Sky64-言わないほう-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
起床音より少し前に、目が開いた。
眠った感覚は薄い。まぶたの裏に夜が残っている。でも、体は勝手に動ける。
洗面台の水は冷たくて、指先が一瞬だけ痛んだ。海水を濾したものらしく、飲まなくても分かる匂いがわずかに混じっている。
鏡の中の自分は、いつも通りの顔をしていた。目の下の影も、笑えば消える程度だ。鏡そのものが艦の揺れで微かに震えていて、映っている輪郭が細かくぶれる。
通路に出ると、当直交代の兵が紙コップのコーヒーを持って歩いていた。すれ違いざまに声をかけられる。
「早いな、レイナー」
「……目が覚めました」
「なら勝ちだ。朝飯、先に行っとけ」
軽い声。押しつけない距離。アスミは「ありがとうございます」と返して、食堂へ向かった。
*
朝の食堂は夜より静かで、スプーンの音がよく響く。
配膳台の湯気は同じなのに、昨日より人がまばらだった。眠そうな顔の兵が多い。笑い声も小さめだ。天井の照明が夜と同じ明るさで灯っていて、時間の区切りは、人の数でしか分からない。
席の端に、昨日の通信兵が座っていた。アスミを見ると、片手を上げる。
「おはよう、REDROSE」
「おはようございます」
返して、アスミはトレーを置く。向かいの席が空いていたので腰を下ろした。
「寝れた?」
通信兵が、悪気なく聞く。
アスミはパンをちぎりながら、首を少し傾けた。
「少しだけ」
リオがトレーを片手に近づいてくる。
「お、REDROSEも早起き組?」
アスミはリオを見上げて、口の端を上げた。
「起きただけ」
「俺も。海の上だと眠り浅いんだよな」
「揺れは一定じゃない。脳が完全に休まない」
ユイが後ろから言う。
リオがユイへ顔を向けて、怪訝そうな顔をした。
「なんでそんな分析すんの」
「事実」
ユイが真顔で答える。
リオはその言葉を聞くと、通信兵を見て肩をすくめた。
「ほらな。うちの小隊、朝から理屈」
アスミは小さく笑う。
「理屈は大事でしょ」
セリが遅れて入ってきた。髪が少し跳ねていて、目が冴えている。
「やっぱ起きてたか」
「起きてた」
セリは隣に座り、スープを一口飲んだ。寝不足の話を深く掘らない。掘れない。アスミも、掘られたくない。
食堂の端で、艦長が部下と短く話しているのが見えた。声は聞こえない。視線だけが、時々こちらに流れてくる。
アスミはスプーンを置き直して、背筋を伸ばした。
*
ブリーフィングルームは、艦内の会議室の一つだった。
壁のモニターに航路と空域が映る。海図の青が広く、その上に細い線が何本も引かれていた。座席の配置がきっちりしているのに、空気が固くない。壁際に予備の椅子が積まれていて、誰かが後から入っても座れるようになっている。
席に着くと、前方の担当士官が資料を配り始めた。
「本日の任務は、外周哨戒と輸送艦の護衛。交戦規定は通常通り。想定接触は二件」
画面の縮尺が変わる。
「この距離なら、民間船のレーダーにも引っかかる」
淡々とした説明の合間に、質問の時間が挟まれた。
西方本部なら、ここで誰かが手を挙げて、許可を取って、結論から言って、必要な数字を聞く。そういう手順が先に来た。
この艦では、違う。手を挙げれば、話せる。遮られない。嫌な顔もされない。
だからこそ、アスミは喉の奥がひりついた。
聞きたいことがある。航路の線が、民間航路の端に近い。想定接触の「二件」の内訳が薄い。相手の推定数も、型も、曖昧にまとめられている。
前の自分なら、もう三回は口を挟んでいるのに。
指先が、資料の角を押さえる。押さえたまま力が入って、紙が少しだけ折れた。
