Sky63-消えない灯-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
着任から三日、アスミは思っているより早く第七艦隊の生活に馴染んでいた。
艦の揺れにも慣れた。歩くとき、無意識に膝が上下の動きを吸っている。西方本部では一度も使わなかった筋肉だ。
通路の角を曲がると、当直の兵が端末を抱えて立っていた。目が合うと、軽く顎を上げる。
「お疲れ。REDROSE、艦内案内は終わった?」
「はい。迷子にはなってません」
アスミがそう返すと、当直は笑った。
「よし。今日の食堂のシチューは当たり。遅いと底さらわれるぞ」
「……それは急ぎます」
セリが横で小さく笑い、歩幅を速める。
*
食堂は、基地の食堂より狭かった。
天井が近いぶん、声が上に逃げない。皿がぶつかる音、椅子が引かれる音、誰かの笑い声。全部が近い距離で混ざり合って、ちゃんと人がいる感じがした。
長机は床に固定され、椅子も脚だけが床に留められている。艦が傾いても、部屋の中の配置は変わらない。変わるのは、汁物の表面だけだ。誰かの器の中で、シチューが片側へ寄っては戻っていく。
壁際の机はどれも塗装が薄くなり、角の丸みが手の跡で光っていた。
配膳台の前で、炊事担当の兵が腕まくりをしていた。大きな鍋からシチューをすくいながら、流れ作業の手つきでも、目線は一人ずつ見ている。湯気が上がり、天井の照明の光を白く濁らせていた。
「次。……お、噂のREDROSEじゃん」
「噂……?」
「そりゃ噂にもなる。西方本部に来た〝北方の赤い薔薇〟」
言い方は軽いのに、目は探る感じじゃなかった。単に、口が回る人だ。
アスミはトレーを受け取り、肩をすくめる。皿の熱が、指の付け根に伝わってきた。
「その褒められ方は苦手です」
炊事担当兵は笑いながら、パンをトレーに乗せる。
「はは! 素直に褒められとけ、褒められてるうちにな。ほら、パン多めにしとく」
「……ありがとうございます」
隣でセリがトレーを受け取りながら、ぼそっと言った。
「パンで釣られる英雄」
「英雄には栄養が必要なんです」
アスミが返すと、炊事担当兵が笑って、次の皿をよそった。
「栄養なら、もっと取っとけよ」
リオがトレーを持って横から言う。ユイは先に席へ着き、端末を見ていた。
「今日はスクランブル二回。食べないと保たない」
「お前ら、食堂でも作戦かよ」
セリが呆れた声を出す。
席を探していると、昼に案内してくれた若い通信兵が手を振った。隣には整備寄りの制服の男、向かいには医務班らしい女が座っている。空いた席を見つけると、自然に詰めてくれた。基地の距離の詰め方に近い。
「こっち、座る?」
「失礼します」
アスミとセリが腰を下ろすと、医務班の女が言った。
「西方の本部から来たんだよね。……こっちの食事、味薄くない?」
「薄くないです。むしろ、落ち着きます」
アスミはスプーンを入れる。すくった芋が崩れて、汁の中に沈んだ。口に運ぶと、熱が舌に当たって、少しだけ息が漏れる。温かい。
整備の男がセリを見て、肩で笑った。
「お前ら、二人ともパイロットか。羨ましいな」
「羨ましいって言うと、整備班に怒られるぞ」
セリが言うと、通信兵が即座に頷いた。
「怒られる。めっちゃ怒られる。俺、昨日も怒られた」
「何したの」
「工具を……借りて……返すの遅れて……」
言い訳の途中で、整備の男がスプーンを軽く叩いた。
「〝借りたら戻す〟。小さい頃に教えられたろ」
やり取りが、軽い。雑に見えて、ちゃんと相手を見て言っている。
アスミの肩の力が、抜けた。
抜けた、と思った瞬間、背中の奥がひやっとする。
落ち着けない、じゃない。落ち着くのが、怖い。落ち着くと、溜めてたものが落ちてくる。
胸の内側で、何かを落とさないように支えている手がある。ここでそれを離したら、音を立てて崩れる気がした。
スプーンを持つ指に、力が入る。アスミは笑顔を作り直して、会話に戻った。
「当直って、何時交代ですか?」
