Sky74-曇った標準-
ブリーフィング室の空気は、朝だというのに少し冷えすぎていた。
壁際の空調が低く唸り、並んだ端末の光が、座っている人間の顔色を薄く悪く見せている。
誰かが椅子を引く音が短く響いて、すぐにまた静かになった。
第0小隊の面々は、それぞれ端末を前にして座っていた。
リオは椅子の背にもたれ、眠気を払うみたいに首を鳴らしている。ユイは画面を見たまま口を開かない。
セリは前方のスクリーンではなく、その少し手前に座るあすみの横顔をぼんやり見ていた。
あすみは背筋を伸ばし、膝の上に置いた手を動かさない。
昨日の戦闘のあとで疲れていないはずがないのに、その顔には妙な静けさだけが残っていた。
ブリーフィング室の扉が開き、ヘイル大尉が入ってくる。
軍靴の音は一定で、机の前に立つまで一度も乱れない。
端末を置くと、ヘイルは出席者を見回すこともなく画面を開いた。
「第0小隊。上層部より通達だ」
平坦な声だった。
空調の音に重なるように落ちたその一言で、室内の空気が少しだけ締まる。
ヘイルは端末に視線を落としたまま続けた。
「第三勢力との不要な接触を禁止する」
「対象識別名、Vector」
「追撃、深追い、独断接触、すべて禁止だ」
リオが端末から顔を上げる。
ユイもわずかに視線を動かしたが、何も言わない。
ヘイルの声だけがそのまま続く。
「理由説明は省く。現場判断での接近も認めない」
「帝国機への対処を優先しろ。以上だ」
短すぎるくらい短い通達だった。
政治だの外交だのといった言葉は一つも出なかったが、
逆にその説明のなさが、上の判断の重さだけをはっきり残していた。
セリは無意識に奥歯を噛んだ。
追うな、という判断自体は理解できる。昨日の戦闘を思えば、むしろそうなるのは当然かもしれない。
だが、自分の中で引っかかっているのはそこじゃなかった。
追うなとか、近づくなとか、そんな命令より前に、もう別の場所で何かがずれている。
そのずれを、前に座るあすみだけがまるで知らないみたいに、静かにしていた。
ヘイルが最後の確認に入る。
「質問は」
誰もすぐには口を開かない。
短い沈黙のあと、あすみが迷いなく答えた。
「ありません」
表情は変わらなかった。
声にも迷いがない。
セリの指先が、机の下でわずかに止まる。
昨日の戦闘のあとだ。
普通なら、何か一つくらい引っかかる。追うなと言われて、あれだけ素直に終われる話じゃない。
少なくとも、昨日のあすみならそうだった。
なのに今日は、何もないみたいに受け取っている。
ヘイルはそれ以上気にも留めずに端末を閉じた。
「十分後に発進準備へ入れ」
それだけ言って、踵を返す。
扉が閉まる音が、やけに乾いて聞こえた。
あすみが最初に立ち上がる。
椅子を戻す音も小さい。端末を持ち上げ、そのまま扉へ向かって歩き出す背中に、
昨日の戦闘の重さは見えなかった。
セリは立ち上がるのが少し遅れた。
ブリーフィング室の扉が閉まると、冷えた空気が背中に残った。
外の廊下は白く明るいのに、室内の薄い緊張だけがまだ体にまとわりついている気がする。
あすみは誰より先に通路へ出ていた。端末を片手に持ったまま、足を止めることなく格納庫の方へ向かっていく。
歩幅も姿勢もいつも通りで、急いでいるようには見えない。ただ、迷いがない。
その背中を見ながら、セリは少し遅れて廊下へ出た。
リオが横を通り過ぎ、壁際の案内灯をちらりと見てから、眠気の残る声で言う。
「追うな、ねぇ」
軽く流した言い方だったが、独り言みたいに落ちたその一言には、
さっきの通達への引っかかりが少しだけ残っていた。
ユイは何も言わない。
端末を閉じ、セリの横を静かに通り過ぎる。その視線が一瞬だけあすみの背中へ向かい、すぐに前へ戻った。
廊下の向こうから、格納庫側の低い駆動音が響いてくる。
起動準備に入った機体の重い唸りだ。換気の風に押されて、油と焼けた金属の匂いが細く流れてくる。
あすみは振り返らない。
セリはその後ろ姿を見ながら、喉の奥に残った言葉を飲み込んだ。
リオが歩きながら、あすみの背中へ声を投げる。
「お前、随分あっさりしてんな」
