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SKY  作者: 岩佐知秋
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64/125

Sky64-言わないほう-

本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。

 


 起床音より少し前に、目が開いた。

 眠った感覚は薄い。まぶたの裏に夜が残っている。でも、体は勝手に動ける。

 洗面台の水は冷たくて、指先が一瞬だけ痛んだ。海水を濾したものらしく、飲まなくても分かる匂いがわずかに混じっている。

 鏡の中の自分は、いつも通りの顔をしていた。目の下の影も、笑えば消える程度だ。鏡そのものが艦の揺れで微かに震えていて、映っている輪郭が細かくぶれる。

 通路に出ると、当直交代の兵が紙コップのコーヒーを持って歩いていた。すれ違いざまに声をかけられる。

「早いな、レイナー」

「……目が覚めました」

「なら勝ちだ。朝飯、先に行っとけ」

 軽い声。押しつけない距離。アスミは「ありがとうございます」と返して、食堂へ向かった。


 *


 朝の食堂は夜より静かで、スプーンの音がよく響く。

 配膳台の湯気は同じなのに、昨日より人がまばらだった。眠そうな顔の兵が多い。笑い声も小さめだ。天井の照明が夜と同じ明るさで灯っていて、時間の区切りは、人の数でしか分からない。

 席の端に、昨日の通信兵が座っていた。アスミを見ると、片手を上げる。

「おはよう、REDROSE」

「おはようございます」

 返して、アスミはトレーを置く。向かいの席が空いていたので腰を下ろした。

「寝れた?」

 通信兵が、悪気なく聞く。

 アスミはパンをちぎりながら、首を少し傾けた。

「少しだけ」

 リオがトレーを片手に近づいてくる。

「お、REDROSEも早起き組?」

 アスミはリオを見上げて、口の端を上げた。

「起きただけ」

「俺も。海の上だと眠り浅いんだよな」

「揺れは一定じゃない。脳が完全に休まない」

 ユイが後ろから言う。

 リオがユイへ顔を向けて、怪訝そうな顔をした。

「なんでそんな分析すんの」

「事実」

 ユイが真顔で答える。

 リオはその言葉を聞くと、通信兵を見て肩をすくめた。

「ほらな。うちの小隊、朝から理屈」

 アスミは小さく笑う。

「理屈は大事でしょ」

 セリが遅れて入ってきた。髪が少し跳ねていて、目が冴えている。

「やっぱ起きてたか」

「起きてた」

 セリは隣に座り、スープを一口飲んだ。寝不足の話を深く掘らない。掘れない。アスミも、掘られたくない。

 食堂の端で、艦長が部下と短く話しているのが見えた。声は聞こえない。視線だけが、時々こちらに流れてくる。

 アスミはスプーンを置き直して、背筋を伸ばした。


 *


 ブリーフィングルームは、艦内の会議室の一つだった。

 壁のモニターに航路と空域が映る。海図の青が広く、その上に細い線が何本も引かれていた。座席の配置がきっちりしているのに、空気が固くない。壁際に予備の椅子が積まれていて、誰かが後から入っても座れるようになっている。

