Sky64-言わないほう-
起床ラッパより少し前に、目が開いた。
眠った感覚は薄い。まぶたの裏に夜が残っている。でも、体は勝手に動ける。
洗面台の水は冷たくて、指先が一瞬だけ痛んだ。
鏡の中の自分は、いつも通りの顔をしている。目の下の影も、笑えば消える程度だ。
通路に出ると、当直交代の兵が紙コップのコーヒーを持って歩いていた。すれ違いざまに声をかけられる。
「早いな、古賀」
「……目が覚めました」
「なら勝ちだ。朝飯、先に行っとけ」
軽い声。押しつけない距離。
あすみは「ありがとうございます」と返して、食堂へ向かった。
朝の食堂は夜より静かで、スプーンの音がよく響く。眠そうな顔の兵が多い。笑い声も小さめだ。
席の端に、昨日の通信兵が座っていた。あすみを見ると、片手を上げる。
「おはよう、古賀」
「おはようございます」
返して、あすみはトレーを置く。向かいの席が空いていたので腰を下ろした。
「寝れた?」
通信兵が、悪気なく聞く。
あすみはパンをちぎりながら、首を少し傾けた。
「少しだけ」
「それでも飛ぶんだよなあ……」
「当直も大変ですよね」
「当直は、眠くても死なない。飛ぶのは死ぬ」
冗談めかした言い方で、通信兵は肩をすくめた。あすみは笑った。口の端だけで。
リオがトレーを片手に近づいてきた。
「お、Red Roseも早起き組?」
「起きただけ」
「俺も。海の上だと眠り浅いんだよな」
ユイが後ろから言う。
「揺れは一定じゃない。脳が完全に休まない」
「なんでそんな分析すんの」
「事実」
リオが肩をすくめる。
「ほらな。うちの小隊、朝から理屈」
あすみは小さく笑った。
「理屈は大事でしょ」
セリが遅れて入ってきた。髪が少し跳ねていて、目が冴えている。
「やっぱ起きてたか」
「起きてた」
「……顔は普通」
「普通です」
「なら普通だな」
セリは隣に座り、スープを一口飲む。寝不足の話を深く掘らない。掘れない。あすみも、掘られたくない。
食堂の端で、艦長が部下と短く話しているのが見えた。声は聞こえない。視線だけが、時々こちらに流れてくる。
あすみはスプーンを置き直して、背筋を伸ばした。
*
ブリーフィングルームは、艦内の会議室の一つだった。壁のモニターに航路と空域が映る。
座席の配置がきっちりしているのに、空気が固くない。
席に着くと、前方の担当士官が資料を配り始めた。
「本日の任務は、外周哨戒と輸送艦の護衛。交戦規定は通常通り。想定接触は二件」
「この距離なら、民間船のレーダーにも引っかかる。」
淡々とした説明の合間に、質問の時間が挟まれる。
西方本部なら、ここで誰かが手を挙げて、許可を取って、結論から言って、
必要な数字を聞く――そういう“手順”が先に来た。
この艦では、違う。
手を挙げれば、話せる。遮られない。嫌な顔もされない。
だからこそ、あすみは喉の奥がひりついた。
(聞きたいことがある)
航路の線が、民間航路の端に近い。
想定接触の「二件」の内訳が薄い。相手の推定数も、型も、曖昧にまとめられている。
(聞きたい事はある)
(前の自分なら、もう3回は口を挟んでいるのに)
指先が、資料の端を押さえる。
指先が資料の角をつぶした。紙が少しだけ折れた。
リオが資料をめくりながら言った。
「想定接触二件って、幅広くね?」
ユイが視線を落としたまま。
「情報薄い。型式未確定」
セリは短く言う。
「だから慎重に行く。それだけだ」
いつものなら、口が先に動くはずだった。
(言わない)
言ったら、議論になる。
議論になれば、時間が伸びる。
時間が伸びれば、誰かの顔が変わる。
そして、もし同じ結果になるなら――自分だけが目立つ。
目立っていいことは何もない。
あすみは資料から視線を上げ、まっすぐ前を見た。
「質問はありません」
自分の声が、思ったより軽く聞こえた。
担当士官が頷き、次の項目へ移る。
セリが横で、あすみを一度だけ見た。何も言わない。いつもの顔だと思ったのだろう。
艦長は前に立っていない。最後列の端にいて、必要なところだけ短く頷いている。
あすみは、その視線が自分の資料に落ちる瞬間を、妙に分かってしまった。
*
格納庫は海上戦艦の腹の中みたいに狭く、天井の配管が低い位置を走っていた。塩気の混じった湿った空気が、金属の匂いを鈍くしている。