通信兵が指を折りながら説明を始める。整備の男が途中で補足する。医務班の女が「寝不足の顔したら診療室行きなよ」と言って、冗談みたいに笑った。
「はい」
アスミは返す。普通の声。普通の返事。
セリがシチューを飲み干して、パンで皿を拭うようにして食べた。
「艦の飯、うまいな」
「うん」
セリがちらりとこちらを見る。アスミも気づいたが、視線は合わせなかった。
「西方の本部の食堂、妙に整ってたもんな。味も整ってた」
セリはそこで言葉を切り、アスミの顔を見る。
「大丈夫か」
「大丈夫」
アスミは笑った。口の端だけ。いつもより少し小さい。
食堂を出ると、通路の灯りが白っぽかった。昼の区画は音が減り、かわりに換気の音が耳に残る。
途中の舷側に、小さな丸窓が一つだけあった。厚いガラスの向こうは、もう暗い。海面は見えず、艦の灯りが水に落ちて、細かく割れているのだけが分かる。
壁の低い位置には、非常時の誘導灯が等間隔で灯っていた。船の中は、消える灯りと消えない灯りが、はっきり分かれている。
寝室区画の前には、当直交代の兵が立っていて、端末にチェックを入れていた。
「消灯、二十三時。消えない部屋があったら記録する。以上」
言い方は事務的なのに、視線は柔らかい。アスミとセリを見ると、軽く顎を上げた。
「新入り、迷うなよ」
「努力します」
アスミが返すと、兵は笑って通した。
*
格納庫の開口部から、夕方の海が見えた。
水平線に近い場所だけが橙に灼けていて、そこから手前へ向かうほど、海の色が濃くなっていく。艦が進むたび、その帯が斜めに傾いた。上部ハッチは半分開いたままで、外の光と内側の整備灯が、機体のちょうど胸の高さで境目を作っている。上半分は夕日の色、下半分は白。同じ装甲なのに、二色に分かれて見えた。
海風が入り込み、潮の匂いが油の匂いを一瞬だけ薄める。それも、風が抜ければすぐ戻った。
レンチの当たる乾いた音が梁に反響している。艦がゆるやかに傾くたび、並んだ機体の脚部が、荷重を受け直してかすかに軋んだ。
基地の格納庫では、機体は一度も動かなかった。ここでは、立っているだけで揺れている。
アスミは自分の機体の脚部装甲を見上げながら、ふと口を開いた。
「第七艦隊の海域は落ち着いてますね」
機体の脚に潜り込んでいた整備班の男が、レンチを止める。
「今だけな」
装甲のボルトを指先で確かめながら、肩越しに続けた。
「最近じゃ、この辺よりも帝国側の海域の戦況が悪化してる」
レンチを回す音が、また響き始める。
「みんなそっちに出払ってるよ」
装甲に背を預けていたリオが腕を組んだ。
「いよいよ帝国本土攻める気か」
整備班は鼻で笑った。
「そう簡単じゃねぇよ」
言いながら、脚部の隙間へ手を突っ込んで配線の束を掻き分ける。
「帝国まで行くのに小国群が間にあんだろ。中立の立場の国もある」
整備台に腰掛けていたユイが、端末から視線を上げた。
「ただ押し潰して進める場所じゃない?」
「そうだよ。これ以上難民増やして南半球に送ってみろ」
整備班は肩をすくめた。手だけは止まらない。
「次は南半球からNTOが締め上げられるぞ」
リオが苦笑した。
「また、サン=ラディア辺りが抗議してくるな」
セリが腕を組んだまま口を開く。
「ますます国内の治安が悪化するって?」
「そう。オルタイトを使わない、戦争には参加しない。その代わり、難民が増えて宗教戦争が国内で絶えない」
リオが頷きながら言った。
「ゼルンハイトもオルシアも、難民を受け入れるには限度があるしね」
ユイが端末を見ながら続ける。
セリは足元のカバンから端末を出しながら言った。
「かと言って、簡単に宇宙コロニーに上げられるわけでもない」
リオが機体の脚を眺めてから、顔を上げる。
「コロニーに行けるのは、上流階級と選ばれたやつだけ」
鼻から軽く息を吐いて、言葉を続けた。
「移動させるだけで国家予算超えるしな」
整備班はようやく脚部の下から身体を出し、レンチを肩にかけた。
「こんだけ長く続いてんだ。膠着状態の今が、ある意味一番安定してるかもしれねぇな」
格納庫の奥では、ラジオから軍事ニュースの音が流れている。誰も聞いていないのに、誰も消さない。開口部の向こうで、橙の帯がさっきより細くなっていた。
