。
リオが右を押さえて、ユイが上から蓋をする。
三方向から詰められた黒い機体が防壁の残骸側へ逃げ、火線が消える。
熱源が全て消失した後、朝の白さだけが、また港の上へ戻る。
セリは息を吐かなかった。吐いたら、そのまま何かが外れそうだった。
下の搬送車列は動いている。白い車体が細く連なり、何事もなかったみたいに道路を進んでいく。
被害は出ていない。
助かった、とは思えなかった。いま見たものが、ぎりぎりで止まっただけの何かだったことを、体の方が先に分かっている。
補給路の端へ沈み込んでいった白い機体の角度も、伸びきった銃口も、呼びかけるまで戻らなかった視線も、まだ目の裏に残っていた。
違う、と舌の裏で思う。速いとか、上手いとか、そういう話じゃない。
前から兆しはあったはずだ、見えていなかったわけじゃない。
黒い機体を追っていたはずが、照準がいつの間にか別のものに向いていた、今のように。
それでも、まだ飛んでいる。
それなら、きっと、まだ戻れるはずだーー
白い機体が隊列へ戻ってくる。何事もなかったみたいな返答が回線に落ちるたび、胸の奥で鈍い音がした。
格納庫に戻ってきて、コクピットから降りる。
タラップを降りて格納庫の床に足をつけた瞬間、セリはヘルメットを脱ぎ捨てた。
ヘルメットの落ちた音が、周りの音よりも大きく格納庫に響く。
そして、真っ直ぐあすみの機体へと歩いていく。
いつものセリとは違うことを機体の側にいた整備班が気づき動きを止めた。
タラップから降りてヘルメットを右手で抱えながら整備班と話している
あすみの前に逃げ道を塞ぐように立つと、セリはあすみの目を捉えたまま言った。
「……あすみ」
「お前、SKYから降りろ」
あすみはセリの顔を見る。そして、あすみの目が、わずかに細くなる。
「何言ってるの? 任務はこなせてるでしょ」
「こなせてるわけないだろ!」
声が格納庫に響いた。
近くにいた整備員が、はっとして振り返り、リオとユイが自分の機体の前で動きを止めた。
あすみは、一度周囲を見渡してから顔をセリに近づけて言った。
「ちょっと、声が大きいってば」
冷静だった。責めもしない。咎めるだけの言い方。
「でかくしなきゃ聞こえねえだろ!」
セリは自分でも分かるくらい、声を抑えきれていなかった。
あすみはその声に驚いたかのように、一瞬だけ肩を上げた。
それから、ゆっくりと息を吐いて、ヘルメットを両腕で前に抱え直し、セリに言った。
「……聞こえてるよ」
「聞いてねえよ、お前は!」
セリの喉が、言葉の勢いで熱くなる。周囲の視線が集まり始めていた。
格納庫の奥で、誰かが小さくため息をつく音がする。
しばらく、互いに何も言わなかった。
台車が通り過ぎる音。遠くのホイストが動く音。機体の冷却ファンが風を吐く音。
その全部の上に、二人の呼吸だけが乗っている。先に口を開いたのは、セリだった。
「もう一度言う、降りろ。今すぐ。」
あすみは瞬きを一度だけした。
「……降りない」
「なんで」
「任務がある」
あすみの声には迷いがなかった。
「任務じゃなくて、お前自身の話だよ!」
セリが一歩詰め寄る。ヘルメットと胸の間の距離が縮まる。
あすみは、その距離を測るように一瞬視線を落とし——すぐに戻した。
「……私は任務をこなすために、ここにいる」
セリの表情が崩れた。
「お前……本気でそう思ってんのか」
「思ってるよ」
笑ってはいなかった。ただ、迷いがなかった。その「迷いのなさ」が、セリを一番黙らせた。
長い沈黙が間に落ちる。格納庫の上の方で、照明が一つ、カチ、と音を立てて切り替わった。
「……もういい」
セリが先に背を向けた。歩き出しながら、吐き捨てるように言う。