整備用の照明が白く並び、工具の打音と、リフトの低い唸りだけが反響していた。
第0小隊の機体が横一列に並び、脚部ロックが床に固定されている。人型の輪郭が、静かな獣みたいに影を落とす。
セリは腕を組み、ヘルメットを抱えたまま機体を見上げていた。表情はいつも通り硬い。硬いまま、視線だけが全員の位置を確認している。
「任務は単純だ。警戒線の維持。余計なことはするな」
セリの声は低く、格納庫の天井に吸われるように短く消えた。
リオはヘルメットを脇に抱え、肩をすくめる。口元だけ笑っているのに、目の奥は真面目だ。
「小隊長、何か起きても俺の事置いていくなよ」
「余計なことしなきゃな。」
「はいはい、わかってますよー」
軽く返しながら、リオは機体の足元を見て、ふと眉を寄せた。床のわずかな揺れ――海のうねりが、艦体を通して伝わってくる。
「……海の上って、なんか落ち着かねぇな」
ユイは黙って脚部の外装を手袋の指で軽く叩いた。コン、と鈍い音。彼女は表情を変えず、淡々と言う。
「湿度でセンサー誤差が出る。落ち着かないのは機体も同じ」
「機体も不安がるのかよ」
「不安がるのは人間。機体は数字が狂うだけ」
ユイの言い方は冷たいわけじゃない。ただ、事実だけを置く言葉だった。
あすみは、機体の胸部ハッチを見上げたまま、ヘルメットの顎紐を指先で確かめていた。
締め直す動作が丁寧すぎる。自分の指が遅れないように、動きを揃えているみたいだった。
「……行こう」
言葉は短いのに、声は落ち着いている。
セリはあすみを一瞬だけ見て、何も言わず視線を戻した。言葉を足さないのが、今のセリのやり方だった。
リオが口元を少し引き上げる。
「よし。Vectorに会わないうちに帰ってこようぜ」
ユイが小さく息を吐く。笑いじゃない。確認みたいな吐息。
「同じ空域じゃないって昨日から言ってるのに」
セリは短く言った。
「行くぞ」
格納庫の警告灯が一段だけ明るく点滅し、発艦準備のアナウンスが淡々と流れた。金属の床が小さく鳴って、海の揺れが一拍遅れて伝わってくる。
「古賀一等兵。燃料ライン良し」
「了解」
「アンダーソン一等兵。右脚部ロック良し」
「了解」
呼ばれた名前と返事が、短く積み上がっていく。
点検の音が、金具の音に変わる。最後の確認を終えて、ヘルメットを被ると、外の音が少し遠くなる。
コクピットに収まった瞬間、あすみの呼吸が整った。
ここは、手が覚えている場所だ。悩む前にやることがある。
《REDROSE、システムチェック完了》
《アルファ2、同じく》
《了解。発艦準備》
カタパルトの振動が腹の底に響く。
艦内の規則正しさが、そのまま加速になる。
射出。
空が、急に広がる。
哨戒は淡々としていた。
雲の層が薄く、遠景がよく見える。輸送艦のシルエットが下に流れ、味方編隊が一定距離で並走する。
想定接触は一件だけ発生した。遠距離。識別だけで終わった。
指が引き金に触れることもない。
それでも、あすみの視界は最後まで硬かった。
(言わなかった)
(何も起きなかった)
そういう日のほうが、怖い。
哨戒が終了し、小隊は静かに帰投ルートへ入った。
第0小隊は帰投隊形を取る。機体は縦列で高度を揃えた。
*
帰艦後のデブリーフィングは短かった。
数字が並ぶ。燃料消費、航跡、速度、通信ログ。
「問題なし。以上」
担当士官が言い切り、資料を閉じる。
本部なら、ここで一言刺さる。
「当然だ」「標準だ」「次はこの数値を上げろ」――そんな言い方が先に来る。
艦内のデブリーフは、刺す言葉が来ない。だから逆に、何も残らない。
リオがヘルメットを抱えたまま言う。
「静かすぎて逆に疲れたな」
ユイが頷く。
「何も起きない日は集中が切れやすい」
セリはあすみに視線を向ける。
「お前は?」
あすみは少しだけ間を置いて言う。
「……普通」
セリは「ならいい」とだけ返した
艦長が最後に立って、短く言った。
「よく戻った。解散」
それだけだった。
褒め言葉でもない。叱責でもない。事実を受け取って終わる声。
あすみは立ち上がり、姿勢を正して敬礼する。
「了解しました」
その瞬間、胸の奥に浮いた言葉が喉元まで上がった。
――今日の想定接触、情報が薄かったです。
――民間航路に寄りすぎてました。
言えば通る。たぶん、この艦なら。