リオが機体の脚を指差した。
「あ、そこのボルトちょっと緩んでるかも。この間の戦闘で、ちょっと銃当てた」
整備班が振り向く。
「当てたぁ? 西方にいる間に直して貰ってないのか?」
リオが肩をすくめる。
「急な移動で時間が無かったんだよ。なあ小隊長?」
セリが手元の端末を持ち直して操作しながら、短く笑った。
「移動命令のせいにするなよ」
整備班がレンチを握り直す。
「お前らな。海上でVectorに当たったらどうするつもりだ。銃抜いたらネジ飛びました、じゃ笑えねえぞ」
装甲に背を預けていたリオが顔を上げた。
「Vector? 誰だよ」
整備台に腰掛け、端末を見ていたユイが視線だけ上げる。
「ニュース見てない? 第三勢力のエースパイロット」
「ちょっと前にニュースで名前が出たろ? 帝国を叩く〝ARCLINE〟」
整備班はまたレンチを回しながら言った。装甲に工具が当たる乾いた音が響く。
「最近じゃ、軍の中でもちょっとした有名人だぞ」
リオが腕を組んで機体を見上げた。
「へー。小隊長、知ってた?」
整備ログを確認していたセリの手が、止まった。
画面を送る指が、次の項目へ行かない。ほんの一拍だけ。それから、何事もなかったように視線を落とした。
「……さあな」
整備班が、拭き終えたウエスを肩に放った。
「遭遇した奴に聞いたんだけど」
レンチをくるりと回す。
「嫌な逃げ方するらしい」
リオが眉を上げた。
「嫌な?」
「境界線を引くんだよ」
整備班は装甲の継ぎ目を指先でなぞる。爪の先で、塗装の段差を確かめるような動きだった。
「気持ち悪いくらい正確に」
その声が、少し低くなる。
「追ってるはずなのに、気づいたら、こっちが後退してる」
誰もすぐには言葉を返さない。
外の橙は、もうほとんど落ちていた。開口部の縁だけが薄く光を残し、その先は海と空の境目が見えなくなっている。整備灯の白だけが強くなって、機体の影が、艦の揺れに合わせて床の上をゆっくり往復していた。
「それか――」
その瞬間、格納庫の奥で何かが落ちる音がした。整備員の舌打ちが、遠くで響く。
整備班は肩をすくめて言った。
「忽然と消える」
リオの機体の隣で、自分の機体の装甲に触れていたアスミの指先が、そこで止まった。
装甲の冷たさが、掌の下でそのまま止まっている。
「……Vector」
声にならないくらいの音で、その名前が口から落ちた。
なぜ止まったのか、自分でも分からない。ただ、胸のどこかが一度だけ、変な鳴り方をした。
リオが苦笑する。
「会いたくないなー。Vector」
「ARCLINEは帝国を狙ってる」
端末を見たまま、ユイが言った。指が画面を滑る。
「この海域には来ないと思う。遭遇する確率は、かなり低い」
腕を組んだセリが、リオを横目で見る。
「リオ、線引かれても堕ちないように、システム点検もちゃんとしろよ」
わずかに口元を緩めた。
「もしVectorってやつと会っても、俺はお前を置いてくからな」
リオが即座に顔をしかめる。
「それ職務怠慢って言うんだぞ、小隊長」
整備班がレンチを肩にかけ、リオを見て笑った。
「Vectorみたいに、敵にファンが出来るような戦い方しろよ」
リオが苦い顔で笑い返す。
「ファンねぇ……」
上部ハッチから、また海風が吹き込んだ。潮の匂いが油の匂いに混ざる。機体の影が、ゆっくりと揺れた。
海上戦艦は、静かに波の上を進んでいる。
*
夜の海は黒く、甲板の外では絶え間なく波が船体を叩いていた。低い衝撃が鋼鉄を伝い、艦長室の床に微かな振動を残していく。遠くでレーダーの回転音と通信士の報告が交差する。海上展開中の艦隊は、眠らない。
アーロン艦長は、壁面に投影された戦闘ログを静かに見つめていた。スクリーンの光が、波の反射のように横顔を淡く照らす。
「アスミ・レイナーのログは、これで以上か?」
背後で控えていた副官がタブレットを確認し、即座に応じた。
「はい。北方から西方に移ってからの記録、すごいですよね。まだ二ヶ月くらいしか経ってないのに、戦果を上げるスピードが速いです。優秀ですよ、彼女は」