「俺じゃ無理だ。お前、もう……」
続く言葉は喉の奥で潰れた。
「セリ?」
あすみが呼ぶ。声はいつも通りだった。
セリは足を止めない。その背中に、あすみは静かに言った。
「……無理なら、配置を変えてもらえばいい」
セリの足が、止まった。ゆっくり振り返る。
「お前、今なんて言った」
あすみのヘルメットを握る指先だけ強くなる。
「もう無理なら、セリが配置を変えてもらえばいいって言った」
視線はぶれない。
「セリがいなくても…私一人でも、任務はこなせる」
その一言に、周囲の空気が冷えた。
整備員が、工具を持ったまま固まる。誰も口を挟まない。音だけが、遠くの方で続いている。
セリは、しばらく何も言えなかった。ようやく出てきた声は、低かった。
「……分かった」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
歩き去る背中を、あすみは追わなかった。
ヘルメットを抱え直し、整備士に向かって小さく頭を下げる。
「ログ、確認したら教えてください」
「……はい」
整備士は短く返し、視線を端末に落とした。
*
通信用の小部屋は、廊下の一番奥にあった。
扉を閉めると、外の音はほとんど入ってこない。壁には簡単な連絡用端末と、軍の紋章だけが掛かっている。
セリは椅子に座らずに、立ったまま回線を開いた。
「ノーザンクロス艦長室、ラナです」
少し遅れて、聞き慣れた声が返ってきた。
「アンダーソン一等兵かしら?」
「はい。アンダーソンです」言いながら、指先に力が入る。
「上層部に、古賀あすみの配置転換を打診して下さい」
数秒の沈黙の後、ラナは静かに言った。
「……何があったの」
ラナの声が、いつもより少しだけ低くなった。
「……あいつを、これ以上“兵器”にしたくない」
セリは言葉を選べなかった。喉に引っかかる言葉を、そのまま出す。
「……もう遅いかもしれないけど……なんとかしたいんです」
受話器越しに、小さく息を吸う気配がした。
「……分かった。上に確認する」
ラナは短く答える。
「ありがとうござい……すいません」
セリは、目を閉じて壁に額を軽く押しつけた。受話器を持つ手に力が入り指先から色が消える。
「…バディなのに、俺じゃ、手が届かなかった……」
言ってから、自分でその言い方に歯噛みする。
ラナの声が返ってきた。
「……いいのよ。よくやってるわ、あなたは」
言葉は柔らかくなかったが、責める響きもなかった。
「後はこちらで」
通信用端末のランプが消え、部屋の中の音が自分の息だけになった。
受話器を置いた手で拳を作るとそのまま額を当てていた壁を一度だけ強く叩く。拳の上に額を乗せる。
「……っくそ……」
セリはそのまま小部屋からしばらく動かなかった。
*
ノーザンクロス艦長室は、夜でも完全には静まらなかった。
壁の向こうで機関部の低い振動が続き、卓上端末の表示灯だけが青く小さく揺れている。
ラナは椅子に深く腰掛けることなく、机の端に片手を置いたまま回線を開いた。
数秒の無音のあと、連合本部側の映像が立ち上がる。
副司令執務室は、ノーザンクロスの艦長室よりずっと広く、灯りも白かった。
壁際の書架、整然と積まれた書類、そして中央の机。
イル・チャンティ副司令は椅子に座ったまま、端末越しにラナを見た。
「夜分に申し訳ありません、副司令」
ラナが先に口を開く。
イルは書類から目を上げ、口元だけをわずかに緩めた。
「君が夜更けに回線を入れてくる時は、大抵ろくでもない話だな、ラナ艦長」
「ええ。今回は特に」
ラナは表情を変えない。
その一言で、イルの目の色が少しだけ変わった。冗談の温度が引き、仕事の顔になる。
「言ってみろ」
