Sky71-抜け落ちたもの-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
ブリーフィング室は、朝の光がまだ届ききらないまま冷えていた。
壁際の空調が低く鳴り、並んだ端末の画面だけが淡い光を返している。誰かが椅子を引く金属音が短く響いて、すぐにまた静かになった。
第〇小隊の面々は、それぞれ散って座っている。リオは椅子の背にもたれ、眠気を払うみたいに首を鳴らしていた。ユイは端末の表示を確認したまま口を開かず、セリは前方のスクリーンではなく、その一つ手前に座るアスミの横顔をぼんやり見ている。
アスミは背筋を伸ばし、膝の上に置いた手を動かさない。昨日までの疲れが消えたわけじゃないはずなのに、顔には妙な静けさだけが残っていた。
扉が開き、ヘイルが入ってくる。軍靴の音は一定で、机の前に立つまで一度も乱れない。
端末を机に置くと、出席者を見回すこともなく、画面を開いた。
「第〇小隊。今日の外縁哨戒は編隊を変更する」
平坦な声だった。空調の音に重なるように落ちたその一言で、室内の空気が少しだけ締まる。
ヘイルは端末に視線を落としたまま続けた。
「REDROSEを先頭に置く。Alpha2以下は後方支援へ回れ。哨戒区域は西側外縁。民間施設近接区域を含む」
セリの指先が、机の下で止まった。
民間施設に近い区域。普通なら、射線や規定について何か一つは確認が入る。少なくとも、昨日までのアスミならそうだった。
リオが口を開きかける。息を吸う音が、隣の席から聞こえた。
だが、アスミのほうが早かった。表情を変えず、ヘイルの言葉をそのまま受け取って、間も置かずに答える。
「了解しました」
それだけだった。
質問もない。確認もない。声に迷いもない。
リオの吸った息が、行き場を失って喉の奥へ戻る。端末から顔を上げ、短くアスミを見た。ユイも視線だけを動かしたが、何も言わない。
その沈黙ごと無視するように、ヘイルは次の表示へ画面を送った。
「発砲規定は現行維持。赤域規定は上限。敵編隊との接触後は現場判断を優先する」
声音には何の起伏もない。命令が滞りなく通ったことを、ただ予定通りの進行として処理しているだけだった。
セリは前を見たまま、アスミの返答を頭の中でなぞっていた。
民間施設が近い。しかも先頭配置。前なら、あいつは少なくとも一つは聞いた。
射線。施設との距離。後方支援との間隔。
そういう細かいことを、面倒なくらい確認してから飛ぶ奴だった。
なのに今日は、何も聞かなかった。
ヘイルが最後の指示を閉じる。
「以上だ。各自、十分後に発進準備へ入れ」
端末が閉じる音がして、室内にまた空調の唸りだけが残った。ヘイルは書類も持たず、そのまま踵を返す。扉が閉まる音は、妙に乾いていた。
その瞬間、アスミが一番先に立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、静かな室内に細く伸びた。
迷いのない動きだった。端末を取り、椅子を戻し、そのまま扉へ向かう。横顔は見えたのに、そこに昨日までの引っかかりが見つからない。
セリは、立ち上がるのが一瞬遅れた。
リオが椅子を蹴るように立ち、肩を回しながら軽く言う。
「先頭か。派手だな」
アスミは振り返らないまま、扉の前で短く返した。
「命令だから」
それだけ言って、先に出ていく。
ユイは無言でその背中を見送り、セリの横を通り過ぎる時に、視線を寄越した。問いかけるでもなく、ただ同じ違和感を持ったことだけが分かる目だった。
セリはその視線に何も返さないまま、遅れて廊下へ出る。
白い照明の下を歩いていくアスミの背中は、昨日までと同じ制服で、同じ歩幅で、同じようにまっすぐだった。
なのに、何かが一つ、きれいに抜け落ちているように見えた。
*
ブリーフィング室の扉が閉まると、冷えすぎた空気が背中に残った。ブーツの底が金属の縁を踏むたび、小さく乾いた音が返る。
格納庫の方角からは、すでに起動を始めた機体の低い駆動音が響いてきていた。油と焼けた金属の匂いが、換気の風に押されて細く流れてくる。
格納庫前まで来ると、重い隔壁の向こうで整備員たちの声が交錯していた。扉が開くと、白い作業灯に照らされた広い空間が一気に目に入る。高い天井の梁に沿って警告灯がゆっくり回り、起動を待つ機体の影を床に長く落としていた。