「想定接触二件って、幅広くね?」
リオが資料をめくりながら言う。
「情報薄い。型式未確定」
ユイが視線を落としたまま答えた。
「だから慎重に行く。それだけだ」
セリが短く言う。
言ったら、議論になる。議論になれば、時間が伸びる。時間が伸びれば、誰かの顔が変わる。
そして、もし同じ結果になるなら、自分だけが目立つ。目立っていいことは何もない。
アスミは資料から視線を上げ、まっすぐ前を見た。
「質問はありません」
自分の声が、思ったより軽く聞こえた。
担当士官が頷き、次の項目へ移る。セリが横で、アスミを一度だけ見た。何も言わない。いつもの顔だと思ったのだろう。
艦長は前に立っていない。最後列の端にいて、必要なところだけ短く頷いている。
アスミは、その視線が自分の資料に落ちる瞬間を、妙に分かってしまった。
*
格納庫は、海上戦艦の腹の中みたいに狭かった。天井の配管が低い位置を走り、塩気の混じった湿った空気が、金属の匂いを鈍くしている。整備用の照明が白く並び、工具の打音とリフトの低い唸りだけが反響していた。
朝の海は、開口部の向こうで白く霞んでいる。夜のあいだに立った霧が、まだ水面の上に薄く残っていた。水平線がどこにあるか分からない。海と空が同じ色で繋がっている。
第〇小隊の機体が横一列に並び、脚部ロックが床に固定されていた。人型の輪郭が、静かな獣みたいに影を落としている。
セリは腕を組み、ヘルメットを抱えたまま機体を見上げていた。表情はいつも通り硬い。硬いまま、視線だけが全員の位置を確認している。
「任務は単純だ。警戒線の維持。余計なことはするな」
その声は低く、格納庫の天井に吸われるように短く消えた。
リオはヘルメットを脇に抱え、肩をすくめる。口元だけ笑っているのに、目の奥は真面目だ。
「小隊長、何か起きても俺の事置いていくなよ」
リオの顔を見て、セリは鼻を鳴らした。
「余計なことしなきゃな」
「はいはい、わかってますよー」
軽く返しながら、リオは機体の足元を見て、ふと眉を寄せた。床がわずかに揺れている。海のうねりが、艦体を通して伝わってくる。
「……海の上って、なんか落ち着かねぇな」
ユイは黙って脚部の外装に手袋の指を当てた。表面の結露を指先でこすり取ってから、表情を変えずに言う。
「湿度でセンサー誤差が出る。落ち着かないのは機体も同じ」
「機体も不安がるのかよ」
「不安がるのは人間。機体は数字が狂うだけ」
ユイの言い方は冷たいわけじゃない。ただ、事実だけを置く言葉だった。
アスミは、機体の胸部ハッチを見上げたまま、ヘルメットの顎紐を指先で確かめていた。締め直す動作が丁寧すぎる。自分の指が遅れないように、動きを揃えているみたいだった。
「……行こう」
言葉は短いのに、声は落ち着いている。
セリはアスミを一瞬だけ見て、何も言わず視線を戻した。言葉を足さないのが、今のセリのやり方だった。
リオが口元を引き上げる。
「よし。Vectorに会わないうちに帰ってこようぜ」
ユイが小さく息を吐いた。笑いじゃない。確認みたいな吐息だ。
「同じ空域じゃないって昨日から言ってるのに」
「行くぞ」
セリが短く言って、コクピットへ乗り込んだ。
*
格納庫の警告灯が一段だけ明るく点滅し、発艦準備のアナウンスが淡々と流れた。金属の床が小さく鳴って、海の揺れが一拍遅れて伝わってくる。
「レイナー一等兵。燃料ライン良し」
「了解」
「アンダーソン一等兵。右脚部ロック良し」
「了解」
呼ばれた名前と返事が、短く積み上がっていく。点検の音が、金具の音に変わる。
最後の確認を終えてヘルメットを被ると、外の音が少し遠くなった。コクピットに収まった瞬間、アスミの呼吸が整う。
ここは、手が覚えている場所だ。悩む前にやることがある。