「昨日、あれだけまとわりつかれてたんだから、追いたいだろ?」
格納庫前の隔壁が開く。
白い作業灯の下、四機の機体が順に起動していくたび、床の金属が低く震えた。
装甲の継ぎ目から漏れる反応光が淡く走り、背部推進器の予熱が始まる。
油と熱の匂いが、換気の風に押されて格納庫いっぱいに広がっていった。
あすみはタラップの途中で一度だけ振り返り、ヘルメットを脇に抱えたままリオを見た。
「追いたいって言っても、命令は命令でしょ」
声はいつも通りだった。
拗ねてもいないし、棘もない。
ただ、そこで話が終わっているみたいな返し方だった。
リオは肩をすくめる。
「まぁな。俺だって別に追いたいわけじゃねぇけど」
ユイはその横で端末を閉じ、短く補足する。
「追わない方が面倒は減る」
あすみは小さく「うん」とだけ返し、そのまま機体へ乗り込んだ。
そのやり取りを聞きながら、セリは自分の機体の足元で立ち止まる。
会話は普通だ。受け答えも、声の温度も、おかしくない。
おかしいのは、その“普通”が、昨日までのあすみの延長に見えないことだった。
《第0小隊、発進シークエンス移行》
管制の声が天井のスピーカーから落ちる。
セリはヘルメットを被り、操縦席へ身体を沈めた。ハーネスが胸と腰を締め、脚部固定具が噛み合う。
正面モニターに自機の状態が立ち上がり、視界の端に僚機識別が順番に並んだ。
先頭には、あすみ。
右外にリオ。
上空にユイ。
その少し後ろに、自分。
《アルファ2より各機、発進。今日は掃討が主だ。Vectorは禁止対象、帝国機だけ見るぞ》
セリが言う。
返答はすぐに返ってきた。
《了解》
《了解》
《了解》
最後のあすみの声も、何も変わらない。
その変わらなさに、セリは余計に息苦しさを覚えた。
隔壁が左右へ開き、外の光が格納庫の奥まで流れ込む。
先頭の白い機体が滑走路へ踏み出し、脚部で重さを受けながら加速した。
背部推進器が火を噴き、巨体が前のめりに持ち上がる。あすみの機体だ。
続けてセリ、リオ、ユイの順に飛び立ち、四機の白い機体が西方本部の防壁を越えて空へ出た。
今日の空域は、都市戦ほど建物が密集していない。
だが平穏とも言えなかった。外縁部の倉庫群、補給路、崩れた高架、低い防壁。
地表に残る構造物の隙間は多く、敵が姿勢を隠すには十分だった。
《北東、熱源二。少し遅れてもう一》
ユイの索敵が先に敵を拾う。
セリは機体を少し沈め、正面の視界を開いた。黒い帝国機が、倉庫群の上を低く滑るように飛んでくる。
黒い装甲の継ぎ目では青い反応光が細く走り、武装はまだ生きている。
《アルファ2より各機、左右へ開くな。先頭維持》
セリの指示に、あすみの機体がまっすぐ前へ出る。
白い装甲の関節部が、今日も赤く光っていた。
黒い一機が先に撃つ。
火線が倉庫の屋根を掠め、遅れて破片が跳ねる。
あすみの機体は上体をひねって射線を外し、そのまま半身の姿勢で右腕の銃口を通した。
黒い機体の肩口が弾ける。
姿勢が崩れたところへ、追うように二射目が入った。胸部中央。
装甲が内側から裂け、そのまま一機目が倉庫群の向こうへ落ちていく。
《撃墜一》
管制の声が重なる。
リオが、外周を取りながら息を漏らした。
《相変わらず早ぇな》
あすみは笑うみたいに短く返す。
《撃てる時に撃っただけ》
その返し方まで、普通だった。
普通に会話して、普通に敵を落とす。そこだけ見れば、何もおかしくない。
二機目が高度を落とし、補給路の高架下へ逃げ込もうとする。
セリはその動きを見て、短く指示を飛ばす。
《リオ、外から押せ。ユイ、下の熱源見失うな》
《了解》
《見えてる》
ブラボー3が外側から回り込み、デルタ4が上から索敵を固定する。
その間に、あすみの機体が高架へ正対した。普通なら、影へ入る敵の次の出方を少し見る。
だが、あすみはもう撃っている。
高架の梁を避ける角度だけを拾い、射線をねじ込む。
白い機体の上体がわずかに沈み、右腕の銃口が高架下の暗がりへ火を吐いた。
閃光が内部を裂き、遅れて黒い機体が高架の影から転がり出る。
片脚を失い、姿勢を崩した胸部へさらに一発。二機目も落ちた。
《撃墜二》
セリは歯を食いしばる。