そこでセリは、足を止めた。
アスミの機体は、いつもの列ではなく、発進口にいちばん近い位置へ出されている。整備班が先に動いていて、他の機体はその後ろへ回されていた。白い装甲板の表面を走る整備灯の反射が、やけに鋭く見える。
本当に、先頭で行かせるつもりだ。
リオもその配置に気づいたらしく、口笛を吹きかけてやめた。代わりに眉だけを上げて、誰にともなく言う。
「本気だな」
誰も返さない。
アスミはその配置を見ても顔色を変えなかった。当然みたいに、まっすぐ自分の機体へ向かっていく。
整備員がタラップ脇で待っていて、アスミが来ると短く敬礼し、起動手順の最終確認へ端末を差し出した。
セリは自分の機体へ向かう前に、その背へ声をかける。
「……何も聞かなくていいのか」
アスミはタラップに足をかけたところで止まり、顔だけを向けた。
表情は薄い。その顔から、引っかかりだけがきれいに抜け落ちている。
「何を?」
本気で分からない、という目だった。
その返しに、セリは言葉を失う。
民間施設が近いことも、先頭配置で飛ぶことも、後方支援との距離も、昨日までなら自分で拾っていたはずなのに、今日はそのどれも気にしていない。
「……いや、別に」
そう言うしかなかった。
アスミはそれ以上問い返さず、また前を向く。白いタラップを上がっていく足取りは、妙に軽い。迷いなく、振り返りもせず、金属の段をひとつずつ確かめるように上がっていった。
リオがセリの横まで来て、小さく肩をぶつける。
「何だよ、その顔」
「別に」
セリが低く返すと、リオは笑いもせずに鼻だけ鳴らした。
「……ならいいけど」
その一方で、ユイは少し離れた位置からアスミの機体を見上げていた。視線は静かで、口元も動かない。
ただ、何かを覚えるみたいに、整備灯に照らされた白い機体と、その中へ消えていく背中を目に焼きつけている。
格納庫の上部スピーカーが短く鳴った。発進準備の最終確認。整備員たちが持ち場へ散り、工具の当たる音が細かく響き始める。背部推進器の予熱が進み、空気が少しずつ乾いた熱を帯びていった。
床の下から伝わる振動は規則的で、機体の鼓動みたいだった。
セリは自分の機体へ向かいながら、もう一度だけ前を見る。コクピットへ収まる直前、アスミの横顔がわずかに見えた。
そこにあったはずの何かだけが、ない。
その違和感の名前が、まだ出てこない。言葉にした瞬間、何かが決定的になる気がして、セリは口を閉ざしたまま自分の機体のタラップへ足をかけた。
金属の段が靴底を受け止め、冷たい感触が足裏から伝わる。
*
格納庫の奥で、警報灯がもう一度赤く回った。白い作業灯の下、四機の機体が順に息を吹き返していく。
先頭には、アスミがいる。
整備員がタラップ脇から一歩下がり、片手を上げて発進可能の合図を出した。
アスミは振り返らないまま操縦席へ身を沈める。胸と腰を固定するハーネスが音もなく締まり、足元の固定具が靴底を噛んだ。装甲越しに伝わる振動は規則正しく、心臓よりも冷たい機械の鼓動だった。
《各機、発進シークエンス移行》
管制の声が格納庫全体へ流れる。天井のスピーカーは平坦で、そこに人の熱はない。
だからこそ、セリにはその声がひどく西方本部らしく聞こえた。
白い機体の背部推進器が順に火を入れる。空気が押し出され、熱が床を撫で、格納庫の薄い油の匂いが、一気に焦げた金属臭へ変わっていく。
セリは自分の操縦席で、正面モニター越しにアスミの機体の背中を見ていた。
いつもの出撃前なら、アスミは発進位置に入る前に一度だけ視線を流し、味方の配置や周囲の地形データを確かめる癖があった。だが今日は、その細かな間がない。前を向いたまま、滑らかに、まっすぐに発進位置へ入っていく。
《第〇小隊、発進レーン進入》
隔壁が左右へ開き、外の白い光が格納庫の奥まで流れ込んだ。朝の乾いた風が装甲を撫で、遠くの空に低く残る砂塵の膜が、陽の色を少し鈍らせている。
先頭の白い機体が踏み出す。脚部が重さを受け、金属床から地面の硬い感触へ変わった。そのすぐ後ろにセリ、外側にリオ、上を取る位置にユイ。四機の隊列が静かに形を作る。
《Alpha2より各機、発進。編隊そのまま》
セリの声が通信に落ちる。自分でもそれだけは崩すなと決めているみたいに、声だけが冷静だった。