 席に着くと、前方の担当士官が資料を配り始めた。

「本日の任務は、外周哨戒と輸送艦の護衛。交戦規定は通常通り。想定接触は二件」

 画面の縮尺が変わる。

「この距離なら、民間船のレーダーにも引っかかる」

 淡々とした説明の合間に、質問の時間が挟まれた。

 西方本部なら、ここで誰かが手を挙げて、許可を取って、結論から言って、必要な数字を聞く。そういう手順が先に来た。

 この艦では、違う。手を挙げれば、話せる。遮られない。嫌な顔もされない。

 だからこそ、アスミは喉の奥がひりついた。

 聞きたいことがある。航路の線が、民間航路の端に近い。想定接触の「二件」の内訳が薄い。相手の推定数も、型も、曖昧にまとめられている。

 前の自分なら、もう三回は口を挟んでいるのに。

 指先が、資料の角を押さえる。押さえたまま力が入って、紙が少しだけ折れた。

「想定接触二件って、幅広くね?」

 リオが資料をめくりながら言う。

「情報薄い。型式未確定」

 ユイが視線を落としたまま答えた。

「だから慎重に行く。それだけだ」

 セリが短く言う。

 言ったら、議論になる。議論になれば、時間が伸びる。時間が伸びれば、誰かの顔が変わる。

 そして、もし同じ結果になるなら、自分だけが目立つ。目立っていいことは何もない。

 アスミは資料から視線を上げ、まっすぐ前を見た。

「質問はありません」

 自分の声が、思ったより軽く聞こえた。

 担当士官が頷き、次の項目へ移る。セリが横で、アスミを一度だけ見た。何も言わない。いつもの顔だと思ったのだろう。

 艦長は前に立っていない。最後列の端にいて、必要なところだけ短く頷いている。

 アスミは、その視線が自分の資料に落ちる瞬間を、妙に分かってしまった。


 *


 格納庫は、海上戦艦の腹の中みたいに狭かった。天井の配管が低い位置を走り、塩気の混じった湿った空気が、金属の匂いを鈍くしている。整備用の照明が白く並び、工具の打音とリフトの低い唸りだけが反響していた。

 朝の海は、開口部の向こうで白く霞んでいる。夜のあいだに立った霧が、まだ水面の上に薄く残っていた。水平線がどこにあるか分からない。海と空が同じ色で繋がっている。

 第〇小隊の機体が横一列に並び、脚部ロックが床に固定されていた。人型の輪郭が、静かな獣みたいに影を落としている。

 セリは腕を組み、ヘルメットを抱えたまま機体を見上げていた。表情はいつも通り硬い。硬いまま、視線だけが全員の位置を確認している。

「任務は単純だ。警戒線の維持。余計なことはするな」

 その声は低く、格納庫の天井に吸われるように短く消えた。

 リオはヘルメットを脇に抱え、肩をすくめる。口元だけ笑っているのに、目の奥は真面目だ。

「小隊長、何か起きても俺の事置いていくなよ」

 リオの顔を見て、セリは鼻を鳴らした。

「余計なことしなきゃな」

「はいはい、わかってますよー」

 軽く返しながら、リオは機体の足元を見て、ふと眉を寄せた。床がわずかに揺れている。海のうねりが、艦体を通して伝わってくる。

「……海の上って、なんか落ち着かねぇな」

 ユイは黙って脚部の外装に手袋の指を当てた。表面の結露を指先でこすり取ってから、表情を変えずに言う。

「湿度でセンサー誤差が出る。落ち着かないのは機体も同じ」

「機体も不安がるのかよ」

「不安がるのは人間。機体は数字が狂うだけ」

 ユイの言い方は冷たいわけじゃない。ただ、事実だけを置く言葉だった。

 アスミは、機体の胸部ハッチを見上げたまま、ヘルメットの顎紐を指先で確かめていた。締め直す動作が丁寧すぎる。自分の指が遅れないように、動きを揃えているみたいだった。

「……行こう」

 言葉は短いのに、声は落ち着いている。

 セリはアスミを一瞬だけ見て、何も言わず視線を戻した。言葉を足さないのが、今のセリのやり方だった。

 リオが口元を引き上げる。

「よし。Vectorに会わないうちに帰ってこようぜ」

 ユイが小さく息を吐いた。笑いじゃない。確認みたいな吐息だ。

「同じ空域じゃないって昨日から言ってるのに」

「行くぞ」

 セリが短く言って、コクピットへ乗り込んだ。


 *


 格納庫の警告灯が一段だけ明るく点滅し、発艦準備のアナウンスが淡々と流れた。金属の床が小さく鳴って、海の揺れが一拍遅れて伝わってくる。

「レイナー一等兵。燃料ライン良し」

「了解」

「アンダーソン一等兵。右脚部ロック良し」

「了解」

 呼ばれた名前と返事が、短く積み上がっていく。点検の音が、金具の音に変わる。

 最後の確認を終えてヘルメットを被ると、外の音が少し遠くなった。コクピットに収まった瞬間、アスミの呼吸が整う。

 ここは、手が覚えている場所だ。悩む前にやることがある。

 《REDROSE、システムチェック完了》

 《Alpha2、同じく》

 《了解。発艦準備》

 カタパルトの振動が腹の底に響く。艦内の規則正しさが、そのまま加速になる。

 射出。

 空が、急に広がった。


 *


 雲の層が薄く、遠景がよく見える。

 海は上から見ると、色が均一ではなかった。深い場所は黒に近い藍で、浅い場所だけが緑を含んでいる。その境目が、地図の線みたいにはっきりと伸びていた。誰も引いていないのに、線がある。