速い。しかも、迷わない。昨日のあとも、その速さは落ちていない。
残る一機が、倉庫群の向こうへ抜けるように機体を傾けた。
黒い装甲が高架の影へ沈む。正面から押し返してくる軌道ではない。
セリの目には、その動きがいったん戦線を外したように映った。
《リオ、無理に追うな》
指示を飛ばした、その直後だった。
先頭の白い機体がためらいなく銃口を高架下へ向ける。
関節部に灯る赤い光が沈み、上体が滑るように角度を作る。
撃てると見た瞬間には、もう引き金が引かれていた。
閃光が暗がりを裂く。
黒い機体が影の中から吹き飛び、胸部を撃ち抜かれたまま支柱へ叩きつけられる。
そのまま姿勢を失い、残骸を引きずるように地面へ落ちた。
《撃墜三》
管制の確認が入る。
セリは視界を高架下へ戻したまま、喉の奥を強く詰まらせた。
さっき自分が見たものは、何だったのか。
敵は退いたのか、それとも位置を変えただけだったのか。
もう確かめようがない。答えは、高架の下に落ちた残骸ごと消えた。
前を飛ぶあすみの機体は、何もなかったみたいに銃口を戻している。
動きは乱れず、白い装甲も揺れない。いまの一撃が、迷うような判断ではなかったとでも言うような静かさだった。
《第0小隊、戦闘終息確認。帰投せよ》
「……アルファ2、了解」
返答を口にした時には、もう声まで重くなっていた。
あすみの機体は先に帰投の向きへ入り、赤い反応光だけを残して高度を整えていく。
セリはその後ろにつきながら、操縦桿を握る指先に力を込めた。
倉庫群の上を抜ける風はまだ熱を含み、崩れた高架の影が朝の地表へ長く落としている。
さっきまで火線が走っていた空が、急に広く見えた。
誰も喋らない。
先頭を飛ぶあすみの機体は、いつも通りの高度で、いつも通りの速度で西方本部へ向かっている。
その後ろを追いながら、セリは視線を外せなかった。
いまの撃墜が頭から離れない。
高架の影へ入った敵を、自分は一度、戦線から外れたように見た。
だが、あすみは迷わず撃った。その差をまだ言葉にできないまま、セリは操縦桿を握る手に力を込める。
右外を飛ぶリオの機体も静かだった。
上を取るユイも同じだった。
誰も喋らないまま、西方本部の防壁が近づいてくる。
《第0小隊、着艦誘導入る》
管制の声が平坦に流れる。
その声に押されるように、四機は順に滑走レーンへ入り、格納庫へ降りていった。
戦闘の熱がまだ装甲に残っている。
格納庫の中は白い作業灯に照らされ、工具のぶつかる乾いた音と、補助電源の低い唸りが奥で重なっていた。
整備員たちは足早に動いているのに、第0小隊の周りだけ、空気が妙に重い。
先に降りたリオは、機体の脇でヘルメットを持ち直したまま、しばらく何も言わなかった。
視線は高架の影があった方角をまだ引きずっている。
ユイも遅れて地上へ降りると、端末を閉じ、整備灯の白い光の中で一度だけ息を吐いた。
セリはヘルメットを外したまま、格納庫の端に立っていた。
戦闘の余熱が残る機体の列から少しだけ離れた位置だ。
白い灯りが頬に当たっているのに、表情の影は落ちたままだった。
その沈黙の中で、最初に口を開いたのはリオだった。
「……撤退軌道だったやつを撃ち落とした」
言い切ったあとも、声の余韻だけが格納庫の床の上に残った。
責めるでも、断じるでもない。ただ、見たままをそこへ置いたみたいな言い方だった。
ユイがセリの隣で足を止めて目線を下にした。
「あれは再編成かもしれなかった。」
その声は低く、平坦で、だから余計に冷たく響く。
セリは何も返さない。返せないまま、拳だけがゆっくり固くなっていく。
「……セリ、手」
ユイに言われて、初めて自分の手に力が入りすぎていることに気づく。
握った拳が白くなる。
(あいつが笑って、食って、寝てれば)
(守る側で飛んでるなら)
(まだ大丈夫だと思ってた)
リオが少しだけ視線を寄越す。
軽口を挟む時の顔ではなかった。
「……お前のせいじゃない」
セリは答えない。
機体の上で、整備員が足場を寄せる音がする。
その向こうで、コクピットのハッチが開いた。
白い装甲の胸元から人影が現れ、整備灯の光がバイザーの曲面に揺れて映る。