先頭の機体が背部推進器を吹かした。白い巨体が前のめりに加速し、レーンの先端から空へ跳ねるように浮き上がる。
続けてセリ、リオ、ユイの順に地面を蹴り、四機が西方本部の外縁へ向かって高度を上げていった。
地上には防壁と低い建屋が連なり、その先に民間施設の区画が広がっている。灰色の屋根、細い道路、給水塔、避難用シェルターの印。戦場の地図として見れば点と線だが、その一つひとつに人がいる。
前なら、アスミはそこを見ていた。
セリは舌の奥でその言葉を飲み込む。いま言っても遅い。すでに発進している。
《DELTA4、上空索敵入る》
ユイの機体が上へ抜けた。白い機体が朝の光を受けて小さくなり、索敵情報が隊内のHUDへ流れ込み始める。
《BRAVO3、右外取る》
リオの機体が低く沈み、地上構造物の影に沿って外周へ回った。
その動きに合わせて、先頭のアスミの機体がほんのわずかに角度を変える。迷いのない修正だった。
遠くの空に黒い影が浮かぶ。一つ、二つ、三つ――四つ。帝国軍機だ。
白い隊列を見つけた黒い機体群は、こちらの接近に合わせて横へ散開し、それぞれが別の高度と角度を取り始めた。
《接触まで十秒》
ユイの声と同時に、セリの視界の端で警告枠が立ち上がる。
敵の一機が低く潜り、もう一機が上を取る。残り二機は中央で距離を測っていた。
「民間施設ライン、右へ二キロ。射線管理しろ」
セリが短く言う。その言葉に対して、アスミから返答はない。
ただ先頭の白い機体は、まっすぐに敵へ向かっていた。
次の瞬間、細い光が空を裂く。黒い機体の一つが、先に撃った。
曳光弾は白い軌跡を引きながら前方を横切り、アスミの機体はそれを紙一重でかわして、上体を右へ半身にする。
肩の装甲を掠めた光が一瞬だけ火花を散らし、そのまま後方の空へ抜けていった。
セリは息を止める。
そのかわし方が、昨日までより速い。速いだけじゃなく、無駄がなかった。
先頭の機体が脚部姿勢制御を細かく入れ、腰を捻るように向きを変える。半身のまま射線を通し、右腕の武装が黒い敵機を捉えた。
空を飛んでいても、あれは航空機の旋回じゃない。骨格ごと向きを変え、腕を通し、腰で撃つ戦い方だった。
発砲。白い閃光が走る。先頭を切っていた黒い一機が肩口を撃ち抜かれ、そのまま姿勢を崩して落ちていった。
早い、とセリが思うより先に、アスミの機体は次の標的へ視線を移している。
《……なんか、パワーアップしてない?》
リオの声が、半分笑い、半分本気で通信に混じった。外周を取る彼の機体も敵へ圧をかけているが、それでも先頭の速度は目につく。
《あのスピードなのに、綺麗に民間施設をかわしてる》
上空から見ているユイの声は低かった。感心にも聞こえるし、警戒にも聞こえる。
セリは前を向いたまま、敵の配置を追った。
「……行くぞ、後ろからもくる」
返したのは、それだけだった。会話を続けたくない。続ければ、自分でも何に引っかかっているのか認めてしまいそうだった。
黒い敵機が二機、左右へ開き、残る一機がアスミの真下へ潜り込もうと高度を落とす。
先頭の白い機体は、その動きを見た瞬間に推進を吹かし、地表すれすれまで沈んだ。
通常なら一呼吸置く高さだ。民間施設の屋根、電線塔、避難路の標識、その全部が視界を流れる。
だが、アスミの機体は迷わない。上体を横へ滑らせ、建屋の影を擦るように抜けたかと思うと、次の瞬間には腰を切り返して上を向く。右腕の銃口が、真上をかすめる黒い敵機の胸部中央へ吸い込まれていった。
発砲。黒い装甲が弾ける。敵機は爆炎もまともに広げないまま、その場で力を失ったように落ちていった。
《撃墜二》
管制の声が割って入る。
*
西方本部の管制室では、壁一面のモニターに戦域図と機体ログが並んでいた。
その端でログを追っていた若い兵士が、赤く点滅する識別表示を見たまま、思わず口を開く。
「REDROSEさ」
「なんか……シューティングゲームでもしてるみてえじゃね?」
隣の管制官が、モニターから目を離さずに返した。
「やめろよ。戦場だぞ」
「でもよ……」
言いかけた声が、次の表示に飲まれる。
赤く光る識別表示には迷いがない。迷いなく、次々に敵を迎撃していく。
「……撃墜、三。四……」
数えかけた声が、途中で途切れた。モニターの中の白い機体が、次の黒い影へ間髪入れずに照準を移していたからだ。