 艦の航跡だけが、その上に白く残っていた。長く伸びて、後ろのほうから順に消えていく。走った跡が残らない。地上と違うのは、そこだった。

 輸送艦のシルエットが下を流れていく。甲板の上に人影が二つ、三つ。手を振っているのか、作業しているのかまでは分からない。味方編隊が一定距離で並走し、機体の白い装甲が、朝の光をまっすぐ返している。

 高度を保ったまま、脚部の姿勢制御が細かく働いた。海の上には目印がない。山も、道も、建物もない。基準になるものが計器の中にしかなくて、外を見ても、自分がどこにいるのか分からない。

 ――ここで落ちたら、たぶん何も残らない。

 浮かんだ考えを、そのまま流した。

 哨戒は淡々としていた。

 想定接触は一件だけ発生する。遠距離。識別だけで終わった。相手も、こちらの識別を確認して、進路を変えないまま離れていく。

 指が引き金に触れることもない。それでも、アスミの視界は最後まで硬かった。

 言わなかった。何も起きなかった。

 そういう日のほうが、怖い。

 哨戒が終了し、小隊は静かに帰投ルートへ入る。第〇小隊は縦列で高度を揃えた。

 眼下で、艦の航跡が近づいてくる。白い線を辿っていけば、帰る場所に着く。線が消える前に戻れば、間に合う。


 *


 帰艦後のデブリーフィングは短かった。数字が並ぶ。燃料消費、航跡、速度、通信ログ。

「問題なし。以上」

 担当士官が言い切り、資料を閉じる。

 艦内のデブリーフは、刺す言葉が来ない。だから逆に、何も残らない。

「静かすぎて逆に疲れたな」

 リオがヘルメットを抱えたまま言う。

「何も起きない日は集中が切れやすい」

 ユイが頷いた。

「お前は?」

 セリがアスミに視線を向ける。

 アスミは間を置いて言った。

「……普通」

「ならいい」

 セリはそれだけ返した。

 艦長が最後に立って、短く言う。

「よく戻った。解散」

 それだけだった。褒め言葉でもない。叱責でもない。事実を受け取って終わる声。

 アスミは立ち上がり、姿勢を正して敬礼した。

「了解しました」

 その瞬間、胸の奥に浮いた言葉が喉元まで上がってくる。

 ――今日の想定接触、情報が薄かったです。民間航路に寄りすぎてました。

 言えば通る。たぶん、この艦なら。艦長も、聞くだろう。

 でも、アスミは口を開かなかった。

 理由を自分で言葉にしたくない。言葉にしたら、はっきりしてしまう。自分が何を怖がっているのか。

 部屋を出ると、セリが追いついてきた。

「……今日、静かだったな」

「そう?」

「いつも、何か言うだろ。前のお前なら三回は話止めてたぞ」

 セリの言い方は責めじゃない。確認に近い。

 アスミは、歩幅を合わせて笑った。

「私も同じこと考えた。でも今日は、言うことなかっただけ」

「ふうん」

 セリはそれ以上言わない。本当はアスミの様子がおかしいと思っているのに、言えない話を、自分自身も抱えている。

 寝室区画に戻る手前、通路の角で艦長とすれ違った。艦長は立ち止まらない。ただ、アスミの顔を一度見て、静かに言った。

「レイナー。しっかり時間を取って休め」

「……了解しました」

 アスミは返事をして歩き出す。背中に視線が残るのを、感じた。


 *


 部屋に戻り、端末を開く。明日の予定が並んだ。哨戒、訓練、点検、また哨戒。

 端末を伏せて、ベッドに座る。膝の上に、さっき言いかけた言葉が落ちてきた。

 その言葉を拾わないまま、手のひらを握りしめる。外の通路で、当直の足音が一定の間隔で遠ざかっていった。

 消灯の合図が艦内に流れると、通路の明かりが一段落ちる。扉の下の隙間から差していた白い線が、やわらいだ橙に変わった。それだけで、空気の温度まで変わったように感じる。