けれど、その光は目元までは届かない。
(お前、何も見てないのか)
喉が乾く。
(……何も、映ってないのか)
あすみがコクピットから降りてくる。
タラップを下りたところで、セリ達に気づいて、笑った。
それは、いつもと同じ笑顔だった。
なのに、少しだけ遠い。
その目の奥に何があるのか、セリには分からなかった。
夜の基地外周は、灯りの色が違った。
滑走路側の白いライトとは別に、外壁近くの通路には、薄い橙色の照明が点いている。
喫煙所を兼ねた小さなスペースは、その橙色の中に沈んでいた。
鉄の灰皿と、腰の高さの手すりがあるだけの場所だ。
遠くでエンジン音が一つ鳴り、すぐに消えた。
セリは、紙コップを片手に柵にもたれていた。
コーヒーはもうぬるい。煙草の火だけが小さく残っている。
橙色の光が、白い包帯の端を照らしている。額の傷は、まだ完全には塞がっていない。
「失礼」
背後から声がした。
セリは振り返らない。
「……」
灯りの縁に、細身の影が入った。
シュタイナーだった。制服の前をきちんと留め、手には何も持っていない。
「アンダーソン一等兵」
「なんすか」
セリはコップを一口だけ傾け、苦い液体を喉に押し込んだ。
「用なら、業務時間内にして下さい」
「業務ではありません」
「じゃあ、なおさら用はないですね」
風が一度、柵の隙間を通り抜けた。
シュタイナーは、その風が止むのを待ってから口を開いた。
「……気づいていますね。彼女の変化に」
セリの指先が、煙草のフィルターを少しだけ強く挟んだ。
「……首突っ込むなって言いましたよね。」
シュタイナーは眉を動かさない。
紙コップの中身は、もうほとんど残っていない。
それでも握り直す。
「……それでは、もう遅いところまで彼女は来ている」
シュタイナーの視線が、夜の滑走路の方へ少しだけ流れる。
「あの目は、“兵器の目”です」
言葉は淡々としているのに、声の底に何かが混じっていた。
「……だから、あんたには関係ないだろ」
セリは笑いもしなかった。
煙草の火が、風に揺れる。
「士官としては、そうかもしれません」
シュタイナーは一度だけ瞬きをした。
「……ですが、私は個人的に彼女を守りたい」
セリの口元が、わずかに歪んだ。
「はっ。好きにしろよ。できるならな」
鼻で笑って、柵に背中を預ける。
シュタイナーはすぐには返さなかった。
外壁の向こうで、トラックのエンジン音が一つ遠ざかる。
基地の中庭に植えられた小さな木の葉が、風で揺れた。
「……このままだと、近いうちに彼女は壊れますよ」
それでも言った。
セリは、紙コップを握る手とは逆の拳をゆっくりと握った。
「……だからって、何もできないだろ、あんたにも俺にも。」
煙を吐き出す。
「ゼインハルトは連合軍でもない。権限もない」
シュタイナーは、セリを真っ直ぐに見る。
「君だって、分かっているはずです」
「——このままでは危ない、と」
「……君なら、止められるはずだ」
長い沈黙が降りた。
橙色の灯りの下で、二人の影だけが伸びている。
やがて、セリが口を開いた。
「それでも、あいつが言わない限り——」
言葉を区切りながら、煙草を灰皿に押しつける。
「俺は、あいつの側にただいるだけだ」
シュタイナーは、何も言えなかった。
言えば、何かを崩すと分かっていた。
「もう行きます」
セリはそう言って、紙コップをゴミ箱に放り込んだ。
背筋を伸ばし、喫煙所の灯りから一歩外へ出る。
夜の廊下へ戻る扉が開き、閉まる音が響いた。
喫煙所には、シュタイナーだけが残った。
灰皿の縁から、細く煙が上がっている。
「……間に合わない」
誰に聞かせるでもなく、小さく言った。
シュタイナーは、休憩室の暗いガラス扉に映るゼインハルトの徽章がついた自分の胸元を、
一度だけ見て、それから目を逸らした。
机の上の配置図にも、今の会議の議事録にも、自分の名前の隣にあるのは「出向」の文字だけだ。
止めたい場所に、自分の手は届いていない。
夜風が、灰をひとつ巻き上げる。
それが消えるのを見届けてから、シュタイナーもまた、橙色の灯りの輪から歩き出した。
次回更新は4/4(土)になります