「……早すぎる」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
*
戦域では、アスミの機体がすでに次の標的へ向かっていた。
民間施設の屋根すれすれを滑り、遮蔽物を挟んで角度を消し、また現れる。
その動きには躊躇がなく、だからこそ綺麗だった。速いのに乱れていない。むしろ、考えなくなったぶんだけ、処理が正確になっているようにさえ見えた。
セリはそれが嫌だった。だが、嫌だと思う気持ちとは裏腹に、戦果は出ている。
敵機はすでに半数を失い、残る黒い二機も、リオの圧とユイの上空支援に挟まれて逃げ道を失っていた。
先頭の白い機体が、また撃つ。
黒い一機の脚部が飛び、姿勢を崩したところへ二射目が入った。今度は胸部中央。黒い装甲が内側から割れ、そのまま光の中へ消える。
最後の一機が反転して高度を上げた。
それを見た瞬間、アスミの機体は上体を起こし、脚部姿勢制御を短く切り替えて一気に上を取る。腰を捻り、肩を入れ、右腕の射線を通す。機体の骨格ごと相手の死角へ潜り込み、逃げるより先に引き金を引いた。
黒い機体が真っ二つに割れる。
《交戦終了》
管制の声が入った。レーダーから赤い敵影が消え、朝の空だけが戻ってくる。
セリは減速しながら、先頭を飛ぶアスミの機体の背中を見た。白い装甲に傷はある。だが姿勢は崩れず、推進の火も安定していた。
《各機、西方本部へ帰投》
ユイの声が短く落ちる。上空から降りてきたDELTA4が編隊の真上へつき、BRAVO3が外周を警戒しながら速度を落とした。四機の白い機体は再び形を整え、西方本部へ向けて機体を返す。
地上の建屋と防壁が近づいてくる。避難区画の屋根、給水塔の影、低い道路。戦闘中は線と面にしか見えなかったものが、帰りの高度ではまた「街」に戻っていた。
セリはその景色を横目で見ながら、前を飛ぶアスミの機体から目を離せなかった。
《本部側、着陸誘導入る。Alpha2から順に降ろせ》
管制は事務的だった。感情のない声が、今日の戦果まで最初から予定に入っていたみたいに平坦に響く。
*
先頭の白い機体が帰投レーンへ入る。脚部が地面に触れ、重さを受け止めた衝撃が小さく返った。
ハッチが開く。外の空気が流れ込み、焼けた金属と油の匂いが一気に濃くなる。
アスミは機体から降りると、整備員の声にもほとんど反応を返さず、胸元の留め具を外しただけでその場に立っていた。
汗で額に張りついた髪を払うでもなく、ただ少し息を整えている。その横顔には疲労があるのに、戦闘直後の張り詰めた影だけが妙に薄かった。
リオが先に機体を降りて、ヘルメットを脇に抱えながら整備班へ片手を上げる。
「右腕、二発掠ってる。あと脚部に軽い振動残ってるから見といて」
整備員が了解、と短く返し、すぐにリオの機体へ走っていく。ユイは既に端末を開き、上空ログの転送確認を始めていた。
全てがいつもと同じだ。さっきの戦闘だけが、少し場違いみたいに頭へ残っている。
セリが地面へ降りると、格納庫の中央寄りに置かれた可搬端末の前で、管制兵が戦果確認の表示を立ち上げていた。青白い画面に戦闘記録が流れ、識別符号と撃墜時刻が順に並ぶ。
「第〇小隊、交戦記録確認」
兵士の声に、ヘイルが奥から歩いてくる。軍靴の音は乾いていて、戦闘の熱とも整備員の慌ただしさとも関係なく、一定の速さで床を打った。
ヘイルは端末の前で立ち止まると、表示された記録に目を落とす。
その横顔はいつも通り無表情で、驚きも感心も浮かばない。ただ数字を読む顔だった。
「敵四、全機撃墜。損害軽微」
管制兵が確認する。画面の下段に、各機の行動ログが小さく並んだ。その中でREDROSEの識別表示だけが、他より速い間隔で戦果欄を埋めている。
別の兵士が思わず画面を覗き込んだ。
「……早えな」
その声は小さかったが、格納庫の金属音の隙間にはっきり落ちた。隣にいた整備兵が黙ったまま表示を見て、それから視線だけをアスミへ向ける。
ヘイルは画面から目を離さずに言った。
「哨戒区域の損害報告は」
「民間施設被害、なし。地上車両への巻き込みもありません」
「なら問題ない」
それだけだった。
問題ない。その言葉が、セリの胸の奥に小さく引っかかる。
確かに、数字だけ見れば問題はない。敵は落ちた。民間施設も無事だった。味方の損害も軽い。