 考えた瞬間に、胸の奥が先に反応した。喉が渇く。呼吸が浅くなる。

 アスミは横になった。毛布を肩まで引き上げる。目を閉じる。

 艦の振動が、遠い鼓動みたいに続いている。それに合わせて、頭の中に今日の航跡が浮かんだ。輸送艦の影。民間航路の端。薄い情報。

 ……言えばよかった。

 言葉が勝手に出る。

 次の瞬間、アスミは目を開けた。天井の暗い板が見えるだけなのに、そこに何かが貼りついているみたいだった。

 体を起こし、机に向かう。端末を開くと、画面が点いて、白い光が室内の輪郭を浮かび上がらせた。壁も、ロッカーも、床に固定された椅子も、昼と同じ位置にある。何も動いていないのに、光の色が違うだけで、知らない部屋に見えた。

 ログ。

 航路記録。

 識別情報。

 通信のタイムスタンプ。

 指が勝手に動く。メニューを開き、項目を選び、数値を追う。情報が薄かった部分ほど、余計に確認してしまう。確認しても、何も増えないのに。

 自分の中で、声が小さく繰り返される。

 窓はない。外は見えない。それでも、艦底のほうから伝わる揺れが一定じゃなくて、息が落ち着く場所を探してしまう。

 アスミは画面を閉じて、もう一度ベッドに戻った。目を閉じる。呼吸を数える。四つ吸って、四つ吐く。

 けれど、閉じたまぶたの裏に、さっき見た数字が並ぶ。並んだ数字の間に、言わなかった言葉が挟まってくる。

 ゆっくり起き上がり、枕元の水を飲んだ。喉を通る冷たさだけが、今ここにあるものだった。

 端末をもう一度開く。今度は、明日の予定を表示した。哨戒、訓練、点検、哨戒。

 並んだ文字は整っていて、余白がない。

 その整い方が、少しだけ楽だった。考える場所が狭くなる。

 画面の明るさを最低まで落として、椅子に座ったまま背もたれにもたれた。目を閉じると、まぶたが重くなる気配はある。落ちそうで落ちない。

 通路の向こうで、当直の足音が一定の間隔で通り過ぎた。その音が遠ざかるたびに、換気の唸りと自分の呼吸だけが残る。


 *


 艦長は、巡回記録端末の画面を一つずつ確認していた。消灯時刻。区画ごとの灯りの状態。異常なしの表示。

 寝室区画の一覧に、ひとつだけ残る点がある。消えていない。

 部屋番号と名前を照合した。

 アスミ・レイナー。

 時計を見る。午前二時を少し回っていた。明朝の発艦は早い。睡眠時間は削れる。

 アーロンは立ち上がり、寝室区画の通路に足を向けた。

 通路の灯りは落とされ、足元の誘導灯だけが等間隔に続いている。壁越しに、艦の機関が回る音が低く伝わってきた。眠っている区画でも、船だけは動き続けている。

 途中で止まる。扉の前には立たない。ノックもしない。

 声をかけても、返ってくるのは決まっている。

 大丈夫です。短い、整った返答。

 アーロンは記録端末に指を滑らせ、時刻を残した。灯り、継続。

 それだけを書いて、歩き出す。

 廊下の角を曲がる前に、一度だけ立ち止まった。

 寝室区画の静けさの中に、扉の下から薄い光が滲んでいる。他の扉はどれも暗い。その一本の線だけが、床にまっすぐ伸びていた。

 やはり、睡眠時間が削れている。

 ――レイナー。お前は何を差し出した。

 アーロンは、巡回記録端末に残る一つだけの点を見つめながら、廊下を歩き続けた。


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