艦長も、聞くだろう。
でも、あすみは口を開かなかった。
理由を自分で言葉にしたくない。
言葉にしたら、はっきりしてしまう。自分が何を怖がっているのか。
部屋を出ると、セリが追いついてきた。
「……今日、静かだったな」
「そう?」
「いつも、何か言うだろ」
「前のお前なら三回は話止めてたぞ」
セリの言い方は責めじゃない。確認に近い。
あすみは、歩幅を合わせて笑った。
「私も同じこと考えた。」
「でも今日は、言うことなかっただけ」
「ふうん」
セリはそれ以上言わない。言えない話を、彼自身も抱えている。
寝室区画に戻る手前、通路の角で艦長とすれ違った。
艦長は立ち止まらない。ただ、あすみの顔を一度見て、静かに言った。
「古賀。しっかり時間を取って休め」
「……了解しました」
あすみは返事をして歩き出す。
背中に視線が残るのを、感じた。
部屋に戻り、端末を開く。
明日の予定が並ぶ。哨戒、訓練、点検、また哨戒。
端末を伏せて、ベッドに座った。
膝の上に、さっき言いかけた言葉が落ちてくる。
その言葉を拾わないまま、手のひらを握りしめる。
外の通路で、当直の足音が一定の間隔で遠ざかっていった。
消灯の合図が艦内に流れると、通路の明かりが一段落ちた。
白い光が、やわらいだ橙に変わるだけで、空気の温度まで変わったように感じる。
(眠れない)
考えた瞬間に、胸の奥が先に反応した。
喉が少しだけ渇く。呼吸が浅くなる。
あすみは横になった。
毛布を肩まで引き上げる。目を閉じる。
艦の振動が、遠い鼓動みたいに続いている。
それに合わせて、頭の中に今日の航跡が浮かぶ。輸送艦の影。民間航路の端。薄い情報。
(……言えばよかった)
言葉が勝手に出る。
次の瞬間、あすみは目を開けた。
天井の暗い板が見えるだけなのに、そこに何かが貼りついているみたいだった。
体を起こし、机に向かう。
端末を開く。画面が点き、白い光が室内の輪郭を浮かび上がらせた。
ログ。
航路記録。
識別情報。
通信のタイムスタンプ。
指が勝手に動く。メニューを開き、項目を選び、数値を追う。
情報が薄かった部分ほど、余計に確認してしまう。確認しても、何も増えないのに。
(目が冴える)
自分の中で、声が小さく繰り返される。
窓はない。外は見えない。
それでも、艦底の方から伝わる揺れが一定じゃなくて、息が落ち着く場所を探してしまう。
(考えるな)
あすみは画面を閉じて、もう一度ベッドに戻った。
目を閉じる。呼吸を数える。四つ吸って、四つ吐く。
けれど、閉じたまぶたの裏に、さっき見た数字が並ぶ。
並んだ数字の間に、言わなかった言葉が挟まってくる。
あすみはゆっくり起き上がり、枕元の水を飲んだ。
喉を通る冷たさだけが、今ここにあるものだった。
端末をもう一度開く。
今度は、明日の予定を表示した。哨戒、訓練、点検、哨戒。
並んだ文字は整っていて、余白がない。
その整い方が、少しだけ楽だった。
考える場所が狭くなる。
画面の明るさを最低まで落として、あすみは椅子に座ったまま背もたれにもたれた。
目を閉じると、まぶたが重くなる気配はある。落ちそうで落ちない。
通路の向こうで、当直の足音が一定の間隔で通り過ぎた。
その音が遠ざかるたびに、換気の唸りと自分の呼吸だけが残った。
*
艦長は、巡回記録端末の画面を一つずつ確認していた。
消灯時刻。区画ごとの灯りの状態。異常なしの表示。
寝室区画の一覧に、ひとつだけ残る点がある。
消えていない。
部屋番号と名前を照合する。
古賀あすみ。
艦長は時計を見た。
午前二時を少し回っている。明朝の発艦は早い。睡眠時間は削れる。
艦長は立ち上がり、寝室区画の通路に足を向けた。
途中で止まる。扉の前には立たない。ノックもしない。
声をかけても、返ってくるのは決まっている。
「大丈夫です」。短い、整った返答。
艦長は記録端末に指を滑らせ、時刻を残した。
灯り、継続。
それだけを書いて、歩き出す。
廊下の角を曲がる前に、艦長は一度だけ立ち止まった。
寝室区画の静けさに、薄い光が滲んでいる。
(やはり、睡眠時間が削れている)
ーー古賀、お前は何を差し出した。
アーロンは、巡回記録端末の一つだけ残る点を見つめながら
廊下を歩き続けた。
次回は3/13 0時頃更新になります




