Sky65-手の置き場所-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
デブリーフの翌朝、艦内はいつもより静かだった。交代の足音はあるのに、声が少ない。機械の唸りだけが規則正しく続いている。
アスミは通路の壁に肩を寄せて、端末の整備完了通知を確認していた。壁の塗装が背中越しに冷たい。艦が傾くたび、肩に当たる圧が微かに増えては抜けていく。
表示は全部「承認済」。やることは、揃っている。揃いすぎていて、落ち着かない。
「レイナー」
背後から呼ばれて、アスミは端末を伏せた。振り向くと、アーロン艦長が立っている。いつもと同じ、柔らかい顔。けれど、距離の取り方が違った。ただ通りすぎない。足を止める。
「少し、いいか」
「はい」
アスミは姿勢を正した。条件反射みたいに背筋が伸びる。
艦長は「楽に」とも言わず、通路の端、扉の陰になる位置へ目で促した。人の流れから半歩だけ外れる場所。
そこに立つと、艦の空調の音が大きく聞こえる。通路を行き交う足音は届くのに、こちらの声はそこまで届かない。ちょうどそういう距離だった。
アーロンは、アスミの顔を見る。疲労を見せない。姿勢も崩れない。整っている。
整いすぎている。
「ホルスト大佐の下は、出撃が多くて大変だろう?」
「いえ、大丈夫です」
即答だった。考えた、という間がない。
「運用を変えることを条件に署名したそうだな。自由がなくなって不便はないか?」
「はい。問題ありません」
不便か、と聞いた。返ってきたのは、問題の有無だ。個人の感覚ではなく、基準で答えている。
アーロンはわずかに視線を落とし、また上げた。
「自由を差し出してまで、君が飛ぶ理由はなんだ?」
アスミは視線を逸らさない。
「NTOの象徴としての責務です」
教本のような答え。揺れはない。
「責務か。それは組織の理由だな。君の本心は?」
ほんの一瞬。瞬きが、わずかに遅れる。
「……同じです」
その一瞬だ。声は正しい。内容も正しい。だが、その正しさが引っかかる。
そして、アーロンはそこで理解した。
飛ぶ理由で、心を塞ごうとしているのか。レイナー。お前は。
お前は――自分を差し出したのか。
責務は嘘ではない。しかし、それだけで立つ声ではなかった。
「レイナー。あまり何かで埋めようとするな」
言葉は短かった。叱る声ではない。問い詰める声でもない。なのに、胸の奥に刺さる。
「……」
アスミの返事が、思ったより遅れた。
艦長はアスミの目を見る。視線が逃げない。逃がさない。
「正しさだけで、埋められはしない」
その瞬間、アスミの喉の奥がひりついた。何かが、図星みたいに当たった。
当たったけれど、意味が分からない。
「……はい?」
声が掠れた。艦長は目を逸らさない。
「恐れるな。受け入れろ。拒み続ければ、いつか限界がくる」
胸の奥がざわつく。
恐れる? 誰が。何を。
私は――。
「私、何も……何も怖がってなんかいません」
強く言ったつもりなのに、語尾が揺れた。
「……っ」
「押し付けてくるのは、いつも軍の方じゃないですか!」
言い切った瞬間、自分の声が少しだけ大きいと気づいた。
違う。言いたいのは、そこじゃない。
でも、止まらなかった。
呼吸が止まる。艦長の表情は崩れない。ただ、目だけが少し細くなる。
アスミは、自分の掌を握った。爪が食い込む。痛みがある方が、ましだった。
艦長は、その小さな乱れを見逃さなかった。目が外れない。逸らしたくても逸らせない。
怒らなかった。叱責もしなかった。
その沈黙の中で、自分の心臓の音だけが聞こえた。
アスミは、はっと我に返るみたいに頭を下げた。
「申し訳ありません。もう、行きます」
逃げるみたいに言って、通路の流れへ戻ろうとする。
その瞬間、艦長が一歩だけ前に出た。腕を伸ばすでもなく、ただ距離を詰める。
艦長の手が、アスミの肩ではなく、通路の壁に置かれた。