それでも、さっきの速さをその一言で片づけていいのかと、口の奥で何かがざらついた。
ヘイルはそこで初めて視線を上げ、少し離れて立つアスミのほうを見る。
「REDROSE」
アスミが顔を向けた。
「反応速度、良好。このまま維持しろ」
アスミは表情を変えない。敬礼もしないまま、ただ短く答えた。
「了解しました」
返答は滑らかだった。戦闘中と同じくらい迷いがない。そのことに、セリはかえって息苦しさを覚える。
リオが端末の表示から顔を上げ、セリのほうへほんの少しだけ目を寄越した。何も言わない。けれど、その視線だけで十分だった。
さっき空で見たものを、こいつもまだ飲み込めていない。
ユイは端末を閉じる音だけを小さく立てる。無表情のままなのに、その沈黙だけが微妙に長い。
格納庫の奥では、整備班が次の出撃に向けた確認を始めていた。工具のぶつかる音、記録を読み上げる声、クレーンの低い駆動音。
全部が西方本部のいつもの出来事で、その「いつも通り」の中にだけ、今日の戦果が不自然なくらいきれいに収まってしまっている。
セリはそれを、うまく飲み込めなかった。
*
休憩スペースは、いつも薄暗かった。
天井の照明は必要最低限で、自販機の冷却音と換気の唸りが、ずっと同じ高さで鳴っている。甘い栄養バーの匂いと、焦げたコーヒーの匂いが混ざり、紙コップの山がカウンターの隅に寄せられていた。
セリは壁際に寄って、背中を軽く預けている。肩から力は抜けているのに、目だけは休んでいない。手元の端末を見てもいないのに、親指が無意識に縁をなぞっていた。
その背後から、靴音が一つ、軽く寄ってくる。
「よぉ、相棒」
リオの声は、いつも通りの軽さだった。軽いからこそ、近づいてきた気配を誤魔化せない。
セリは顔だけ向け、眉をわずかに寄せる。
「誰が相棒だよ」
リオは肩をすくめ、紙コップを差し出した。中身はコーヒーだ。熱が、紙越しに伝わってくる。
「まぁまぁ、お疲れさん」
セリは受け取ったが、すぐには口をつけない。カップを持つ指の関節が、少しだけ固い。
リオはカウンターにもたれ、目線をわざと散らしながら――ふと、言葉を落とした。
「南の地上戦の時、何かあったろ?」
その瞬間、セリの呼吸が一呼吸だけ遅れた。表情は崩れない。ただ、視線がリオを捉える速度だけが少し変わる。
「……なんで」
低い声だった。問いというより、踏み込むな、に近い。
リオは笑って流さない。けれど、重くもしない。紙コップの縁を指で軽く弾き、音を立てない程度に落ち着かせる。
「別に。REDROSEの迷いが消えたなって思っただけ」
セリの眉が、ほんの少し動いた。
「迷い?」
「撃ち方な」
リオは言葉を探すみたいに、首の後ろを掻く。上手く言えない、という顔のまま、でも逃げずに続けた。
「地上戦の後からちょっと変わった。早くなったよな。上手く言えないけど」
セリは、その言い方で何を見られていたかに気づいたように、リオを見る。
隊長として見る視線ではなく、同じ小隊の人間として、見られていた――その事実に。
リオは視線を逸らさない。口元だけをわずかに上げて、軽いまま言った。
「俺は助かってるよ。死ぬ確率が減るからな」
セリはカップを持ったまま、しばらく何も言わなかった。熱が冷めるほどではない時間。それでも、言葉を選ぶ時間だった。
「……それ、褒めてねぇよな」
ようやく出た声は、短く、乾いていた。
リオはすぐに否定しない。少しだけ目を細めて、息を吐く。
「まぁ、褒めてはいないね。隊長を労ってはいるつもり」
セリの口元が、ほんのわずかに動いた。笑いではない。呆れでもない。答えのないところに、言葉を落とすときの顔だった。
「……なんだそれ」
紙コップの縁が、指の間でかすかに鳴る。
休憩スペースの音は変わらないのに、二人の間だけ空気が少し重くなった。
俺がもっと早くカイトの事を伝えてれば。でも。今さら何を言っても、アスミを苦しめるだけだ。あいつはまだ飛んでいる。笑って、寝て。それなら、まだ戻れるはずだ。
セリは結局、コーヒーを飲まないまま、熱を確かめるようにカップを持ち直した。
リオも、それ以上は何も言わず、隣で静かにコーヒーを飲んでいた。
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