《REDROSE、システムチェック完了》
《Alpha2、同じく》
《了解。発艦準備》
カタパルトの振動が腹の底に響く。艦内の規則正しさが、そのまま加速になる。
射出。
空が、急に広がった。
*
雲の層が薄く、遠景がよく見える。
海は上から見ると、色が均一ではなかった。深い場所は黒に近い藍で、浅い場所だけが緑を含んでいる。その境目が、地図の線みたいにはっきりと伸びていた。誰も引いていないのに、線がある。
艦の航跡だけが、その上に白く残っていた。長く伸びて、後ろのほうから順に消えていく。走った跡が残らない。地上と違うのは、そこだった。
輸送艦のシルエットが下を流れていく。甲板の上に人影が二つ、三つ。手を振っているのか、作業しているのかまでは分からない。味方編隊が一定距離で並走し、機体の白い装甲が、朝の光をまっすぐ返している。
高度を保ったまま、脚部の姿勢制御が細かく働いた。海の上には目印がない。山も、道も、建物もない。基準になるものが計器の中にしかなくて、外を見ても、自分がどこにいるのか分からない。
――ここで落ちたら、たぶん何も残らない。
浮かんだ考えを、そのまま流した。
哨戒は淡々としていた。
想定接触は一件だけ発生する。遠距離。識別だけで終わった。相手も、こちらの識別を確認して、進路を変えないまま離れていく。
指が引き金に触れることもない。それでも、アスミの視界は最後まで硬かった。
言わなかった。何も起きなかった。
そういう日のほうが、怖い。
哨戒が終了し、小隊は静かに帰投ルートへ入る。第〇小隊は縦列で高度を揃えた。
眼下で、艦の航跡が近づいてくる。白い線を辿っていけば、帰る場所に着く。線が消える前に戻れば、間に合う。
*
帰艦後のデブリーフィングは短かった。数字が並ぶ。燃料消費、航跡、速度、通信ログ。
「問題なし。以上」
担当士官が言い切り、資料を閉じる。
艦内のデブリーフは、刺す言葉が来ない。だから逆に、何も残らない。
「静かすぎて逆に疲れたな」
リオがヘルメットを抱えたまま言う。
「何も起きない日は集中が切れやすい」
ユイが頷いた。
「お前は?」
セリがアスミに視線を向ける。
アスミは間を置いて言った。
「……普通」
「ならいい」
セリはそれだけ返した。
艦長が最後に立って、短く言う。
「よく戻った。解散」
それだけだった。褒め言葉でもない。叱責でもない。事実を受け取って終わる声。
アスミは立ち上がり、姿勢を正して敬礼した。
「了解しました」
その瞬間、胸の奥に浮いた言葉が喉元まで上がってくる。
――今日の想定接触、情報が薄かったです。民間航路に寄りすぎてました。
言えば通る。たぶん、この艦なら。艦長も、聞くだろう。
でも、アスミは口を開かなかった。
理由を自分で言葉にしたくない。言葉にしたら、はっきりしてしまう。自分が何を怖がっているのか。
部屋を出ると、セリが追いついてきた。
「……今日、静かだったな」
「そう?」
「いつも、何か言うだろ。前のお前なら三回は話止めてたぞ」
セリの言い方は責めじゃない。確認に近い。
アスミは、歩幅を合わせて笑った。
「私も同じこと考えた。でも今日は、言うことなかっただけ」
「ふうん」
セリはそれ以上言わない。本当はアスミの様子がおかしいと思っているのに、言えない話を、自分自身も抱えている。
寝室区画に戻る手前、通路の角で艦長とすれ違った。艦長は立ち止まらない。ただ、アスミの顔を一度見て、静かに言った。
「レイナー。しっかり時間を取って休め」
「……了解しました」
アスミは返事をして歩き出す。背中に視線が残るのを、感じた。
*
部屋に戻り、端末を開く。明日の予定が並んだ。哨戒、訓練、点検、また哨戒。