「レイナー」
低い声。
アスミは、止まれた。止まれたのに、止まらなかった。一瞬だけ、肩が引き戻されるような感覚があった。でも、任務の時刻が頭に浮かぶ。
点呼。整列。出撃。優先順位は、もう決まっている。
「……失礼します」
声は静かだった。感情が乗っていない。ただ、手順通りの言葉。
艦長の手は、届く距離にあった。触れようと思えば、触れられた。
でも、アスミの足は止まらない。止める理由が、もう残っていなかった。
背中に、艦長の視線が残る。追ってこないのに、離れない。
角を曲がる。振り返らない。振り返らないと決めたわけでもない。ただ、必要がなかった。
通路の角を曲がったところで、ようやく息を吐いた。冷えた空気が肺に落ちて、胸が痛い。
――正しさで穴埋め? 私は、穴埋めなんてしてない。
私が何を恐れてるっていうの。私は、何も拒んでない。言っても、何も通らない。だから、NTOが象徴にしようとしていることも、運用方法も、何も言わずに全部受けたのに。
端末を握り直す。画面は暗い。暗いままの方がいい。
医務室の前を通り過ぎる。扉の表示灯は点いていなかった。立ち止まらない。立ち止まれない。
宿舎区画へ続く通路の手前で、リオとユイが端末を覗き込んでいた。アスミに気づくと、二人は一瞬だけ視線を寄こす。
何も聞かない。聞けない。
「整備、早めに終わらせとけよ」
リオが軽く言う。軽いのに、目は軽くない。
「次、詰まってる」
ユイが短く頷いた。
アスミは頷いて通り過ぎる。笑わない。でも止まらない。
その先に、セリがいた。宿舎区画へ続く通路の先で待っている。整備服の袖を捲って、工具袋を肩にかけていた。
「おい。呼ばれてたろ。艦長に何言われた」
いつもの軽さ。いつもの目。
アスミは笑顔を作るのに、いつもより時間がかかった。
「……別に。注意されただけ」
「ふーん。お前が?」
「私だって注意されるよ」
「珍しい」
セリが肩をすくめる。アスミは頷いて、歩幅を合わせた。
そのとき、セリがちらっと横目で見た。ほんの半拍だけ。
「……目、赤いぞ」
アスミは反射で瞬きをする。そこでやっと、瞬きができた。
「風。艦内でも乾燥してる」
「へえ」
セリはそれ以上は聞かなかった。聞けないものを、互いに抱えているみたいに。
宿舎区画へ戻る通路は、艦の心臓に近いぶん温度が一定だった。壁の向こうで機関の唸りが低く続いている。それでも、アスミの指先は冷えたままだった。
セリは何も言わずに歩き、曲がり角でひとつ先に曲がる。アスミを先に通して、遅れてついてくる。何度もやってきた癖だ。
居室前で別れるとき、セリは軽く顎をしゃくった。
「整備、俺が先に見とく。お前は先に飯食え」
「……うん。ありがとう」
「いいよ」
それだけ言って、セリは格納区画側へ消えた。
艦内放送がまた短く鳴る。
《各部署、準備に移れ》
声は淡々としている。
アスミは自室の端末を開かず、靴を脱いだだけで椅子に腰を落とした。
ドアの閉まる音が、やけに小さい。
*
格納区画の前室は、油と金属と洗浄液の匂いが混じっていた。
整備員が台車を押し、壁の表示灯がひとつずつ切り替わっていく。忙しいのに、動きが乱れない。床には工具の置き場所が白線で区切られていて、置く場所が決まっているから、誰も迷わない。
セリは工具袋を棚に置き、手袋を外して指を鳴らした。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
アーロン艦長が、通路の端に立っていた。制服の襟元がきちんと整っていて、歩いてきたのに乱れがない。
「艦長」
セリは背筋を正し、敬礼しかけて止めた。艦長が手を上げなかったからだ。途中で手を止めて、背筋だけを固める。
「少し、話せるか」
「はい」
艦長は格納区画の喧騒から半歩外れた、工具棚の陰に立った。整備員の声は届くが、会話の内容は飲み込まれる距離だ。