ラナは間を置かなかった。
「古賀あすみ一等兵と、アンダーソン一等兵をノーザンクロスに配属させて下さい」
執務室の空気が、端末越しにもわずかに止まった。
イルはすぐには返さず、机の上の端末へ視線を落とす。もう関連記録は開いてあるらしかった。
「古賀一等兵と、アンダーソン一等兵をセットで、か」
「はい」
「西方本部の成績は優秀だ。港湾線も首都近郊も、二人とも数字は文句ない」
イルの声は低い。
感情を抑えているが、惜しんでいるのは分かった。
「……前線から退けろと?」
ラナはそこで初めて、机の上の指先を軽く動かした。
「前線から退けるつもりはありません」
声は静かだった。
だが、そこで一度区切ったことで言葉がはっきり立つ。
「このまま戦況が進めば、最後は宇宙空域であるノーザンクロスが前線になります」
イルは何も言わない。
ラナはその沈黙ごと押し切るように続けた。
「そこで《Red Rose》と、その相棒を運用したいだけです。何か支障でも?」
イルの眉が、ほんの少しだけ上がる。
執務室の白い灯りの下で、その顔は苦笑とも呆れともつかないものに見えた。
「言い方が相変わらずだな」
「遠回しに言っても、必要なものは変わりません」
イルは椅子の背にもたれ、短く息を吐く。
指先で端末の縁を一度だけ叩いた。
「ログは見ている」
その一言で、ラナは何も足さなかった。
セリの回線から上がった訴えも、南基地側の運用記録も、もうイルの机の上にあるのだろう。
「分かった。二人まとめてノーザンクロスへ配置を換える」
ラナはすぐには礼を言わない。条件が続くと分かっているからだ。案の定、イルはそのまま続けた。
「但し、運用方針は軍に従え。古賀一等兵“だけ”を特別扱いは出来ない」
ラナはそこでようやく、わずかに顎を引いた。
「承知しています」
「本当にか?」
「私は艦長です、副司令」
その返答に、イルは小さく笑った。久しぶりに聞いた、仕事の中の笑い方だった。
「そうだったな」
執務室の向こうで、誰かが廊下を横切る気配がする。イルは一度だけそちらへ目をやり、また画面へ戻った。
「正式な通達は私から回す。ノーザンクロス側でも受け入れ準備をしておけ」
「了解しました。ありがとうございます。」
回線が落ちる。艦長室に、また機関部の低い振動だけが戻った。
ラナは端末を閉じず、しばらく暗くなった画面を見ていた。
その向こうにはもう副司令室は映っていない。それでも彼女は、机の端に置いた手を動かさなかった。
やがて小さく息を吐くと、今度こそ端末を閉じる。
ノーザンクロスの艦長室に落ちる灯りは静かだった。だが、その静けさの下で、もう配置は動き始めていた。
あすみの個室は、狭かった。ベッドと、机と、小さなロッカー。壁に掛けられた時計の針が、静かに進む。
制服はロッカーに掛けっぱなしで、パイロットスーツだけが椅子の背にかけてある。
ベッドの上には、あすみが仰向けになっていた。片手には端末。
画面には、何も映っていない。通知のアイコンだけが、小さく光っている。
指を動かせば、任務ログも、整備記録も、全部見られる。そうしないまま、端末を胸の上に置く。
天井の白い板が、視界いっぱいに広がっていた。
(……どうやって戻ればいいか、分かんない)
頭の中に浮かぶ言葉は、声にならない。
(だって)
(SKYに乗っていないと)
思考がそこで一度止まる。個室の天井の向こう側には、格納庫がある。
その向こうには、今も整備されているSKYがいる。
(……カイトと繋がっていられない気がする)
唇が、かすかに動いた。誰も聞いていない部屋で、あすみは目を閉じた。
端末の画面は暗いまま、胸の上で重さだけを伝えていた。