端末を伏せて、ベッドに座る。膝の上に、さっき言いかけた言葉が落ちてきた。
その言葉を拾わないまま、手のひらを握りしめる。外の通路で、当直の足音が一定の間隔で遠ざかっていった。
消灯の合図が艦内に流れると、通路の明かりが一段落ちる。扉の下の隙間から差していた白い線が、やわらいだ橙に変わった。それだけで、空気の温度まで変わったように感じる。
考えた瞬間に、胸の奥が先に反応した。喉が渇く。呼吸が浅くなる。
アスミは横になった。毛布を肩まで引き上げる。目を閉じる。
艦の振動が、遠い鼓動みたいに続いている。それに合わせて、頭の中に今日の航跡が浮かんだ。輸送艦の影。民間航路の端。薄い情報。
……言えばよかった。
言葉が勝手に出る。
次の瞬間、アスミは目を開けた。天井の暗い板が見えるだけなのに、そこに何かが貼りついているみたいだった。
体を起こし、机に向かう。端末を開くと、画面が点いて、白い光が室内の輪郭を浮かび上がらせた。壁も、ロッカーも、床に固定された椅子も、昼と同じ位置にある。何も動いていないのに、光の色が違うだけで、知らない部屋に見えた。
ログ。
航路記録。
識別情報。
通信のタイムスタンプ。
指が勝手に動く。メニューを開き、項目を選び、数値を追う。情報が薄かった部分ほど、余計に確認してしまう。確認しても、何も増えないのに。
自分の中で、声が小さく繰り返される。
窓はない。外は見えない。それでも、艦底のほうから伝わる揺れが一定じゃなくて、息が落ち着く場所を探してしまう。
アスミは画面を閉じて、もう一度ベッドに戻った。目を閉じる。呼吸を数える。四つ吸って、四つ吐く。
けれど、閉じたまぶたの裏に、さっき見た数字が並ぶ。並んだ数字の間に、言わなかった言葉が挟まってくる。
ゆっくり起き上がり、枕元の水を飲んだ。喉を通る冷たさだけが、今ここにあるものだった。
端末をもう一度開く。今度は、明日の予定を表示した。哨戒、訓練、点検、哨戒。
並んだ文字は整っていて、余白がない。
その整い方が、少しだけ楽だった。考える場所が狭くなる。
画面の明るさを最低まで落として、椅子に座ったまま背もたれにもたれた。目を閉じると、まぶたが重くなる気配はある。落ちそうで落ちない。
通路の向こうで、当直の足音が一定の間隔で通り過ぎた。その音が遠ざかるたびに、換気の唸りと自分の呼吸だけが残る。
*
艦長は、巡回記録端末の画面を一つずつ確認していた。消灯時刻。区画ごとの灯りの状態。異常なしの表示。
寝室区画の一覧に、ひとつだけ残る点がある。消えていない。
部屋番号と名前を照合した。
アスミ・レイナー。
時計を見る。午前二時を少し回っていた。明朝の発艦は早い。睡眠時間は削れる。
アーロンは立ち上がり、寝室区画の通路に足を向けた。
通路の灯りは落とされ、足元の誘導灯だけが等間隔に続いている。壁越しに、艦の機関が回る音が低く伝わってきた。眠っている区画でも、船だけは動き続けている。
途中で止まる。扉の前には立たない。ノックもしない。
声をかけても、返ってくるのは決まっている。
大丈夫です。短い、整った返答。
アーロンは記録端末に指を滑らせ、時刻を残した。灯り、継続。
それだけを書いて、歩き出す。
廊下の角を曲がる前に、一度だけ立ち止まった。
寝室区画の静けさの中に、扉の下から薄い光が滲んでいる。他の扉はどれも暗い。その一本の線だけが、床にまっすぐ伸びていた。
やはり、睡眠時間が削れている。
――レイナー。お前は何を差し出した。
アーロンは、巡回記録端末に残る一つだけの点を見つめながら、廊下を歩き続けた。
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