艦長が先に言う。
「西方のやり方には慣れたか」
セリは口角をわずかに上げた。笑うほどでもない、苦味のある表情。
「……まぁ。合わないやり方も、ありますけど」
「君はNTOの〝合わない〟にも長いだろう」
艦長の声は静かだった。責めているわけじゃない。事実を置いているだけ。
セリは鼻で小さく息を吐いて、肩をすくめた。
「……長いだけっす。ちゃんと働いたの、ここ数年ですよ」
「そうか」
艦長は短く頷く。視線がセリの胸元――識別票の位置に一瞬だけ落ちて、すぐ戻った。
「……君たちの事は、目を通した」
その言い方で、ただの挨拶じゃないと分かる。セリの返事が、一拍遅れた。
「……」
艦長は間を詰めずに続けた。
「アンダーソン。君は、レイナーを止める気はあるか」
その言葉で、セリの喉が一度だけ鳴った。
止める。何を。アスミは任務をこなしてる。さっきだって、少し苛立ってるだけだ。あれは――。
「……あいつが、本気で望むなら」
口から出た返事は、思っていたより曖昧だった。セリは自分でそれに気づいて、眉をわずかに寄せる。
艦長は「そうか」とだけ言った。否定もしない。肯定もしない。受け取って、置いた。
少し間が空く。遠くでレンチが落ちる音がして、誰かが「悪い」と謝る声がした。
艦長が、もう一段低い声で言う。
「離れるな。君だけは」
その言い切り方が、命令に近かった。
セリは、反射で「了解です」と言いそうになって、飲み込んだ。ここで軽く返すのは違う気がした。
アスミを、止める? 俺が?
あいつは俺より強い。迷いが少ない。真っ直ぐで、傷も抱え込む。
俺は――隣にいるだけで、追いついてるつもりになってた。
「……離れません」
セリは結局、短く答えた。語尾を整えなかった。整えると嘘になる気がした。
艦長は頷いた。視線がほんの少しだけ柔らかくなる。
「頼んだぞ」
それだけ言って、艦長は格納区画の奥へ歩いていった。整備員が敬礼し、艦長は軽く返す。歩幅は乱れない。
セリはその背中を見送ってから、ゆっくり息を吐いた。
工具棚に置いた手袋を握り直す。革がきしむ音が、小さく鳴った。
昨日、ケニーに何か言われた後の、アスミの顔が頭に浮かぶ。
あいつを支えられるのはカイトだけだ。
でも――。
その「でも」の先が、言葉にならない。
「アンダーソン一等兵、次のチェックいけます?」
整備員の声に、セリは顔を上げた。
「行ける」
いつもの声を作って、手袋をはめる。指先の感覚が、革の中で戻ってくる。
作業台の上で、機体のパネルが開いていた。締めるネジの数は決まっている。順番も決まっている。
決まっているものは、楽だ。
セリはレンチを回しながら、さっきの艦長の言葉を、頭の中で一度だけ繰り返した。
――離れるな。君だけは。
格納区画の表示灯が、出撃準備色に切り替わる。青白かった光が、わずかに黄を含んだ色に変わった。
セリはレンチを置かずに、作業の合間に一度だけ端末を見た。
居室番号。レイナーの表示が残っている。
そこにいるはずなのに、手が届かない。
*
格納庫手前の通路の向こうで、艦の放送が短く鳴った。次の任務の準備。整列時刻。点呼。
通り過ぎる乗員が敬礼しても、アーロンの返す手が遅れる。
……あの目。焦点が合わない一瞬。瞬きの少なさ。浅い呼吸。
自分を差し出して埋めたものに、わずかな隙間ができた時。レイナーのあの目が映すものはなんだ。
それは希望か。――それとも。
舷側の小窓を、明るい海が通り過ぎていく。昼の光を受けて、水面が細かく割れながら後ろへ流れていた。艦は、止まらずに進んでいる。
アーロンは小さく息を吐き、敬礼を返しながら歩き出した。
そのまま進むな、レイナー。
その声は届かない。
艦内の時計は止まらない。次の出撃の時間が、淡々と迫っていた。
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