外では風が強まり、アンテナがわずかに軋む音がする。
スクリーンには、赤い識別コード《REDROSE》が並ぶ出撃履歴と戦果。アーロンは視線を落とさず、低く答えた。
「そうだな。非常に優秀だ」
しかし、出動回数が多すぎる。負担もあるはずだ。
海上では常に即応態勢が敷かれている。発艦命令は一瞬で下る。優秀なパイロットほど、呼び出される回数は増える。
副官がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、運用規定が変わったんですよ。NTOの象徴として、彼女が運用変更に同意、署名したらしいですよ」
アーロンの目が、わずかに動く。
「象徴?」
「はい。上層部から通達が来てます。コードネームが付くパイロットは、そうそう現れませんからね。それに、彼女は赤くなるから目立つ」
窓の外で、艦隊灯が波間に揺れていた。暗い海の上で、光はよく目立つ。
アーロンはゆっくりと息を吐いた。
「象徴という名の英雄にするつもりか。上層部がよく使う広報活動だな。レイナーは表に出たがるタイプではなさそうだが?」
副官が小さく肩をすくめる。
「まぁ、そうですね。署名の条件は、REDROSEの戦闘方法を運用に加えないことらしいです」
艦が大きな波を越え、室内が一瞬わずかに傾いた。アーロンは手元の机を軽く押さえながら言う。
「それは、上層部が半分脅したみたいに受け取れるな」
副官が苦笑した。
「毎回、嫌な手を使いますよね」
短い沈黙。波音と、遠くで鳴る発艦準備のアナウンスが、かすかに重なった。
アーロンは再びログへ目を戻す。出撃、帰投、出撃、帰投。整然と並ぶ成功の記録。
彼女自身はどう考えているのか。黙って従っているようにも見える。しかし、今は要観察といったところか。
スクリーンを閉じると、室内は海上特有の暗さに戻った。鋼鉄の艦体の中で、戦争は静かに続いている。その中心に、赤いコードネームがあった。
「……このログ、定期的に回せ。出撃間隔と睡眠時間も添付しろ」
副官が背筋を伸ばす。
「了解です、艦長」
艦長室の扉が、静かに閉まった。
*
部屋に戻ってくると、アスミは上着を脱いでベッドに横になった。
毛布が体温を閉じ込める。暖かい。暖かいのに、息が浅くなる。
目を閉じても、何も消えない。音が残る。食堂の笑い声。鍋の匂い。北方の格納庫の金属音。司令室の写真。西方本部の署名。数字。規定。
眠れない。
時計を見る。消灯から二十分。まだ早い。早いのに、時間が重い。
アスミは起き上がり、水を一口飲んだ。喉が乾いているわけじゃない。動きが欲しいだけだ。金属のコップを置くと、机の上で小さく鳴って、艦の揺れに合わせて縁が一度だけ回った。
端末の画面をつける。点検項目、明日の予定、シミュレーターの時間。文字の列が静かに並んでいる。西方本部の通知より優しい。なのに、胸の中の硬さはほどけない。
画面を消す。消しても、部屋の暗さが増えるだけだった。
しばらくして、通路で足音がした。静かな巡回。一定の間隔。扉の前で一度止まり、端末のタップ音が小さく鳴る。記録だ、と分かる。
アスミは息を殺した。寝ていないのを知られたくない、というより、何かを言われたくなかった。
足音は次の部屋へ移っていく。隣のセリの部屋の前でも止まったが、すぐに離れた。消灯している。
アスミは天井を見た。暗い。何もない。
落ち着くと、喉の奥が詰まる。だから、落ち着けない。
仰向けのまま、身体だけが艦の動きに合わせてゆっくり傾いた。傾いて、戻る。眠っていない身体を、船だけが揺すり続けている。
時計は二時を回っていた。ようやく、まぶたを重くすることを諦めて、息を整えるのをやめる。
息が浅いまま、暗闇に体を沈めた。
遠くでまた足音がして、記録のタップ音が一つ鳴る。
艦長は、きっと何も言わない。
ただ、消えない灯りの時間だけは、静かに数えている気がした。
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